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2023年2月26日 (日)

東条英機暗殺計画

 
コレはさすがにビックリした。
今はまだ2月の中旬だけど、早くも2023年で一番の「ビックリ」が決定したのではなかろうか?
今日は2月26日。
今から87年前、「五一五事件」から4年、皇道派の陸軍青年将校が時の蔵相高橋是清らを暗殺したクーデター事件未遂が発生した日。
そんな日に関連した1編。
 
それは私の高校の卒業アルバムからスタートする。
1980年の卒業…古い人間ですな~。
私の母校は明治大学付属中野高等学校。
現在は男女共学になっているようだが、当時は男子校だったので男ばっかりだった…って当たり前か。
今なら考えただけでもゾっとするけど、学校は好きだったナァ。
とても楽しかった。
私は中学の時からこの学校に通わせてもらっていたのだが、こんなバカ息子に月謝を出し続けてくれた親には心の底から感謝している。
同時にロックにズップリとハマってしまい、ギターばっかり弾いていて全く勉強しなかったことを大変後悔している。
「もっと本を読んでおけばヨカッタなぁ」と思いもするが、ま、今は「芸」が身を助けているところもあるかな?
  
さて、この卒業アルバムの中には、世間で顔が知られているヤツが載っている。
毎朝コメンテイターとしてテレビのモーニングショウに出ている元バレーボール選手、世間を騒がす大犯罪を犯した廉でもうこの世にいないヤツ、「お父さんも子育てに積極的に参加しよう」という社会運動で一時テレビに出ていたヤツ、恐らくは今日本で一番大きなスポーツ用品店の社長、そして、ナゼかMarshallに潜り込んで働いているヤツ等々。
もうひとりスゴいヤツいたことにをつい先日知った。
多分、一番スゴイわ。
そのことについて書いてみた。
ホント、ビックリしたよ。
10本題に入る前に…この学校にはスゴイ先生もいらっしゃったことにまず触れたいと思う。
下の写真のメガネをおかけになった先生…あ、全員メガネをかけていらっしゃる…。
では、アタマの薄い先生…あ、全員薄くていらっしゃる…。
しかしね~、考えてみると真ん中の校長先生は別として両側のお2人は、今の私より当時はお若かったハズなんだよね。
信じられんわ~。
校長先生は初代校長、すなわち創立者だった。
もうすぐ創立100年を迎えると聞いた。
この校長先生は挨拶が長くてネェ~。
全校朝礼が大キライだった。
そして、向かって左の石塚義一郎先生。
チョット前にこの方にも驚いた。20下は私の愛読書にして「社会」と「音楽」の参考書のウチの1冊。
中村とうよう先生の50年前のエッセイを綴った1冊『地球のでこぼこ』に石塚先生のお名前が登場しているのだ。
この本は、政治とエンタテイメントについて「今の世の中はおかしい」と思っている人にはゼヒ読んで頂きたい。
絶望的な気分になること間違いなし!
30石塚先生は歴史を教えていらっしゃって、とてもお話の好きな方だった。
授業の冒頭に落語や三橋美智也の話をしてくださるのだが、生徒にはそんな話がオモシロいワケがない。
「それじゃ…手を机の下に下ろしてごらん」と授業の始めにおっしゃる時は絶望的な気分になった。
「ガキども!耳の穴をかっぽじってオレの話をジックリと聞きやがれ」…という合図なのだ。
きっと先生はそのご講話が落語の「枕」ほどぐらいのことだと思っていらっしゃったのであろうが、時に30分以上もそうした話が続くことがあった。
私は中学の時にも石塚先生に歴史を教わったのだが、その長話のせいで中学も高校も江戸時代の半ばぐらいまでしか授業を進ませることができず、結局、学生時代に近代と現代の歴史を授業の中で学ぶことはなかった。
その時はナンとも思わなかったが、自分の子供に授業料を払う立場になってみると「チャンと授業料は収めているんですけどね~」のひと言も言いたくなる。
ま、歴史は興味を持って自主的に学んだ方が間違いなく楽しいけどね。
さて、とうよう先生の言を借りると、石塚先生は「瞽女(ごぜ)のかなりの研究者」だというのだ。
石塚先生が「瞽女」の話を授業でされた記憶は全くないし、たとえお話をされていても聴いていたワケがないのだが…耳の穴をかっぽじくので、今ゼヒそのお話を拝聴したいと思っている。
Is_2 「瞽女」というのは、越後の高田地方を中心に存在した盲目の女性旅芸人のこと。
「芸人」といっても「門付け」といって、民家の玄関先で歌や三味線といった芸を披露してわずかばかりの金銭や食料を恵んでもらう。
時には春を鬻ひさぐこともあった。
水上勉の原作を岩下志麻の主演で映画化した『はなれ瞽女おりん』という作品をご覧になった方もいらっしゃるだろう。
私は岩下志麻の大ファンだけれど、コレは受け付けなかったナ…。
『心中天網島』もそうなんだけど、どうも篠田さんの映画ってニガテなんだよナァ。Gz_2
一方、男性では津軽地方を中心に「ボサマ」と呼ばれる盲目の旅の門付け芸人がいた。
高橋竹山がそう。
林隆三が竹山を演じた新藤兼人監督の『竹山ひとり旅』という映画は有名。
乙羽信子の大ファンの私としてはなかなかヨカッタ。
こうした門付け芸人が集落の人々を神社の境内に集めて演奏するようになり、それがやがて専門の小屋で披露するようになったのが日本のショウビジネスのひとつの歴史らしい。
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一方、校長先生の向かって右隣りは数学の佐藤健一先生。
高校2年の時の私のクラスの担任で、寡黙で身体がとても大きく、『バビル2世』の「ポセイドン」なんてアダ名が付けられていた。
とてもコワい先生でね~。
いつは冷静なんだけど、コレぞ!という時に強烈な暴力をふるって完璧な恐怖政治を布いていた。
教師の暴力がOKだったからね。
当時、出来たばかりの吉祥寺のシルバーエレファントに出演したくて学校の創立50周年式典をサボってしまったことがあってそれがバレてしまったことがあった。
佐藤先生の判決は「ボウズ」…つまり頭を丸めさせられたわ。
また、自分たちのバンドの自主コンサートのチケットを学校の中で売っていることがバレてしまった。
この罪の判決は「親呼び出し」だった。
面談した母によれば、佐藤先生はチケットの販売は断罪したものの、私のバンド活動に理解を示し、至極紳士的かつ寛大な態度で面談に臨まれたらしい。
卓球部の顧問をされていて、当時私が住んでいた近くにある高校で開催された試合に付き添いでお見えになられたことがあった。
友人が出場するので応援に行くと、帰り際に「ゴハンでも食べよう」と駅前の西友のレストランに入り「何でも好きなモノを食べなさい」とごちそうしてくれた。
アレをクラブの活動費で支払ったのかどうかは知らないが、そんなこともあって私は結構佐藤先生が好きだった。St_2 その好きな理由は食事をごちそうしてくださったからではなく、佐藤先生は関孝和を中心とした「和算」の研究家で『多摩の算額』という著書を上梓していたからだ。
私は先生のその理知的なところに惹かれた。
この本が上梓されたのが1979年…まさに私のクラスを担任されていらっしゃった時のこと。
仲のよい友達の家が偶然この出版社に近かったことより私も便乗して1冊入手した。
中身はサッパリわからなかった。
先生がこの本を出したことを自慢していたような記憶が一切ないのだが(ココがまたカッコいい)、どうやってその情報を得ることができたのか今になってみると不思議である。
40b「和算」というのは昔の「数学」のことね。
「数学」という学問は、ニュートンやダーウィン、近い所ではアラン・チューリングを輩出している「イギリスが世界最強」とされているやに聞いたことがあるが、新田次郎と藤原ていの息子の数学者、藤原正彦先生の著書によると、江戸年間、日本の「和算」の学問レベルは世界の最高峰レベルだったらしい。
『塵劫記(じんこうき)』なんてのは有名だもんね(コレは佐藤先生に教わったような気がする)。
関孝和というのはその「和算」の大家だった。
下のオジちゃんね。
文学もそうなんだよ。
シェイクスピアがいるもんだからイギリスが「世界最高の文学国」と思われがちだけど、ナンのナンの、何と言っても世界で最も早くから最高度の文学作品を生み続けて来ているのはこの日本なんですよ。
そして、今では本を全く読まないバカモノの多さでも世界最高峰の国になってしまったと言えるのではなかろうか。
St_3 で、この和算に取り組んだ人たちはその研究結果を額に収めて神社に奉納した。
要するに「神様のおかげさまでこうした結果を導き出すことができました!」という感謝の報告ね。
コレが「算額」。
そのウチ、コレが昂じて神社で「和算選手権」なんてことが催されるようにもなったらしい。
佐藤先生はご自分の住まいに近い多摩地区の神社に奉納されている算額を集めては研究を重ね、1冊の本を編纂したというワケ。50 
さて、ココから本題。
コレが3年生の時の私のクラス、「K組」。
スゴイでしょ、A、B、C、D…でKが最後なんだけど11もクラスがあった。
1クラスが約60人。
1学年660人の大所帯だった。
冒頭に記したその「ビックリ」の元は最後列の一番左の生徒。
名前を「津野田〇重」くんという。70_4 コレが高校3年生の私。
とにかくこの頃はロック・ギタリストになりたかった!
ところが、この学校は長髪厳禁でね~。
伸ばしたくて伸ばしたくてしょうがなかった。
この時から40年とチョット…もう伸ばす髪の毛もありゃしねえわ。
80津野田くんは「アリス」のようなフォーク・ミュージックが好きでよくオリジナル曲を作っていた。
ところが譜面の書き方を知らないので、まずノートに歌詞を書いて、その文字に音程の高低を表す線を引くという至極原始的、かつ不正確な手法を採っていた。
その頃私は学校で一番ギターがうまいことで知られていた(自称)ので、津野田くんからよく「譜面の書き方を教えて欲しい」と頼まれた。
実は私もその頃は譜面が読み書きはできなかったんだけどね。
その程度の交わりはあったものの、普段付き合うグループが別だったので彼について詳しいことは知らなかった。
我々が高校3年生だった1980年に仲代達矢の主演で『二百三高地』という映画が公開された。
さだまさしの「♪山は哭きますか?海は哭きますか?」という曲が主題歌に採用されて話題になったのでご存知の方も多いだろう。
山や海は「哭き」も、「泣き」もしないよ。
ある時、津野田くんが私にこう言ったことがあって、それがすごく印象に残った。
「この映画で出て来る『津野田少将』ってボクのおジイちゃんなんだよね」
つまり、津野田くんのおジイちゃんが映画の中のひとつの役どころになっていて、木村四郎という役者が演じているというワケ。
この時はナニも知らなかったので「スゲエじゃん?」ぐらいに答えた程度だったと思う。
何しろ誰かのせいで歴史の授業は明治時代まで到達しないから!
75vfその津野田さんというのは、津野田是重という陸軍少将で、参議院議員まで務めたという。
スゴイよ。
何せ陸軍士官学校を首席で卒業し、陸軍大学校でも優秀な成績を修めたというんだから。
そして、陸軍参謀として日露戦争に出征した。76v『二百三高地』というのは、例の軍艦「三笠」を旗艦とした日本海軍が「日本海海戦」においてバルチック艦隊を撃破したことにより、日本陸軍が中国の旅順に陣取ったロシア軍を駆逐し、日露戦争を勝利に導いた戦いを映画化した作品。
 
ココでまたグダグダ旅順攻略と日露戦争の後始末について書こうかと思ったどヤメた。
コチラさんざん書いておいたので興味のある方にはゼヒご覧頂きたいと思う。
「脚気」の話しまでしておきました。
 
【Marshall Blog】私の横須賀
【Shige Blog】<スピンオフ>私の横須賀
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津野田くんに戻って…。
彼はこうも言っていた。
「ウチの家系は軍人で、お父さんも軍人だったんだ。
お父さんはもう70歳近いんだけど、今でも相撲を取ると全く敵わないんだよ」
上の集合写真を見ればわかる通り、津野田くんは身長が180cm近くあるだけでなく、肩幅が広く、とてもガッチリとした身体つきだった。
それでもご高齢のお父さんに一発で投げ飛ばされてしまうというのだ。
しかし…70歳近いとは?
津野田くんに上の兄弟が何人いたのかは知らないが、この時、私の父は47歳だからね。
  
そして、話は今。
以前は海外に行く時に空港の売店でよく文藝春秋を買って飛行機の中や滞在先のベッドの上で読んだものだった。
この1月、「創刊100周年」だっていうので3年ぶりに買ってみた。90b保坂正康さんの『両陛下に大本営地下壕をご案内いただく』という記事が出ていた。
「大本営地下壕」というのは長野の松代のトンネルではなくて、終戦に関する会議が開かれた皇居内に作られた防空壕のこと。
平成天皇のご案内で保坂さんや亡くなった半藤一利さんがその地下壕を見学した時の手記。
コレを読み進めていくウチに冒頭の「ビックリ」にブチ当たった。100それは下の写真の赤線の個所。
「大本営参謀になった、津野田知重から計画を知らされた三笠宮が貞明皇后に相談したために計画が漏れ…」とある。
コレ、何の計画かと言うと「東条英機の暗殺計画」だっていうワケ。
チョット待て!
「津野田知重」って津野田くんのお父さんじゃないのか?
おじいちゃんは「是重」、そしてこの暗殺事件の首謀者は「知重」。
津野田くんも「〇重」。
完全にシリーズになってるじゃん!
オイオイ、私の友達のお父さんは東条英機を殺そうとしていたのかよッ!
にわかには信じられず、チョット調べてみることにした。110まずは関連の書籍。
『秘録 東条英機暗殺計画(河出文庫刊)』という1冊を発見して早速アマゾンにオーダーした(この事件に関する本はたくさん上梓されています)。
この本の著者は津野田忠重さん。
この方も「〇重」…それもそのハズ、津野田知重さんのお兄さん、となると津野田くんの叔父さんになる。
略歴を拝見すると、知重さんは旧制麻布中学から法政大学に進み、長野の信濃毎日新聞社勤務を経て著述業に就かれた。
そして「津野田是重少将のご子息」とある!
一瞬、「津野田くんのお父さんはこの忠重さんか?」とも思ったが、どうも軍籍はなかったようなので、いよいよ知重さんがお父さんだったと考えてよさそうだ。
「軍人=相撲強し」とということにも符合するし。
コリャすごいことになってきたぞ!130ちなみに、忠重さんが信濃毎日新聞社(以下「信毎」)にお勤めだったというのは、お父さんの津野田是重さんの後妻が小坂善之助のお嬢さんだったからのようだ。
「小坂家」というのは、長野ではケタはずれの名門で、善之助は衆議院議員を務め、信毎の基礎を固める傍ら電力業を営み、日本勧業銀行(後の第一勧業銀行、現みずほ)の副頭取を務めた人。
伊藤博文の大親友で、伊藤が長野に来ると家で歓待したという。
そして、息子の善太郎も衆議院議員で信越化学工業の顧問を務めた。
私が長野に住んでお堅い仕事をしていた時分には地元の実業家の皆さんからよく「小坂善太郎」の名前を聞かされたものだった。
ウチも長野に住んでいた時は「信毎」を取っていたわ。

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そして善之助の孫は2016年に急逝した衆議院議員の小坂憲次だった。
親子3代衆議院議員。
世襲スタイルのモデル・ケースですな。
ウチの下の子は小さい頃、とても色が白く、髪の毛がオレンジ色でよく他の子どもから「外人の赤ちゃん」と呼ばれていた。
ナニかのイベントの時、憲次さんがお見えになっていて、たまたまウチの子が目に入って近づいていらした。
ナニをするのかと思ったら、そのオレンジ色の髪の毛をゴシゴシ触ってこうおっしゃった。
「ナンだ…思ったより硬いんだな…」
大笑いしたわ。
210vさて、また話を戻して…。
昭和19年になると日本の敗戦が色濃くなっていったが、時の総理大臣東条英機はその座に居座り、「一億総玉砕」を決め込み、日本がどうなろうとも全く退く気配がない。
このままでは、本当に英米に本当に滅ぼされてしまうと考え、この国を救うために津野田知重は東条英機の暗殺を企てた。
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知重さんの写真というのがインターネットで全く見つからない。
そこで、忠重さんの著書から昭和18年の出征の時に撮影したという写真を拝借。
高校の時の津野田くんソックリなのよ。
忠重さんは出征して陸軍参謀本部に配属になり、あの辻政信と一緒に仕事をしていたらしい。Tsg_2他にインターネットで出て来るのは上海で撮ったという下の1枚。
左から今田新太郎(陸軍少将)、牛島辰熊(柔道家)、浅原健三(石原莞爾の親友の労働活動家)津野田知重。
知重はこうした人たちと計画を練っていった。160気になったのはこの牛島辰熊という柔道家。
まず名前があまりにもスゴイ!
そして、「鬼の牛島」と異名を取るほどの当時の最強の柔道家だった。
加えてルックスがやたらとカッコいい。
この顔立ちはどう見ても混血だったんだろうな。140v計画は当時新開発の青酸ガスの爆弾を皇居の二重橋で投げつけて東條を殺害するというストーリーだった。
知重さんは当時鶴岡で隠棲していた天才作戦家石原莞爾の元を訪れ作戦の説明をし、大賛同を得たという。
ちなみに石原莞爾がこの時住んでいたのは高山樗牛の生家だったそうな。150vそして、皇室内閣の成立を目指していた知重さんは三笠宮殿下を味方につけようと計画を持ち掛ける。
ところが、三笠宮様はこの計画を関係者に打ち明けてしまい計画が未遂に終わってしまった。
当然、知重さんは軍法会議にかけられ重い処分が下されるところだったが、結審したのが東條内閣崩壊後だったため、陸軍から免官され、執行猶予付きの禁固刑が申し渡されるに留まった。
この時代、東條暗殺を企んだのは津野田くんのお父さんだけではなかったという。
知重さんは三笠宮様のことを大変残念に思ったそうだが、戦後和解したそうだ。160v津野田くんのお父さんは終戦後実業界で活躍し、アメリカから電波の権利を買い取って東京12チャンネル(現テレビ東京)の開局にも尽力したという。
そして1987年に他界された。
 
以上のことを当時ご存知だった先生っていらっしゃったのかしらん?
津野田くんの仲の良い友達は知っていたのかな?
アナタの周りにもスゴイ人が隠れているかも知れませんよ。
しかし、ナゾがひとつ残るんだよね。
津野田くんのようなものすごい良家の人が何で明大中野に通っていたのかね?
ココは学習院なんじゃないの?

以上。