Shigeの日本旅行記 Feed

2024年1月11日 (木)

草津よいとこ…その後マイった!<その2>~衝撃!日本のアウシュビッツ

   
さて、ベルツ先生に別れを告げていよいよ「日本三名泉」のひとつとされる草津温泉へ。
家内は初めて、私は10歳ぐらいの時に父に連れられてスキーに来た時以来だから50年ぶりだわ。
370 草津といえばこの「湯畑(ゆばたけ)」。
硫黄のニオイがプンプン!
20_2それにしても50年前にこの光景を目にした記憶が全くないのはナゼだろう?
せっかちな父のこと、きっと温泉街には近寄りもせず町はずれの「サンバレー」というホテルに一泊してスキーを存分に楽しんだ後、サッサと私を連れて東京へ帰ってしまったのであろう。
10_2他にナニもすることがないので湯畑の周りをグルリと歩いてみる。
地面がなかなかイカしていてね、モルタルに瓦を埋め込んで模様を施してある。
60_2コレらの瓦は取り壊された古い旅館に使われていたモノなのか?
だとすればとてもステキなことだ。
50_3「♪草津よいとこ一度はおいで お湯の中にも 花が咲くよ」
「♪お医者様でも草津の湯でも~ ホレた病は治りゃせぬよ」
通路には「草津節」の歌詞が彫り込まれている。
ああ、草津の湯でも治らない「恋の病」をしてみたい…ウソ。
「老いらくの恋」なんてメンドくせえわ。
40_2草津温泉って湯の自然湧出量が日本一なんだってね。
1日にドラム缶約23万本分もの温泉が湧き出しているおかげで盛大に「源泉かけ流し」ができるんだって。
で、この「湯畑のシンボル」とでも呼べそうな7本の樋はナンのためのものか…。0r4a0045まずは、50度以上の源泉を空気に触れさせて温度を下げるため。
水で薄めると温泉の成分が薄まってしまうので、ココで冷やしてから各施設へお湯が送られて行くんだって。
「ぬめり」の反対だ。
70_2源泉は樋を通って、最後は「湯滝」から流れ落ち各浴場へと供給される。
80_3湯樋のもうひとつの役割は「湯の花」を採取することなのだそうだ。
樋に沈殿した湯の花を年に4回採取してお土産物店や一部の旅館で販売している。
子供の頃、湯治場として有名な新潟の「燕温泉」に毎年スキーをしに行っていた。
定宿だった「花文」という旅館の風呂のお湯がゴミだらけで子供ながらにすごくイヤだったのね。
もちろんそれは「ゴミ」などではなく、名湯が誇る「湯の花」だったワケ。
「湯の花」と聞くといつもあの旅館のことを思い出す。
30_3下の写真の右下に移っている木の枠があるでしょ?
八代将軍吉宗や十代将軍家治はこの枠の中のお湯を樽詰めにして江戸城へ運ばせたんだってよ。
この湯枠は八代将軍吉宗が汲み上げた際のオリジナルだそう。
それほどのお湯だけに、古来色んな人が草津を訪れている。0r4a0011_2周囲に設置された石柱にはそうして草津を訪れた著名人の名前がズラリと彫り込まれている。
コレは各宿の宿帳をヒックリ返して調べたのかしらん?
例えば、武満徹は1985年、東山魁夷は1988年に訪れている…らしい。90_2菊池寛は1933年、石川達三は1935年、そして林芙美子は1937年に来たんだって。0000r4a0015 今井正は1954年。
『ひめゆりの塔』や『にごりえ』を撮った翌年。
下は3年前にその『ひめゆりの塔』を観に行った時に舞台あいさつでご登壇された主演の香川京子さんの著書に頂いたサイン。
私は香川さんのファンなのでとてもうれしかった。
大事な宝物のひとつ。
香川さんは今井正、小津安二郎、黒澤明、溝口健二、成瀬巳喜男といった世界に名だたる日本の映画監督とお仕事をされた大女優のひとりなのです。
10_hy 一方、木下恵介と田中絹代は1945年。
この前の年に2人は『陸軍』というプロパガンダ映画で一緒に仕事をしている。
それの打ち上げかな?…と思いたくもなるが、1945年といえば敗戦の年だからね~。
そんなことができる余裕はなかったであろう。00000r4a0021 この『陸軍』という映画はとてもいいですよ。
赤紙が来たらお国のためにスムーズに応召してくださいよ…という戦意高揚のための映画なんだけど、木下さんはクライマックスのシーンで息子を戦地に送り出す母親役の絹代さんの姿をジ~ックリ撮って結果的に反戦映画に仕立て上げてしまった。
「日本映画史上最高の女優」と言われているだけあって、絹代さんの完璧以上の演技に心を打たれない者はいないであろう。Rg先日、新藤さんが絹代さんの伝記を書いていることを知り即刻アマゾンにオーダーして一気に読んだ。
やっぱりスゴイ人の人生はスゴイね。
絹代さんは1909年の生まれ…明治42年。
生誕地の下関には「田中絹代ぶんか館」という施設があるので、いつか下関を訪れてみたいと思っている。
ところで、私が子供の頃は「明治生まれの人」って珍しくも何ともなかったんだよね。
明治の末年に生まれた人は、私が生まれた時にはまだ52歳だったんだから当然だ。
そもそも祖父や祖母が普通に「明治の人」だったし…。
今年は昭和の元年に生まれた人が99歳だからね。
結果…自分の古さにビックリしてしまう。
来年は昭和100年か!
Tk石柱の人物もグッと古くなって…
良寛和尚は1627年。
シーボルトの高弟だった高野長英は1830年だそうだ。
ホンマかいな。00000r4a0058高野長英は何度もMarshall Blogにご登場頂いているが、長崎の「鳴滝塾」でシーボルトの薫陶を受けた岩手の水沢出身の天才蘭方医。
下はその鳴滝塾があったところ。
コレが見たくて長崎までワザワザ行って来た。
ご覧の通りナニもないに等しかった。0r4a0534 長英は『夢物語』という開国政策を支持する本を書き、水野忠邦の幕政下、鳥居耀蔵という強力な攘夷論者の幕臣が実行した「蛮社の獄」という粛清により小伝馬町の牢屋敷に入れられた。
医学の知識と道徳的な行動により牢名主にまでなったが、悪列な環境と鳥居の監視の下では命がもたないと考え、火事の「切り放し」を画策して脱獄。
「切り放し」というのは、火災により止む無く一時的に囚人を開放し、「3日の後に規定の場所に戻ってくれば減刑、戻ってこなければ問答無用で死罪」という非常時の囚人の救難策だった。
長英は牢に出入りする者に頼んで外部から火をつけさせ、切り放された後そのまま逃避行に入った。
幕府の追跡は厳しく、長英はまずは向島の小梅町(スカイツリーの近く)にしばらく潜伏した後、直江津、愛媛、広島、名古屋等、その6年にわたって逃避行を続けた。
その道程を綴ったのが吉村昭先生の『長英逃亡』。
へへへ、今またコレを読み返してるんだ。
「吉村先生の旅」…長崎の次は宇和島へ行ってみようかと思って。
で、長英がその逃避行のはじめの頃に訪れたのが草津の沢渡(さわたり)という所だった。
前回のシゲブログではベルツ先生を取り上げたけど、草津はそのはるか昔から湯治でその名が知られていたことより近隣に医者がたくさん住んでいた。
その中に長英の同僚や教え子がいて、それらを頼って草津に逃げたワケ。
だから高野長英の場合、石柱に名前が彫られていても他の人とは事情が異なり、ノンビリ温泉に浸かりに来たワケでは決してなく、幕府の捕吏の接近にビクビクしながら身を隠すためだった。Ct下は大正末期から昭和初期の草津温泉の絵はがき。
マジでこんなにいっぺんに大勢の人が湯船に浸かっていたのかな?
コレはイヤだな~。「イモ洗い」もいいとこだ。
まるで昔の後楽園プールだわ。
それとも絵はがき用に仕込んだのかな?Jkyコレは「時間湯」とかいう江戸期に始った入浴法で、「湯もみ」→「かけ湯」→「入湯」のストロークを3分で行い、それを日に4度繰り返すというもの。
現在は実施していないそうだ。
で、「湯もみ」とくれば「湯もみショウ」。
下の写真の中ほどの施設で日に何度か催されているがウチはパス。0r4a0007町を散策。130_3射的屋が目についた。
ま、「温泉」といえば「射的」と相場がキマっているけど、湯河原なんかには全くないよ。140_2このイボイボは天ぷら屋だって。
モダンだネェ。145セブンイレブンも…150ローソンも茶色基調。155近くの「白根神社」を参詣する。0r4a0050草津と言えば「白根山」。
その名の通り活火山の「白根山」を祀った神社。
かつては白根山のテッペンにあったが、明治6年に現在に場所に奉遷したそうだ。
階段が結構キツかった。160_3もうひとつ。
コチラは「光泉寺」という名刹。0r4a0060湯畑を見下ろすロケーションが素晴らしい。0r4a0063階段を上って本堂に至る。180_3コレだけですごく疲れてしまった。
190v香川の金毘羅様だってヘッチャラだったのに、こんなに疲れるのはどうもおかしいナァ。
この後、マズイうどんを食べて、宿にもどって早速お風呂。
170_3「ライトアップされた湯畑が美しい」というので夕食後に出かけてみた。200_2なるほど、昼間とは全く異なる風情で…210とても幻想的だ。220_2温泉はコレで終わり。
さすがベルツ先生おススメの「日本の三大名泉」のひとつだけあって、とてもいいお湯でございました。
チョット心配なのは家内の体調。
夕食も残しがちで、朝食はほとんど口にしなかった。
かくいう私も、温泉に来れば5回は入るようにしているのだが、そんな元気はなく今回は3回しか入らなかった。230_2翌日…。
前の日に町をブラブラして時間ツブシに寄ったこの草津町図書館で発見したある設備が気になって寄ってみることにした。K2tそれはコレ。
「重監房資料館」という国が運営している設備。Jkp町の中心から車で15分ぐらい行くと、公団住宅のような同じ住居が立ち並んでいるエリアに出くわす。
410その奥に「重監房資料館」があった。240_3それがコレ。
まだ新しい施設のようだ。250_2コレはナニかというと、かつてこの近所にあった「重監房」というハンセン病患者を監視するための施設を再現している設備。
昔、草津にはそうした隔離施設がある、と父が話していたことを思い出した。
ところが「重監房」というのはそのような通常の隔離施設ではなく、「日本のアウシュビッツ」の異名を取った非人道的な懲罰施設だったのだ。260_2コレが資料館で展示されている「重監房」のレプリカ。2jk2この施設には施設の対応に反抗的な隔離患者が強制的に収容された。
「戒めのための施設」ということになるが、収監者は不幸な病人であり、決して囚人じゃありませんからね。
何しろスキー場があるような自然環境だからして、厳冬期には気温がマイナス15度になるにもかかわらず暖房設備は一切なかった。
部屋には明かりを取るためのごく小さな窓があるだけ。
食事はサツマイモや大根を混ぜて炊いた米に梅干し1ケという粗末なモノで、そのような過酷な待遇が93人の収容者のウチ、22人に衰弱死か凍死をもたらした。
そうした非人道的な待遇からは「特別病室」とは名ばかりの「日本のアウシュビッツ」という異名を取らせているのだそうだ。2_9そこで、実際の「重監房」があった場所を公開しているというので訪ねてみた。
それは現在も稼働している「栗生楽泉園」という「日本ロマンティック街道」に面した施設の入り口からすぐのところにあった。
さっきの「公団住宅のような」と書いた施設はこの療養所の一部だったのだ。
265これがその入り口。280向かって右の門柱には「国立療養所」…300v反対側には「栗生楽泉園」とある。290v_2中に入ってみる。310_2昭和57年(1982年)に取り壊されたかつて門の側にあった門衛所の跡。
320_3そのすぐ近くの石仏。
恐る恐る見て歩いているものだから少々怖い。310v_2案内板に従って門から入ったところをすぐに右に曲がり坂を上って行く。330あたりは熊笹が生い茂っている。
重監房は今入って来た入り口のあたりからは全く見えず、その存在を知らない療養所の職員もいたらしい。335その小道をしばらく行くと「重監房跡」のモニュメントが現れる。340_2施設の見取り図。
「医務室」や「宿直室」の表示が見られるが、使われた形跡はなく、「病棟」を見せかける名前だけのモノだったそうだ。350_2重監房は昭和13年12月の竣工。
ココに8部屋分の施設があった。
「施設」というのは上で説明した監房だ。360_2この設備は厚生大臣の命により昭和22年10月に廃止された。
廃止決定後、証拠隠滅を目的に速やかに設備は取り壊されたのだそうだ。380_2楽泉園のすぐ近くにある「草津カトリック教会」。
映画『ベン・ハー』を思い出す。390現在は40名のハンセン病患者が楽泉園で療養されている。420<最終回>につづく

2023年9月 2日 (土)

草津よいとこ…その後マイッタ!<その1>~「ベルツ」ってナ二?

 
昨年、セガレたちから「還暦のお祝いに…」と、JTBの旅行券(宿泊券)をプレゼントしてもらった。
うれしいものです。
名前は忘れてしまったが、それがコロナの最中に苦肉の策でヒネリ出された企画だったのかどうかは知らないが、商品のあまりの不親切さに驚いてしまった。
というのは、まずチケットが発行されてから6カ月以内にユーザー登録をしなければならない。
まずこんなことからして面倒。
さらにそれから6カ月以内に旅行先を決定しなければならない…という大きなお世話的なルール。
ナニを慌てているのであろうか、期限の縛りが厳重なのだ。
せっかくのセガレたちからのプレゼントだからして、百歩譲ってココまでは許すとしよう。
他方、この商品の大きな欠陥はユーザーが登録を済ませる時までその旅行券が使える宿泊先がつまびらかにならないという点だ。
ユーザー登録をして驚いた。
天下のJTBの商品ゆえ、全国津々浦々、自由に行き先が選択できるかと思いきや、ウェブサイトの見方を間違えていると思うぐらい受け入れてくれる宿泊先が極端に少ないのだ。
その頃、「会津藩」に興味があったので、即決で「会津に行ってみよう!」ということになったのだが、その宿泊券が使える宿が会津エリアには1軒もない。
仕方なく会津は断念…ケッ!会津藩や斗南藩や保科正之に関する本を5冊も読んだのによ!
しからばどうしたか…年寄り夫婦の1泊旅行ゆえ、何しろ温泉がよかろうとかつて住んでいたこともある行き慣れた長野を選ぼうとした。
ところが上諏訪の「紅や」1軒しかありゃしない!
お諏訪さんめぐりと岡谷の女工哀史(山本茂実の『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』は映画とはゼンゼン違ってとてもオモシロい本です)を勉強するのもよかろうと一瞬は思ったが、「紅や」は「源泉かけ流し」ではないのですぐに失格。
1泊なのであまり遠くにはいけないし…ということで次に群馬をチェック。
すると…伊香保と草津しかありゃしない!
「伊香保温泉コマーシャル!」なんてラジオのジングルは昔やたらと耳にしたが、行ったことがないので伊香保を選ぼうかと思ったが、提携している宿がこれまた「源泉じゃない、かけ流さない」だったので失格。
結局、家内の「草津温泉に行ったことがない」のひと言で、源泉かけ流しの宿に泊まることができる草津を訪れることにした。
コレね~、ホントにJTBにクレームをネジ込んでやろうかと思ったんだけど、旅行直後にスゴイことが待っていて、どうでもよくなっちゃったよ!…それがタイトルの「その後マイった!」というヤツ。

05s_2
早く目的地へ着いてもすることといえば風呂に入ることぐらいしかないので、ノンビリと通りすがりの「道の駅」巡りをすることにした。
ココは道中最後の道の駅「草津運動茶屋公園」。
もう温泉街までは目と鼻の先だ。10何やら立派でおシャレな風情。20せっかくなので売店以外も見てみることにした。
下の建屋の中にあったのが…30_2「ベルツ記念館」…「ベルツ」ってナンだろな。
知らないな。40v少々チープな雰囲気だが、何事も勉強、勉強。
無料ということもあって2階に上がって見学してみることにした。50_2展示室のようす。
「ベルツ」というのはドイツの医学博士のこと。
そのベルツ先生が泉質は言うに及ばず、ロケーションといい、気候といい、「世界の湯治場の最高峰」として草津を世界に紹介したというワケだ。
だから展示室内には先生と草津の関係を説明した写真や資料が展示してある。60コレがエルヴィン・フォン・ベルツ博士。
く~、キビしそ~!70私は知らなかったんだけど、「ベルツ水」という保湿ローションがあるんですってね。
この「ベルツ」はベルツ先生の「ベルツ」。75_2もうひとつ。
生まれたばかりの赤ちゃんのお尻って青いことが多いでしょう。
いわゆる「蒙古斑(もうこはん)」というヤツ。
この「蒙古斑」の名付け親もベルツ先生。
ナゼ「蒙古」なのか?
答えは簡単、時間が経つと消えて無くなるあの青いアザは黄色人種特有のもので、黄色人種のことを「モンゴロイド」と呼ぶことからベルツ先生は「Mongolian Blue Spot(モンゴリアン・ブルー・スポット)」と名付けた。
それを直訳したのが「蒙古斑」。
だから「モンゴル人の尻が青い」というワケではないし、お尻の青い赤ちゃんが特段モンゴルっぽいとうワケでもない。
 

76_3さて、ベルツ先生がどういう人かはだいたいわかった…イヤイヤ、まだわかってない。
ということで、少し調べてみた。
ココからものすごく脱線していきますのでよろしく。
ところはガラっと替わってココは本郷の東京大学医学部の管理研究棟。
80_2入り口の上の方に取り付けられているレリーフは「日名子実三(ひなごじつぞう)」という彫刻家による「長崎への医学の伝来」という作品。
左側は日本勢。
そして右側が西洋勢。
長崎の医学といえば、シーボルトやポンぺ等のオランダ人が思い浮かび(シーボルトはドイツ人)、日本勢は伊東玄朴、高野長英、松本良順らの名がよく知られているが、初めて長崎に医学を伝えたのは1557年にキリスト教を広めに来たアルメイダというポルトガル人なのだそうだ。
だからこのレリーフはそのポルトガル人をモチーフにしているのかも知れない。
85おっと!長崎に遊学したといえば、加山雄三演ずる『赤ひげ』の「保本登」を忘れてはいかんな。
ちなみに黒澤明の『赤ひげ』の一部は驚くほど忠実に原作の山本周五郎の『赤ひげ診療所譚』を映像化しているが、下の新出去定先生が二木てるみ扮する「お豊」に薬を飲ませるシーンは原作に全く出て来ない。
このパートはドストエフスキーの『虐げられた人びと』という小説の一部の映像化で、コレはコレで原作通りに実写化しているらしい…というのは私は原作を読んだことがないもんで。
こうした挿話の積み重ねが映画を観た山本周五郎に「ナンだよ、映画の方がオレの本よりいいじゃないか」と言わせしめたとか。
二木てるみに当てているキャッチ・ライトがスゴイね。
役者さんはコレで目をヤラれちゃうんだよ。
1_ahg さて、東大に戻って…この日名子実三という彫刻家は「朝倉文夫」のお弟子さんだったそうだ。
朝倉文夫というのは「東洋のロダン」と呼ばれた日本を代表する彫刻家。
谷中には生前暮らした家が残っており現在は「朝倉彫塑館」として一般公開されている。
アトリエのスケールの大きさは言うに及ばす、朝倉の趣味を凝らした住まいも見どころ満点。
何しろ、チャップリンが遊びに来たというのだからスゴイじゃないか。
事前に勉強して行くと大変オモシロイよ。
Img_5346朝倉文夫は福沢諭吉、島津斉彬からダグラス・マッカーサーまで400点以上の有名人の彫像を製作したが、最も有名なのはコレじゃないかしらん?
早稲田の大隈重信像ね。Os浅草寺に行くとこんなのも置いてあるよ。
猿山のサルがエサを待っているとことかと思ったらどうも違うらしい。
タイトルは「雲」。
ナンでやねん!2kmま、そんな見どころの多い朝倉彫塑館の中でもとりわけ目を惹くのはアトリエに飾ってある高さ4m近い巨大な「小村寿太郎」像。1_af_2小村寿太郎は何度かMarshall Blogにも登場しているが、明治時代の外務大臣で、日露戦争の後、ロシアのウィッテと血みどろの戦後交渉に臨んだ人。
日露戦争はアジアのマイナーな小国が世界に冠たるロシア帝国をやっつけた「世界の奇跡」だった。
アリが象を倒したようなものだから。
戦後、当然マスコミが「コレはいけっまっせ~!」とアオるもんだから国民はガッツリ賠償金がゲットできるものの思い込んでウハウハになった。
何せ日露戦争の戦費たるや、時の金額で20億円…国家予算の約3年分だから!
国民は「いったらんかい!」とルーズベルトの仲介でセットされたポーツマスの講和条約に臨む小村大臣に大いに期待したワケだ。
ところが…。
バルチック艦隊の到着の遅れでマグレで勝ってしまった日本に対し、毅然として立ち向かうウィッテ。
交渉は難航し、「え、ナ~ニ?もしかして『ロシアが日本に賠償金を払え』って言ってんの?チョット、笑わさないでよ~。ボクたちはいつでもリターン・マッチをやっても構わないんだよ~」とヤラれてしまう。
「ナニを!」ってんで、もしリターンマッチなんかやったらこの世から「日本」という国なんか消えて無くなっちゃうことを百も二百も承知だった日本勢は泣く泣く賠償金の請求を諦めざるを得なかった。
つまり、日本はロシアから一銭も賠償金をふんだくることができなかった。
怒ったのは国民だ。
みんなお国のためにガマンしてきたワケだから。
その怒りが全権大使の小村大臣に向けられ、「日比谷焼き打ち事件」なんてテロが起こった。
気の毒な小村さん。
しかし、賠償金は取れなかったにせよ、というか結果的に日本を守った小村大臣の交渉ぶりは立派なものだったそうだ。
この講和条約締結の交渉をジリジリと描いた吉村先生の『ポーツマスの旗』こそ今の政治家必読の書ではなかろうか。
  
小村寿太郎とポーツマス条約のことはコチラにも書いておいたので興味のある方はどうぞ。
  ↓   ↓   ↓
【Marshall Blog】私の明治村<前編>

1_phえ?朝倉文夫には興味ない?
しからばお弟子さんの実三はどうか?
サッカーの日本代表の選手がユニフォームにつけている日本サッカー協会のロゴマークの「八咫烏(ヤタガラス)」は日名子実三のデザインなんだよ。

Jfa今回、この記事を書くに当たって東大の医学部にお邪魔して来たワケだけど…しかしナンだネェ。
同じ大学に行くならやっぱり「東大」に行くべきだったナァ。
チョコチョコっと施設を見て回ってつくづくそう思ったわ。
ま、希望したところで到底入れるワケがないけど…。 
180_2上のレリーフの建物の向かい辺りにこんな場所を見つけた。90BIBLIOTHECA(図書館)+ MEDICA(医学)、VNIVERSITATIS(大学)+  TOKYOENSIS(東京産)というプラークが入り口に付けられていた。
ラテン語。
早い話しが「東京大学医学部図書館」ということか?
でも少なくともこの門の敷地の中に図書館はない。
コレは東大医学部の紋章らしい。
100門の中に入ると目に入るのが2体の胸像。130_2立派そうなお2人だが、いかにも手入れが悪い。140向かって右側は「ユリウス・スクリバ」という明治のお雇い外国人のひとり。
1901年に名誉教授の称号を贈られ、20年にわたって東大医学部で指導に当たった。
外科手術のテクに秀でていて、日本で最初の腎臓の摘出手術や縫合に絹糸を使用したことが知られているそうだ。
そんなことから「日本外科学の恩人」とされている。
こういうお雇い外国人って日本政府から目の玉が飛び出すようなケタ違いの給料をもらっていたんだゼ。170_2そして、その隣がベルツ博士。
キタキタキタキタ~!
東大にもベルツ博士。
160_2ベルツは温泉につかって赤ちゃんの青いケツに注目しただけではない。
明治政府の招聘により1876年に来日し、1902年に退官するまで26年にわたって東大医学部で生理学、精神科、産婦人科、内科の教鞭を執った。
かたわら明治天皇と皇太子の侍医を務め、1905年に勲一等旭日大綬章(現在の旭日大綬章。一番スゲえヤツ)をゲットし、日本人の奥さんを連れてドイツに帰国するまでの日本滞在期間は29年にも及んだ。
そうしてベルツ先生は「日本医学の父」と呼ばれるようになったスゴイ人なのだ。
それがベルツ!150v_2もうチョット敷地内を散策してみる。
結構草ボーボーで、見るからにナンの手入れもしていないのがひと目でわかる。
そんな草むらの中から顔を出しているのがコレ。
石碑には「加州(加賀の国)大聖寺藩 江戸上屋敷址」とある。
赤門のいわれがよく知られている通り、現東大の本郷キャンパスにはかつて加賀藩の上屋敷があった。0r4a0049大聖寺は久谷焼きで有名な福井県境の石川県の温泉地。
加賀藩の三代目の藩主が三男坊に7万石をシェアして生まれた藩。
さすが加賀百万石の藩だけあってシレっと7万石とは気前が良い。
後に10万石まで勢力を拡大した。
昔、私はよく加賀温泉の方へ行ったものでしてね、「大聖寺」という地名を耳にすると必ず「夏目雅子」を思い出す。
JR北陸本線の「大聖寺駅」の前に車を停めた時にラジオから夏目雅子の訃報が流れて来たから。
昭和60年(1985年)のこと。
私はまったく彼女のファンではなかったが、「あんなに若い人がこうも簡単に死んでしまうのか…」と驚いたのをよく覚えている。110v_2コチラは「胸像をぬらす日本の花の雨」とある水原秋桜子の句碑。
「水原秋桜子」なんて名前しか知らないナァ。
秋桜子も東大医学部出身で、日本の医学の進歩に大きく寄与したベルツの功績を称えてこの句を詠んだそうだ。
見なかったけど、秋桜子がベルツに捧げた句碑は草津にもあるそうだ。120v 少し移動して病院の方へ。
ウチは家内と次男がココでお世話になったことがありましてね。
だから何回も来てる。
でもこの外来病棟の入り口のすぐ近くに…Tb2こんなものがあったとは知らなんだ。
というのはコレ…石。
不忍池を見下ろす高台にあったベルツ先生の家に据えられていた庭石なんだって。
ベルツ先生は学校から近いということもあってか、お弟子さんをこの庭石があった自宅に招いては勉強会を開いていたそうだ。190_2そのまたすぐ近くに立っているのは、「相良知安(さがらともやす)」という佐賀藩出身の蘭方医の功績を称えた板碑。200最近はスッカリ英語になってしまったようだが、かつて病院のカルテにはドイツ語が用いられていた。
コレはもちろん患者に情報を漏らさないようにするための暗号のような働きもしているワケだが、どうしてドイツ語になったのか?
英語だっていいじゃん?
上に出て来た日名子実三のレリーフにあるように、そもそも医学はポルトガルから伝来し、その後、幕府から通商を許されたオランダの医師らによって伝わった医学が中心だったハズ。
オランダごだっていいじゃん?
その流れを変えてしまったのが下の写真の相良知安なのよ。
知安は長崎で「ボードイン」というオランダ人医師から医学を学んだ。
下の写真を見ると、なんかライブハウスの店員にいそうな感じの人だけど、大変にパワフルな人だったらしい。210v_2幕末から明治にかけて薩摩藩らは時代遅れになってきたオランダ医学に替わる最先端の医学として、イギリス公使館の医師だったウィリスを中心としたイギリス医学を推していた。
ところが、この文部省の医局長などを歴任していた知安が師匠のボードインに「先生、今、医学が世界で最も進んでいる国はどこでしょうか?」と質問したところ師匠はこう答えた。
「そうさナァ…まぁ、ドイツじゃね?」
このボードインのひと言で、知安はそのイギリス医学の流れをドイツ医学にヒックリ返そうと決心し、猛烈に新政府に働きかける。
「ドイツ医学推し」といえば後で出て来る森鴎外も有名だわね。
ところが、その知安のやり方が執拗かつ強引過ぎて薩摩藩なんかは激怒したらしい。
で、知安の努力の甲斐あって、新政府はドイツ医学を日本に導入することになった。
そこで明治4年になって来日したのが「レオポルド・ミュレル」というドイツの医学博士。
220外来病棟のすぐ近くに小高くなっているところがあって、下から覗き上げるとまたしても何やら胸像が見える。
「今度は誰だろう?」と思って階段を上がって行くと…0r4a0078おお!「レオポルド・ミュレル博士」!
かなりのコワモテだな。
ミュレル博士は東大医学部の前身の「大学東校(とうこう)」というところで3年間教鞭を執ったそうだ。
そして、この人は「医学と薬学は別にするべし」ということを提唱し、学校に「薬学部」というセクションを設置させた。0r4a0077ハイ、移動しますよ。
今度は東大の下にある不忍池を渡った「上野恩賜公園」。
この敷地は昔、徳川家の菩提寺の「東叡山寛永寺」だった。
慶応4年(1868年)に「上野戦争」が勃発し、残念ながら長州らのニセの官軍がいとも簡単に勝利。
例えインチキでも「勝てば官軍」。
その4年後、そんな徳川の菩提寺なんて目障りだから新政府は寛永寺の敷地に医学校と病院を作ろうと言い出した。
ところが下の胸像のオッサンが「こんなにキレイなところに学校なんか作らない方がいいんでないの~?悪いことは言わないからココは公園にしなさいよ」と提言した。
そして、寛永寺の跡地が今の上野恩賜公園となった。230その公園の建設を提言したオッさんこそが相良知安の師匠、オランダの一等軍医、「アントニウス・ボードイン」だったのです。
ドイツ医学の導入は気に喰わないけど、公園にしたのはデカした!
240_2相良知安は生来の気性の激しさと、妾の家に入り浸る家族を顧みない自堕落な生活のせいで晩年は悲惨な日々を送った。
今の浜松町付近の貧民窟で筮竹を片手に易をやって糊口を凌いでいたという。
そんな暮らしの中、64歳の時に国から「瑞宝章」が授与され、近所の人たちは「ええ!あの占いの小汚いジジイさんってエライ人だったの!?」とかなりブッたまげたらしい。
相良知安については吉村先生の『日本医家伝』という本で詳しく触れているので興味のある人はどうぞ。
この本もとても面白ぅございます。
S_nid「ドイツ医学 vs. イギリス医学」ということではこの作品もすこぶるオモシロイ。
明治の陸軍軍医である「森鴎外」と海軍の軍医である「高木兼寛」の脚気の治療をめぐっての対決。
カッケ~!
高木兼寛は慈恵医大の創設メンバーね。
德川第14大将軍の家茂は脚気で命を落としたが、脚気は日本特有の病気で軍隊では夥しい数の死者を出したがその原因がわからないでいた。
そしてナイチンゲールが指導して建設されたことで知られるロンドンの「セント・トーマス病院」に留学し、イギリス医学を信奉する兼寛がその原因を突き止めていくんだな~。
このこともココに書いたので興味のある方はどうぞ。
  ↓   ↓   ↓
【Marshall Blog】私の横須賀
Sk さて、その庭石やら板碑のすぐ近くにある医学部の出入り口が「鉄門」。250元々東大の医学部というのは神田お玉が池(現在の千代田区岩本町)にあった「川路聖謨(かわじとしあきら)」の住居跡に建てられたシーボルトのお弟子さんで、日本に種痘を広めた「伊東玄朴」らが出資して建てた「種痘所」がスタートだった。
その後、その種痘所が焼けてしまい、「下谷和泉橋通り(現在の昭和通りと蔵前橋通りの交差点付近)」にあった玄朴家の裏に移転した…ってんで行ってみた。
しょっちゅう通っているところ。
右のタテの道が昭和通り、手前のヨコの通りが蔵前橋通り。
0r4a0003伊東玄朴の居宅と家塾「象先堂」がココにあった…という感じか。
ロンドンの史跡と大きく異なり「ココ☞」とハッキリわからないだよ。
玄朴って家定の侍医だからね。かなりスゴイ。
伊東玄朴は上で紹介した『日本医家伝』にも出て来るよ。
0r4a0011その裏はこんなたたずまい。
こんなところにその種痘所があったのか…。
0r4a0014 種痘所の門が、厚い板を鉄板で囲い鋲で打ち付けた黒くいかめしいルックスだったので、人々はその門のことを「鉄門」と呼び、人々は「種痘所」を「鉄門」と呼ぶようになったそうだ。
やがてその種痘所は「医学校」、「大学東校」と変遷を経て「東京大学医学部」となり、今の本郷に移転した。
上に出て来たミュレル先生はその「大学東校」の先生だったワケ。
その医学部の門が東大全体の「正門」とされていたが、他の学部が合流してくるウチに別の場所に定められ、元あった正門は「鉄門」と呼ばれるようになったとサ。
オモシロいね~。タメになるね~。
その鉄門も大正時代に撤去されてしまった。
今の鉄門は医学部の創立150周年を記念して復刻したものなのだそうだ。0r4a0117ちなみに川路聖謨は勘定奉行や外国奉行を務めた幕末の開国派の役人ね。
ロシアのプチャーチンと通商の交渉を重ね、プチャーチンはスッカリ川路の真摯な人柄に惚れ込みファンになってしまったとか。
最初の奥さんがとてつもないブスだったらしい。
吉村先生が『落日の宴』という作品の主人公。
コレもすごくオモシロいよ。Ru聖謨の墓は池之端の大正寺にある。
東大医学部は目と鼻の先だ。3ta3さて、その鉄門を出て左に進むとすぐに不忍池方面に向かって降りていく坂になる。260この坂は「無縁坂」。
このパートは草津どころか「ベルツ」すら関係なくなっていますナ。270_2この無縁坂は森鴎外の『雁』の舞台となっているところ。
「東京の空にまだ雁が飛んでいた頃の話し」というヤツ。
鴎外は池之端に住んでいたからね。
私は恥ずかしながら小説は読んだことがないんだけど、映画は2通り観た。
ひとつは1953年の高峰秀子、芥川比呂志(芥川龍之介の長男)、東野英治郎のバージョン。280mもうひとつは1966年の若尾文子、山本学、小沢栄太郎のバージョン。
樋口一葉の『にごりえ』や夏目漱石の『こゝろ』なんかもそうだけど、明治の文豪ってのはなかなかにプログレッシブなストーリーを考えるよね。
「まだ人々の喜びがヘソ下三寸にしかなかった頃の話し」というヤツ。
…と、いかにも本を読んでいるようなことを言っているけど、そういうのは全部映画で吸収しました。
私がデコちゃんファンということもあるけど、『雁』は古いバージョンの方が断然ヨカッタ。
290mしかし、この坂の右側の家に「お玉」が囲われていたとはナァ。300それにしても、ゼンゼン草津じゃなくなっちゃったナァ。
だって次は海だもん。
群馬に海はないもんネェ。
ココは葉山。310葉山といえば「御用邸」。
前は何度も通過しているけど、一度もお邪魔させてもらったことがない。
340その葉山に「森戸大明神」という海べりに建立された立派な神社がある。320_2その境内には数々の石碑が立てられていて、見て歩くとコレが存外にオモシロイ。
特にコレ。Img_2803 コレはなんとベルツ博士の偉業を称えた板碑なのだ!
ココにもベルツ…どうしてだと思う?
ナント、葉山に御用邸を建てる提案をしたのはベルツ博士だったんだって!350ハイ、草津のベルツ記念館に戻ってきました。360そして、草津温泉到着~!370<つづく>

2022年8月21日 (日)

私の高松 <vol.3>~丸亀の丸亀うどん

 
コレが2日目に泊まったホテル。
風呂が全部家族風呂になっていてとてもいい感じ。
「湯上りのアイスキャンディが無料」なんてサービスもあったけど、そんなことより従業員が皆さんご親切でとても快適な滞在だった。

10_3ホテルの周囲を見て歩く。
並びにある歴史的なルックスのお店の名は「虎屋」。
草団子を売っているワケではない。500何でも江戸時代から続く旅館だそうだ。510なるほど実に貫禄のある佇まいだ。520旅館だけでなく、うどん屋も併営している。
というか、今では旅館業より飲食業の方をメインとしているのであろう。
ご主人がとても積極的な方で、建物の説明をしながら中へグイグイと誘導してくれたが、お腹が空いているワケではないし、最近は間食をするとお腹がイッパイになって3度の正規のご飯(今は2度にしている…それでも痩せない)が食べられなくなってしまうのでお断りした。530琴平町の「公民館」。
昭和7年の建造だそうだ。
見事な日本建築!

540この近くに天保6年(1835年)に建てられた現存する日本最古の芝居小屋「金丸座」というのもあったんだけど、工事中で全く見学できず。550ホテルの前の道。
突き当りが金毘羅宮の参道の入り口。
30_3反対側。
平日だったとはいえ、人がほとんど歩いていなかった。20_3最近は観光地にきっとあるご当地プリン屋。
ココのは他と違ってゼリーが混ざった感じで美味しかった。40_4讃岐だもん、そりゃ「うどんの学校」ぐらいあるよね。
系列のお土産屋さんもいい感じ。50_3ホテルのすぐ並びにある「金陵」という造り酒屋。
60_3先日、Marshall Recordsアーティスト、D_DriveのYukiちゃんが灘の「白鶴」のウェブCMに出演し、そのレポートをMarshall Blogにしたことから日本酒に少々興味を持つようになりましてね…。
 
その記事はコチラ⇒【Marshall Blog】酒は白鶴、アンプはマーシャル!

Syuki2 調べてみるとこの「金陵」も元はなかなかに古い。
元和2年(1616年)というから江戸時代の初め、鶴羽屋という酒造家があって紆余曲折を経たのち、寛政元年(1789年)に八代目西野嘉右衛門という人がそれを買い受けたところから始まったのが「金陵」というブランドなのだそうだ。0r4a1923「金陵」という名前は、江戸時代の儒学者・頼山陽が琴平を訪ねた際、中国の金陵(今の南京)を思わせるとして、琴平のことを「金陵」と呼んだことに由来しているのだそうだ。70_3「頼山陽(らい さんよう)」とはこの人。
ヒゲ濃いな~。
まるで昔の野球マンガに出て来る長嶋選手みたいだ。
『日本外史』という日本の武家の歴史に関する本を書き、それがベストセラーになってその名を知られるようになった。
幕末をテーマにした歴史小説に必ず登場する「頼三樹三郎(らい みきさぶろう)」は山陽の三男坊。
お父さん、それにしてもヒゲが濃い。
Rai 酒造りの博物館が併設してあって誰でも見学することができる。80vところで、ワタシは鶏料理が好きでしてね~。
家内が「一鶴」という骨付きモモ肉が名物のお店が丸亀にあることを事前に調べてくれていて、この日食べに行くことになっていた。
ところが当日の朝、予定外に<vol.1>で紹介した高松松平家の菩提寺の「法然寺」へ寄ってしまったものだから、このお店がお昼の休憩に入る前に行けるかどうか微妙な時間になってしまった。
それでも「とりあえず行ってみよう!」ということで丸亀へ向かった。
案の定、間に合わず食べることができなかった。
コレがその骨付き肉。
ク~、うまそ~!
5ik せっかく丸亀まで来たんだから…と丸亀城を見学。
コチラさんは石垣が自慢だそうで…。
何しろその石垣の高さは日本一で日本の100名城にも選出されているのだ。
170_2信長→秀吉→秀頼に仕えた松平家の前の高松藩主、生駒親正と息子の一正が慶長2年から5年がかりで築いたのが丸亀城。90_3丸亀城の石垣は、江戸時代初期の城郭石垣を築く技術が最高水準に達した時に作られたものなのだそうだ。
これぞ当時の石垣の最高技術!100_2石垣の頂に行くにつれ垂直になるよう独特の反りを持たせる技術を「扇の勾配」というらしい。
確かに美しいな。120vと、大人しく見学していると現れるんだな…ボランティアのガイドさんが!
「この梁がどうの」、「こっちの柱がどうの」…。
チョコッと説明してくれるだけなら歓迎するんだけど、ああいう皆さんって、こっちが説明の内容に感心していると微に入り細に入りやり出すでしょ?
ありがた迷惑な時があるのよ。
もうこっちがイヤがっているのがわからないかね~?
萩の博物館に行った時は知識で競り勝って引き離したけど、丸亀なんてうどんぐらいしか知らないからね。
この場はも「時間がない」とか言ってナントカ切り離しに成功。110_3エッチらオッチら、天守閣を見に山のてっぺんまで来ると、またそのガイドのオッサンが現れるんだな~。
「そうですか?じゃ説明しましょうか?」ってオイオイ、頼んでね~よ!
ナニが「そうですか?」だよ!
ココはさっさと入館料を払って天守閣の中へ避難した130_3スゴイ風でね~、寒くて寒くて!とても外にいられなかった…というのもあった。140_2でも景色はヨカッタ。
飯野山…別名「讃岐富士」。
オモシロいね、こうやって突然ポッコーンと盛り上がっているのが讃岐流の山。150_2さて、せっかく丸亀まで来たんだから丸亀製麺の本店でも見物しに行くか!と思って調べてみると…丸亀に「丸亀製麺」はない!
「紺屋の白袴(こうやのしろばかま)」ってか?
本店どころか店舗が存在したことすらないらしい。
「はなまるうどん」は高松が発祥なんだって。
ところが「丸亀製麺」の発祥ときたら、ハハハ、兵庫県加古川市だって!
香川県ということで言えば、丸亀は高松市に1つ出店しているだけ。
反対に「はなまる」は丸亀にお店を出しているそうだ。
なんで「丸亀」の名前を冠したのかというと、創設者のお父さんが「丸亀中学校」出身だからだって。
それって全然関係ないんじゃん?
ま、「東京ディズニーランド」も東京にはありませんから!160_3土讃線琴平駅。
駅舎がいいね!180_3駅前の石灯篭がまた実にいい!
お寺かと思ったわ。
220_2駅舎の中はこんな感じ。190_3そして、駅前にそびえ立つのが慶応元年(1865年)に完成したという高さ27mの日本一高い灯籠。
その名も「高灯籠」。
壁に江戸時代の人々の落書きが今も残されている。200_2こんなモノ何で作ったんだろう?
それは、決してこの辺りの通行人のためではなく、瀬戸内海を航行する船の乗組員たちのために建てられたのだそうだ。
つまり、船人が金毘羅さんを拝む目印だったワケ。
金毘羅さんは「海の神様」だから、船の上で航海の安全を祈る時、「オイ、金毘羅さんはどっちの方向だ?」「アレを見ねい。高灯籠がアソコに見えているからアッチの方角に違げえネェ」とやったのだ。210vこれで『私の四国』の<高松シリーズ>はおしまい。
次回は<小豆島の巻>です。

2022年8月20日 (土)

私の高松 <vol.2>~金毘羅さんへ上るぞ!


四国2日目。
法然寺から琴平町に回る。
「こんぴらさん」ね。
ホテルに荷物を預けて早速金毘羅宮に向かった。
ホテルの人から杖の貸し出しのオファーを受けたが、バカにするない!
まだまだ足腰は達者じゃわい。
ホテルのすぐ先が参道の入り口でとても便利。
10_2ああ、もう足がガクガクだ。
ウソです。20_2左右に立ち並ぶ年季の入った土産屋の風情が何ともタマらんね。40_3こういった手合いのモノが果たして売れるのであろうか?…って、売れるからお店が続いているんでしょうけど。
30_2コリャ「森の石松」だな?
「石松金毘羅代参」っていうヤツ。
50_2「石松金毘羅代参」というのは、『清水次郎長伝』の中の一話で、金毘羅宮に願掛けをした次郎長親分がその宿願を果たし、代理で森の石松を願ほどきに四国に派遣する物語。
ところが、次郎長親分は石松に道中の酒と博打と喧嘩を固く禁止する。
そこから色々とハプニングが起こるワケだね。
今の若い人は知らないだろうけど、我々世代ぐらいの人ならきっと知っている、あの有名な「食いネェ、食いネェ、寿司食いネェ」というヤツは、この金毘羅代参の帰りの船の中でやるんですよ。
あ、参考までに書いておきますが、「森の石松」って、「森」にいるのかと思っていたけど、それは違う。
トトロやジェスロ・タル(←「Jack in the Green」という曲のことです)じゃないんだから。
「森の石松」の「森」は石松の出身地、「遠州森町村」のこと。
 
『清水次郎長伝』は二代目広沢虎造でどうぞ!
浪曲っていうのは「ひとりミュージカル(正確には『曲師』と呼ばれる三味線を弾く伴奏者と2人)」だからね。
ジッと聴いているととてもいいもんです。Sz さあ、ガンガン歩くぞ~!60_2観光地でよく見かけるこういうアイドルのグッズって一体誰が買うんだろう?
天地真理とか、私は一度足りとも買ったことも、買ってもらったこともありません。70_2お、もう100段か!
チョロい、チョロい!80_2周囲の様子がコロコロ変わっていくのが楽しいな。
階段を上がるだけじゃ飽きちゃうもんね。90_2備前焼の狛犬だって。110vこんなの出て来た。
「灯明堂」という釣り灯籠のハウス。
安政5年(1858年)に建てられたモノ。0r4a1687 梁への彫刻等、なかなか手が込んでいる。130_2ハジッコも立派!
使っていた頃はココから入って中の灯籠に火を灯したのだろう。0r4a1695 ナンカ急に階段が険しくなってきたナ。
まだ全然ヘッチャラだぜ!140v1993年の『男はつらいよ』の第46作『寅次郎の縁談』のロケ地は香川で、金毘羅さんに詣でるシーンが出て来る。
マドンナは2回目の松坂慶子。
もうこの頃の渥美清はガンで著しく体調が悪く、派手な演技が一切できなくなっていたそうだ。
ちなみに笠智衆はもう亡くなっていて、タイトルからクレジットも消えていたが、劇中で「御前さまお元気?」、「元気にしてますよ!」というシーンが2回ぐらい出て来る。
本当はもうこの世にいなかったのだ。
アノね、「寅さん」はチョットやらかしてしまいましてね、近々またこのShige Blogで記事を編みたいと思っています。
155v時折後ろを振り返るととても気持ちがいい!
子供たちは元気じゃのう。
イヤ、ワタシだってまだまだナンともありません。
150v時折出て来る展示コーナー。
これが存外に楽しい。
 
「琴陵宥常大人命(ことおかひろつねうしのみこと)」という金刀比羅宮の元宮司。
江戸時代、「金光院金毘羅大権現(こんこういんこんぴらだいごんげん)」と呼ばれていたのを現在の「金刀比羅宮」という神社名に改めた人。
1886年、紀州沖でイギリスの「ノルマントン号」という船が沈没。
イギリス人の乗組員は船員は助かったものの、日本人が全員水死しまった。
そこでこの琴陵宥常は海上安全を祈願して時の総理大臣であった黒田清隆に直訴して「大日本帝国水難救済会」を創設させたのだそうだ。
金毘羅宮は海の信仰だからね。
160_2だからこんなモノも展示してあった。
昔の全国の海難事故の避難所マップ。0r4a1703 294段目…まだ半分も来ていないのかよ!
どうりで足がヘッチャラだと思ったわ。
170v
チョット疲れた頃になると現れる展示コーナー。
階段を上っていて飽きさせないように設計されているのか?
 
コレは「掃海殉職者顕彰碑」というもの。
第二次世界大戦中、瀬戸内海や日本近海にはなだ67,000個に及ぶ機雷が浮いていて、日本周辺の海路をことごとく塞いでいた。
アメリカ軍の置き逃げよ。
「それじゃ困る」ということで昭和27年から約6年の長きにわたってその機雷の始末に従事していた旧海軍関係者の人たちがいた。
そのウチの79名が殉職。
その方たちを称え顕彰したのがこの碑。0r4a1711 コレは上とは別に世界の掃海作業で活躍した「はやせ」の錨。180_2365段目にある「大門」。
吉原みたいだな。
お土産屋が立ち並ぶのはココまで。

190_2ハイ、後ろはどんなかな?
おお~、高くなってきた!210_2大門を抜けると勾配が緩くなって景色が一変する。220おお!それっぽくなってきたぞ!230_2「桜馬場」という石畳のエリア。
こうした寄進額を表示した石碑を「奉納石柱」というらしい。
0r4a1726こうしてズラリと並んでいるんだけど、寄付額は「壹百萬圓」、すなわち「1,000,000円」!
なんの、なんの!…240_2「3,000,000万円」行ってみよう!250_2寄進額の思い切りの良さとは別にこの辺りはとても雰囲気がよくて歩いていて気持ちが良い。260_2また階段。
ドンドン行くぜ!270_2青銅の鳥居をくぐって階段を上ると…280_2ちょっとした広場になって色んなモノが展示してある。
まず目についたのはコレ。
「もーれつア太郎」に出て来そうなこの犬は「こんぴら狗」というそうだ。
どんな犬か?…高札の解説を読んでみよう。0r4a1735 皆さんも読んでみて!
フムフム…って、サッパリわからんわ!
前半の文章は完全に複雑骨折をしている悪文。
いわゆる「フリー文章」…コレでよくOKが出たな。
一度たりとも読む人のことを考ていない文章と言えよう。 
0r4a1737 私だったらこう書くよ。
「江戸時代、庶民はみなとても篤い信仰心を持っていました。
そして、伊勢神宮や富士山にお参りすることを望んでいましたが、それは庶民の夢で一生に一度行けるかどうかの一大イベントだったのです。
ナゼなら、費用がかかるばかりではなく、昔は交通機関などありませんから遠方へ出かける長い期間仕事を休まなければなりません。
そんなことはできるハズもなく、庶民は代わりに『講』というシステムを考え出しました。
コレは、講のメンバーでお金を出し合って旅費を作り、みんなで選んだ代表者に現地へ行ってもらい、出資者たちの分まで代理でお参りをしてもらうシステムです。
このシステムは「伊勢講」、「富士講」などとして日本国中に伝播し、大変な発達を遂げました。
一方、代理のお参りを犬に託した人もいました。
この『金毘羅参り』がその対象のひとつです。
初穂料と道中の食費を入れた袋に『こんぴら狗』と書いて犬の首に括り付け、犬は街道を行く旅人から旅人に引き渡されて見事金毘羅宮までたどりつくのです。
しかし、飼い犬の願い事はひとつしか叶いませんでした。
ナゼかというと、犬は参道の階段785段を上り、本堂でお詣りするワケですが、口にするのは「ワン」だけだったからです。
おあとがよろしいようで…」

Ki_5 ナゼかアフリカ象の像が…。
金刀比羅宮のある山が「象頭山」と呼ばれていることからのようだ。
山の形が象に似ているんだって。290_2そういえば昔、『脱走山脈(Hannibal Brooks)』という象を脱走する映画があったな。
主演はオリバー・リードとマイケル・J・ポラード。
『バックトゥザフューチャー』のマーティを演じたマイケル・J・フォックスっているでしょう?
この人はマイケル・J・ポラードの大ファンだったので、自分の芸名も「マイケル・J」にしたんだよ。
ポラードは『俺たちに明日はない』でボニーとクライドの子分を演った人。
いい役者だった。
Ds ナンダナンダ?
こんなモノも出て来た!300コレは高さ6mもあるホンモノの大型船のプロペラ。いわゆるスクリュー。310_2寄進者は今治造船株式会社。
金毘羅宮は「海の神様」だし、「金毘羅さんも弊社もうまく回っていきますように」…との願いがこめられているそうだ。
案外軽いな…。
ま、こんなスゴイものを寄進されるのだから、よもや首が回らなくなるようなことはあるまい。320_2神馬(しんめ)もいらした。
「月琴号(げっきんごう)」という。
神様がお乗りになる馬ですからね、エライんだぜ。330_2丸山応挙の絵で知られる「表書院」。
時間の関係でスキップした。340_2628段目にある旭社。
大分来たぞ!
350_2この提灯のロゴ。
丸に金かと思っていたらチョイと違う。
コレは御社紋(ごしゃもん)という神社の紋で「まるこん」と呼ばれているのだそうだ。
文字自体は「金」で、隷書体(れいしょたい)フォントで表したものだそうだ。360_2本宮までの最後の難関。
最後がコレかよ~。380_2あと133段だって。
ハイハイ、登りますよ。Img_0132 登った~!390コレが本宮。
ココも実は2回目の訪問なのだ。
400_2コレが47年前に初めて来た時。
赤丸が私。
当時は集合写真を撮る時はなるべくいいポジションに収まるように努めていた。
黄色は「瞽女研究」の大家、石塚義一郎先生。
詳しくは<vol.1>を見てね!410御本宮の御祭神は、農業・殖産・医薬・海上守護の神、「大物主神(おおものぬしのかみ)」と、讃岐の国に流された「崇徳天皇(すとくてんのう)」を合わせ祀っている。0r4a1813_3 イヤ~、785段、さすがに疲れたわ~。420でも絶景!
450本宮のとなりの絵馬堂…なんて聞いた風なことを言っておりますが、この「絵馬堂」という名前がわからなかったので、金比羅宮に電話をして教えてもらいました。

メチャクチャ親切なご対応をして頂きました。

430海関係のモノがビッシリと飾られている。440さて、今回は本宮より先の「奥社」へも上がることにした。
ココまで785段、奥社までは1368段というからあと583段…イケるのか?Img_0146 つべこべ言わず階段を上がる。
本当はもうシンドイのよ、ツラいのよ。460vお、途中で白峰神社に遭遇。0r4a1838 「白峰」の名がつけばそれはもう崇徳天皇。
すなわち「崇徳院」。0r4a1836 「崇徳院」といえば古典落語の人気演目で、私はこの噺や「芝浜」を十八番としていた三代目桂三木助の名演で覚えた。Km_2 百人一首の歌がテーマになっている噺。
「川の流れが速くて水が二手に分かれてしまうけど、また後に一緒になるんだよ」というロマンチックなラブ短歌。
こんな甘ったるい歌を詠むワリに…

Sti_2 生前の恨みが募って崇徳院は死後恐ろしい怨霊になった。
そして、さまざま災厄をもたらし、100年ごとに開催する「式年祭」の前後には国を揺るがす大きな動乱を引き起こすとして、歴代の天皇陛下をビビらせていた。St_2そして幕末期、孝明天皇は崇徳天皇が奥羽越列藩同盟の味方をすることのないように、京都に白峰社(後の白峰神宮)を建立して祀った。
もし、この神社が建てられることなく、崇徳天皇の怨霊が会津や彰義隊の味方をして岩倉&薩長の偽の官軍を駆逐していたら今の日本はもっといい国になっていたかも知れない…と考えると大変興味深い。
ちなみにこの白峰神宮は蹴鞠の宗家の飛鳥井家の地所に建立されていることから、「まりの神様」として、現在ではサッカー他「スポーツの守護神」としてにぎわっているらしい。Sj_2 そして、崇徳天皇のお墓は今日の祇園にあって、今でも月命日の21日には月次祭というモノを開いて鎮魂しているそうだ。S3tb2さて、奥社はまだかいな…。
もうね、ダメなの。
引き返すワケにもいかないので、観念して階段を登り続けたけどサ…もうシンドかったわ。
ハッキリ言って遠慮しておけばヨカッタよ。Img_0150なんて後悔していたらナントカ到着!
1368段上りきったゼ~!
490コレが「奥社」こと「厳魂神社(いずたまじんじゃ)」。470眼下に広がる絶景!
ああ、この景色を見たら疲れナンカいっぺんに吹き飛…ばないっつーの。
もうクタクタだよ。480そして、無事に下山して夜ユックリ温泉に浸かったとさ…。
そういえば、この日はうどんを食べなかったナ。
と思ったら…570夕食の茶碗蒸しにうどんが入ってやがんの。
コレはヤメてくれ!
美味しくない。
580 <つづく>

2022年8月19日 (金)

私の高松 <vol.1>~うどんを食べに行こう!

 
「そしたら四国へうどんでも食べに行く?」
 
チョット前の話で恐縮だけど、高松へ行って来た…ホントにうどんを食べるために。
この頃はまだ「Go To トラベル」をやっていた一方、私が貯めている全日空のマイレージの大規模な失効が目前に控えていたので、ムザムザ無駄にするよりはよかろう…と、家内のひと言に端を発した企画だった。
2020年12月のこと。
私は以前、2度ほど高松を訪れたことがあった。
最初は中学の修学旅行の時だから1976年のこと。
もう1回はMarshallの仕事で行ったのだが、それも2004年か2005年のことだったので、もうずいぶん時間が経った。
どうせ行くなら…と、朝一番の飛行機で高松に向かい、空港でレンタカーを借りて四国の旅が始まった。10せっかくなので朝からうどん。
私も御多分に漏れず麺類が大好物でしてね。
そばもうどんも大好き。
うどんに関して言えば、「東京で一番おいしいうどん」と呼び声がかかる水天宮近くのうどん屋に通っている。
しからば本場讃岐はいかがなのもの?
「うどん県」だからしてどこへ入ってもヒドイ間違いはなかろうが、一応ガイドブックに目を通して評判のよかった街中のお店に入ってみた。
朝っぱらから結構お客さんが入っていたナァ。
ラーメンはゴメンだけど、朝食にそばやうどんってうれしいのよね。20おいしいね。
麺もダシもおいしい。
そして、格段に安い。
ところが…ココはカウンターの前に設置してある熱湯が入った大きな水槽にうどんを入れ、グバグバと自分で湯がいて食べるシステムだったんだけど…とにかくヌルい。
ダシもヌルめだったのが残念だった。
身体に悪いことは百も承知しているが、私は鍋焼きうどんとかみそ煮込みうどんの類を取り皿を使わず鍋からダイレクトで食べるタイプなので、麺類の場合、その温度がチョットでも低いのはどうにもガマンがならないのだ。30天気もよく、1回目目のうどんを食べた後はまず「栗林公園」へ。40な~んともココは美しいところですな~。
50「栗林公園」は国が特別名勝に指定している文化財庭園の中で、最大の広さを持つ…と言われているのだそうよ。
高松藩主松平家の別邸として、歴代の藩主が手を加えて300年近く前に完成したのだそうだ。
本当にどこをどう切り取っても惚れ惚れするほど美しい。70私は冒頭に書いたように、その修学旅行の時にココに来たことがあった。
その時はオモシロくも何ともなかった。
そりゃ13、14歳の子供にこんな庭園を味わえったって土台ムリな話だわ!
60コレがその初めて来た時の写真。
赤丸内が私。
黄色い線で囲ったオジサンね…教頭先生かなんかだったんだけど、この人に関して最近驚くべきことを知った。75下は私の音楽と社会の先生、故中村とうようさんの『地球のでこぼこ(話の特集刊)』というエッセイ集。
氏は御存じの通り、今の『ミュージック・マガジン』の創始者で、1970年の1月から毎月2ページほどのエッセイを同誌に連載していらした。
それを1冊にまとめ、「とうようズ・バラード」と「とうようズ・ブルース」と2巻にわたって刊行した。
話題は音楽のことから政治のことまで。
コレがどうしようもなくオモシロイ。
正当と思われるモノごとの見方や考え方をとてもわかりやすく、かつオモシロおかしく、しかし厳しい筆致で説明してくれる。
驚くのは50年前に書かれた政治に関する文章の内容がソックリそのまま現在の政治に当てはめることができることだ。
50年の間、政治家も民衆も全く進歩していなければ改善もされていないことがよくわかって笑える。
それどころか、社会情勢は今の方が断然悪い。
先日SNSで紹介した「Obscurantism(オブスキュランティズム)」というヤツだ。
 
そのとうようさんのエッセイ集の1973年の1月の回に「瞽女(ごぜ)」についての記述があった。
一応書いておくと、「瞽女」というのは新潟を中心に北陸地方を転々として三味線を弾いて唄って歩いた盲目の女芸人のこと。
時には芸以外のことを強いられることもあった。
近世までは全国に存在していたらしい。
で、当時とうようさんはフォーク・ソングの同好会のようなモノを主宰していて、そこに石川さんという人が毎回熱心に顔を出していた。
チョットその部分を引用すると…「(その石川さんが)うちの学校の文芸部の雑誌におもしろい記事が出ているから、と持ってきてくれた。
明治大学付属中野学園の文芸部の機関誌で、石塚義一郎というこの学校の先生が『越後高田瞽女物語』というのを寄稿しておられる。いま読んでもなかなか立派な内容で、この先生、かなりのゴゼ研究家と見える」と、とうようさん。
コレを読んでブッたまげたよね。
ナンとならば、上の写真の黄色い線で囲ったオジさんがこの「石塚義一郎」先生なのだ。
つまりこの石川さんという人は私の先輩ということになる。
石塚先生は歴史の先生でね、中学から同校に通った私は中高と2回この先生に教わったが、両方とも教科書を終わらせることができなかった。
とにかくとても話好きな人で、落語や文芸など、教科書と全く関係のない話題で毎回授業の1/3の時間を費やしていた。
当然子供たちはそんな話に興味などあるワケがなく、いつも先生はひとりでしゃべって、ひとりで笑っていた。
生徒の時は何とも思わなかったが、学費を払う方の立場になって考えてみると、コレは一種の詐欺ではないかね?
だって授業料を聴取しておきながらやることをやり切っていないんだゼ。
でもね、当時の先生の年齢に近づいた(あるいは上か?)今になってみると、あの時、落語の話とかをチャンと聞いておけばヨカッタような気もする。
しかし、生徒だった時分は興味のない話に毎回実にイライラさせられたものだった。
話をし出した時に「ハイ、じゃチョット手を降ろしてごらん」とおっしゃる時は話が長くなるサインで「またかよ~!」と大変ウンザリしたものだった。
ある時、突然「奢侈(しゃし)」という言葉を黒板に書かれたことがあった。
恐らく吉宗の「享保の改革」かなんかの授業だったのだろう。
昔の学校の先生はみんなチョークで字を書くのが上手だったが、石塚先生は特に達筆でね、私は「奢侈」という言葉をこの時覚えた…なんてこともあった。
ん~、それにしてもこの『越後高田瞽女物語』っての読んでみたい!
もう、先生はお亡くなりになっているだろうナァ。
修学旅行に引率した中学2年生のボウズが今年還暦になるんだから!0r4a0260 とにかく園内はどこもかしこも美しい。80植わっている木々がまたいちいち素晴らしいと来てる。90と言いたいところなんだけど…この時12月でめっぽう風が強く…

93もうこんな格好だったのよ!
ピュ~~とカメラを持つ手も凍り付く寒風が吹きすさんで居ても立ってもいられなかった!95vそれでもひと通りユックリ見て歩いた。100こんなハート型の植木もあった。105やっぱり美しいとしか言いようがなかった…けど寒くて鼻水が垂れたわ。110_2それとコイがスゴイのよ!
こんな寒いのに水に浸かって気の毒に…。120近寄るとウジャウジャ集まって来たわ「冷たい!助けてくれ~!」って。130さぁ、冷えた身体を温めようということで2回目のうどん。
釜揚げうどん専門店ということで期待大。
釜揚げうどん、好きなのよ!140ココもいい加減混んでたナァ。
出て来たのは見紛うことなき「釜揚げうどん」。
2005年に来た時、空港のうどん屋で釜揚げうどんをオーダーすると、「スンマへン!釜揚げは今でけまへんのや。えろう時間がかかってまいよる。
でも、湯だめならすぐできまっせ!」と言う。
飛行機の時間もあったのでその「湯だめうどん」を頼んでみた。
出て来たモノは下の写真に限りなく近い、私から見れば完全に「釜揚げうどん」だった。
この時初めて知った。
お湯に入ったうどんを付け汁に浸して食べるモノをすべて「釜揚げうどん」と呼ぶのかと思ったら、釜で茹で揚げたうどんをそのままお湯に浸して提供するのが「釜揚げうどん」なんだとか…。
一方、茹でて一旦お湯を切ったものを再び熱湯に入れて温め直して食べるうどんを「湯だめうどん」というって言うらしい。
全く知らなかったわ。
 
で、このお店の釜揚げうどん、ごく普通だった。150古い街並みを観に行こう…ということで高速道路に乗って東かがわ市という所まで足を伸ばしてみた。160ん~、「古い街並み」ということではそれほど大したことなかったな。
170でもコレは壮観だった。
こんな赤い壁の建物を初めて見た。
この「赤」は魔除けだそうだ。
牛が見たら突っ込んで来るぞ。
180
「かめびし屋」という江戸時代からの製法を連綿と受け継いでいるつくり醤油屋。
200中を見たかったんだけど、ちょうどお休みの日で残念ながら閉っていた。190馬の繋ぎとめておくための環。
イギリスの田舎に行くと同じようなモノを見かける。
220vこの東かがわ市というのは手袋の生産が盛んなところで、ナント全国シェアの90%だって!
鯖江のメガネと同じだね。210この日泊ったホテル。225高台にあって眺望はバッチリ!240ロビーにはこんなモノが飾ってあった。
1998年の第24期棋王戦の第1局、羽生善治棋王と佐藤康光名人がこのホテルで対局した。260コレは投了のようす。
115手で羽生棋王の勝ち。
将棋指しには大変興味があるが将棋自体には興味がない。
250コレは父の形見の私の座右の書。
3回読んだ。
「真剣師」というのはお金を賭けて将棋を指す仕事ね。O6_2昼間あの眺望だったので、さぞかし部屋からの夜景が美しかろうと思っていたら期待通り。
ところが!
隙間風が遠慮なく吹き込んで来て寒いのなんのって!
さすがにガマンができず、押し入れの中に余っていた布団をすべて引っ張り出して窓枠を目止めして寝たわ。Img_0069翌朝は早く起きて「法然寺(ほうねんじ)」という古刹を見に行った。
前の晩に高松松平家の菩提寺ということを知り、さぞかし立派な寺に違いないとニラんだのだ。270浄土宗の宗祖である法然が作ったとされる阿弥陀如来立像が本尊だという。280鎌倉時代、讃岐に流された法然が立ち寄って「生福寺」を建立。
水戸光圀のお兄さんで初代高松藩主となった松平頼重が江戸時代初期にその「生福寺」を現在の場所に移転させ名を「法然寺」と改めた。290なるほど立派なお寺だわ。
階段の上には「文殊楼」と呼ばれる楼閣がある。300v 名前の通り「文殊菩薩」と「普賢菩薩」を祀っているのかと思うとさにあらず。
梵天さまと…310その仲間の帝釈天さまが祀られている。
コレが帝釈天か…。
テッキリ笠智衆のイメージだったがゼンゼン違うじゃん?
どっちかというと萩生田か?
右手に握っているのは密教の法具で「金剛杵(こんごうしょ)」というのだそうだ。
煩悩を打ち砕き、邪魔外道を退く武器とされている。
320その奥にある「来迎堂(らいごうどう)」というお堂。350般若台という名前の墓所の入り口。
ここに高松松平家の墓があるのだそうだ。
「松平」ってスゴイでしょ。
会津やら福井やら、いたる所に「松平氏」。
ベトナムの「グエン」さんじゃあるまいし、ナンでこんなに「松平」?
と思っていたら、紀州、尾張、水戸以外の徳川関係者はみんな「松平」なのだそうで…。
他に報奨として松平姓が下賜されることもあったが、元の家名の方が格上の場合もあり、そういう時は大変に迷惑だった、なんてこともあったそうだ。
ところで、ベトナム人の苗字の70~80%が「グエンさん」なんだよ。
ウソだと思ったら、コンビニの従業員が付けている名札にグエンさんという名前を見つけたら「ベトナムの方ですか?」って訊いてみな?
私はもう何回もやっているんだけど、的中率は完全に100%だよ。
人の好さそうなグエンさんだったら「日本はどうですか?」と尋ねてみたりもしている。
「水道の水が飲めてとてもありがたいです」とにこやかに答えてくれた男性のグエンさんがとても印象に残っている。0r4a1633裏の墓所に回ると「無縫塔」と呼ばれる墓石の先端が丸まっているお坊さんのお墓がズラリ。
いかにこのお寺の歴史が長いかを示している。360ああ、いい景色だナァ。
四国の山はポッコリしていてオモシロいね。
330隣りには阿弥陀如来像、釈迦如来坐像、弥勒菩薩像を本尊とする「三仏堂」というこれまた立派なお堂。380それと並んだこのお堂が御本堂なのだそうだ。
ココに法然さん自作の阿弥陀如来像が鎮座ましましている。
400国指定の史跡だからね。
来てヨカッタ!
390v<つづく>

2021年6月10日 (木)

私の萩<後編>

 
いきなりナンですが…
「ハイジ」といえば「ヤギ」。Sheidi そして「ハギ」といえば「ヤキ」…そう、「萩焼」ですな。Shagi 私は焼き物についてはカラっきしナニも知らないんだけど、「一楽、二萩、三唐津」とか言うそうで…。
「一」の楽焼は千利休が創案した茶用の焼き物で400年の歴史がある。
「二」に付けた萩焼は坂高麗左衛門という朝鮮からの帰化人が初代で、こちらも400年以上の歴史を持っているそうな。やはり優れた茶陶としての評価が高い。
「三」の唐津焼も朝鮮由来でもっと歴史が古く、茶陶に限らず瀬戸物のことを「唐津焼」と言うほどマルチな活躍を見せる陶器。
…なのだそうです。
ところで、ハイジってスイスでしょ?…ということはドイツ語を話すワケだよね。
「グーテンターク、イッヒ・ビン・ハイディ、アインフォフ・ツグライフェン」と、ヨーロッパでは「馬に話しかける言葉」とされている言葉で話をしているのかと思うと興ざめだな。
反対に「神様に話しかける時の言葉」はフランス語だそうです…「ジュマペール・アイディ」もおかしいか。
しかし、どうしてあのヤギの名前は「ユキちゃん」なんだろうナァ。
 
さて、その萩焼から今日はスタート。
さすが焼き物の町、中心からチョットはずれるとこんな窯を見かける。

275こちらは国道191号線沿いの萩焼のお店。

280_2「泉流山」という。

290vお店の横にある「登り窯」とかいう段々畑みたいな窯が目を惹く。

320_2チョット高級そうな感じだったので、入りづらかったが見るだけでも見てみようと暖簾をくぐってみた。
すると、我々でも手の届くような商品もたくさんあるじゃないの。
何より「いらっしゃい!」と出て来てくれた若い女性店員さんが快活で実に気持ちがいい。
「すずちゃんみたいで可愛いね~!」と言うと「イエイエそんな、髪型だけですよ~!」と明るく応対してくれた。
もうコレだけでナニか買ってあげたくなっちゃう。

Simg_5508 そのすずちゃんが解説してくれたのは、萩焼のヒビと色について。
経年変化でヒビが入るのは知っていたが、それは使っているうちに入るものかとばっかり思っていた。
すると「向かって左が新品で~す。右は使い込んだモノで~す。ハイ、新品の方をよ~く見てくださ~い」とすずちゃんが元気よく説明してくれる。
「よ~く見ると細か~いヒビが入っていますでしょう?ここに飲み物がしみ込んで、色がついてヒビが浮かび上がってくるんですよ~」…そういうことか。
不衛生な感じがしないでもないが…。
そして、赤っぽい方が押しなべて値が張る高級品になるそうだ。
と、すずちゃんがニコニコ一緒懸命説明してくれたこともあって何点か頂いて行くことにした。
女も男も愛嬌があるというのは得なものです。
人間、ブスっとしてちゃイカンよ。損するわ。300_2「上にこの窯元で作った作品の展示場があるので、よろしかったら商品を包んでいる間、ご覧になりませんか?」とお誘いを頂いたのでお言葉に甘えることにした。
登り窯の横を歩いて行く。326左は工房になっている。
アトリエ?
ココで作ったモノをお店に出している…当然か。

330_2少し登って後ろを振り返ると、とてもいい感じ。
イギリスで言えばストーク・オン・トレントですな。
340_2ストーク・オン・トレントはイングランド中部の焼物の町。
ウェッジウッド発祥の地ね。

110 坂を上り切ったところにあったのはこの建物。350「吉賀大眉記念館」なる焼き物の展示館。
こんなモノ何でここにあるのよ?と、我が目を疑いたくなるような立派な施設。
控えめな看板が国道沿いに立っているだけで、表からは一切見えない。360_2吉賀大眉(よしかたいび)は1915年生まれの萩市出身の陶芸家。
大き目の陶器がトレードマークだった。370私は焼きものが全然わからなくて、大眉のことも存じ上げない。
失礼ながらツラ~と拝見していたのだが、ひとつの写真が目に止まった。
下の写真。
左が大眉先生。
そして、右で絵付けをしているのが、ナント香月泰男だというのだ!

380_2
香月泰男は洋画家で、終戦後ロシア軍の捕虜となりシベリアに数年抑留し、重労働に苦しんだ。
その時の過酷な日々を独特な画材と技術を用いて描き上げたのが氏の「シベリア・シリーズ」。
10年以上前、立花隆が嗚咽を交えながら香月さんの人生と作品を語ったテレビ番組を偶然見ましてね。
興味を持ってこんな本を読んでみた。390b 折よく、東京駅のステーション・ギャラリーで回顧展が開かれて観にも行った。
スゴかった。
ヘタな心霊写真よりよっぽど恐ろしい。
囚人のうめき声が聞こえて来るようだった。
こういう絵ね。S400帰りがけにとても品の良い女性の係の方と話をした。
私が香月泰男の話を持ち出すと、彼女はすごくビックリしていた。
「香月泰男の名前を口にする人なんて滅多にいませんよ!」というワケ。
そして、大眉との関係を語ってくれた。
香月先生は今の長門市の出身。
2人は東京美術学校(今の東京芸大)の同窓ということでとても仲がよく、しょっちゅう一緒に酒を呑んでいらしたそうだ。
それで、香月先生が大眉先生の作品にこうして絵を描いていたというワケ。410その品の良い係の女性、とても詳しいと思ったら大眉先生のお嬢さんだった。
お嬢さんといってももうおバアちゃんよ。
ホントに建物が素晴らしくて、そのことを伝えると、「やっぱりわかる方がご覧になるとおわかり頂けるんですね~」…なんて言ってくれたけど、イヤイヤ、全然わかんないってば!
材料がよくて、意匠もさりげなく、すごく雰囲気がヨカッタので正直にそう言っただけ。
それもそのはず、タイルの1枚1枚まで吟味したものを採用したそうだ。
先生は作品を売り、それで得た資産でこの展示館を造ったというから、相場が相当高いに違いない。

420_2そんな建物やら芸大の話をしていたら自然と谷中の「朝倉彫塑館」の話題になった。
早稲田大学の大隈重信の銅像を作った朝倉文夫のアトリエと住まい。
この建物は本当にスゴイからね。
表からはそのスゴさは絶対に想像できない。
彫像も8m大の小村寿太郎像なんてモノが展示してあって驚いた。
その大眉先生のお嬢さんは行ったことはないけど、やはり気になっていていつか行ってみたいとおっしゃっていた。S2as

さて、「私の萩」のクライマックス。
「萩焼」はもう出た。
残すところといえば…そう、吉田松陰。
も~、ココは「吉田市」に改称した方がいいのではないか?と思うぐらい町中に松陰、松陰、松陰、松陰、高杉、松陰、松陰、松陰、松陰、伊藤、松陰、松陰、松陰なのね。
何せ松陰の印象がすさまじい(←シャレです)
高校の修学旅行の時にはそんなに松陰松陰してなかったような気もするんだけど…。
まぁ、こんなこともあろうかと、ココへ来る前に童門冬二という人の『小説 吉田松陰』を読んでおいた。
文庫で600ページを超す大著だ。
ゴメン、途中から2ページ飛ばしの斜め読みにはなったが、とてもいい参考になった。
だってもう~筆致がサ…直截的に「松陰はスゴイ」ということしか書いてないんだもん。
コレ、吉村先生だったら100ページでまとめているのではないかしらん?
ところがこの童門さん、歴史上の人物を描いた作品を中心に膨大な著作があって、美濃部都知事のスピーチライターを務めていたっていうんだよ。
驚いちゃったよ。
でも、この旅のとてもよいガイドブックになった。825bでは吉田松陰をめぐる旅に出てみましょう!
まずは松陰神社でしょう。
8201907年(明治40年)、松下村塾のOBである伊藤博文他が神社創建を請願したことにより建立された。
何度も書くけど、42年ぶり…覚えてないな~。830「明治維新胎動の地」の碑。
ココから始まったんだよ、維新。
840v「学びの道」…コレは42年前にはなかった。
道の両脇に松陰先生のご箴言がズラリと掲げられている。
ああ、ココを通って間接的に先生の薫陶を受けていれば東大ぐらいは入れたかもな。
イヤ、修学旅行でココへ来ていた時点で手遅れだわ。850「学は人たる所以を学ぶなり」…生きるってナンダっ!?

860vこれが本殿。
昭和30年の築造だそうです。

870その手前にあるのが松下村塾。890例の世界遺産の一角。
900コレは覚えてる。
「まつしたむらじゅく?」なんてやってたから。
もうその頃は寝ても覚めてもロックに夢中だったんだよ。

910松陰戦線の門弟のポートレイトがズラリ。
「幕末オールスターズ」です。
やっぱり伊藤博文はどこへ行っても千円顔だな。

920皇太子殿下もお見えになられている。
当然か…尊攘派の原点だもんね。
大正15年の5月に立てられた記念碑というから、殿下がココへお見えになった7か月後に昭和天皇に即位されているんだ。
930v松陰先生はペルリに頼んでアメリカへ密航しようとするが失敗。
つかまって萩に送還されて、入牢。
その後、自宅謹慎させられた場所がこの三畳間だった。
スゲエ本をたくさん読んだんだって。
数か月で1,500冊とか何とか?
しかし、よくそんなに本があったよな。
実は松下村塾というのは松陰先生が作ったモノではないんだよね。
玉木文之進という叔父さんがやっていたものを引き継いだ。940境内にはこんな碑も。
「薩長土連合密義の處」…メンバーは、薩州:田上藤七、長州:久坂玄瑞、土州:坂本龍馬の3名。
岸信介の揮毫だよ。

945松陰神社の裏手にチョット上がった田舎に行けばどこにでもあるような道路。Simg_0539 そこに玉木文之進の家がる。
例の松陰先生の叔父さんね。
文之進は学識に優れていて、近所の子供を集めて塾としてココで勉強を教えたんだね。
その塾の名前を「松下村塾」といった。

950く~、何にもなくて気持ちいいナァ。
この年になるとね、東京を離れて空気のいいところへ行くと、肺や鼻が喜んでいるのがわかるんだよ。
ドンドン吸ってやりたくなっちゃう。

960そこから一気に山に上がる。
松陰先生の生家。
ナニも残っていない。

970そこには弟子の金子重輔を従えた銅像がある。
1968年に明治維新100周年を記念して建立されたそうだ。
先生が下田でぺリーの艦隊を見つめているところだそうです。
金子重輔は松陰先生に従って一緒に黒船でアメリカへ密航しようとした人。
後でもう1回出て来ます。980v先生がご覧になっている景色はこんな。
下田のそれとはエラく違うけどキレイだった。990その横には吉田家の墓所。

0r4a0109 松陰先生は「安政の大獄」で小伝馬町の牢屋敷に投獄され、安政6年(1859年)に斬首された。
30歳だった。
首切り役は「首切り浅」の異名を取る山田浅右衛門。
刑を執行したのは小伝馬町の牢屋敷。
今は下の写真ように公園になっている。
浅右衛門他その場に居合わせた役人は、その時の松陰先生の態度に胸を打たれたという。
全く取り乱すことなく、悠々と歩み出て役人たちに「ご苦労様」と言って端座したというのだ。1000その後、亡骸は小塚原(今の南千住)に捨てられ、高杉晋作らがそれを掘り起こしに行った。
そして、一時的に回向院という小塚原で処刑された人たちを葬る寺に預けた。
その時の墓がコレ。
墓碑銘は「松陰二十一回猛士墓」となっている。
その4年後、長州藩士らによって、現在の世田谷区若林にあった長州藩主毛利家の別宅の地に改葬された。
それが今の東京の松陰神社。1010そして、下が萩にある松陰先生の本当のお墓。
帰って来たんだね~。
といっても、松陰の百ケ日に遺髪を埋めて作ったモノだそう。
やはり墓碑銘は「松陰二十一回猛士墓」。
コレは松陰の号で、「人生21回、猛を奮って大事をなさん」という意味なのだそうだ。
何で21回も…?
パズルになっているそうですよ。
吉田の「吉」を分解すると、「十」と「一」と「口」になるでしょ?
同じことを「田」でやると、「十」と「口」になる。
数字の方を全部足すと10+10+1で21。
一方、「口」をふたつ重ねると「回」でしょ?
だから「二十一回」なんだって…お後がよろしいようで。

1020墓前には門人であった前原一誠、久坂玄瑞、品川弥二郎、伊藤博文、高杉晋作らが寄進した石の水盆、花立、燈籠が並んでいる。1030高杉晋作の墓もココにある。1040vハイ、市街地へ降りて来ました。
何の変哲もない住宅街の通り。1045前にも書いた通り、吉田松陰は実地で見聞を広めようと、浦賀にやって来たペリーに頼んでアメリカへ密航しようとしたが、あえなく失敗。
一旦小伝馬町に投獄された後、萩へ送還された。
この辺りのことは吉村先生の『黒船』に少し詳しく書いてある。
『黒船』はペリー来航時に通詞(通訳)を務めた堀達之助の生涯を描いた一作。
当然メチャクチャ面白い。

1046bそんな住宅街の通りにボコっと現れるのがコレ…「野山獄」という松陰が密航失敗後、萩に送還されて投獄された牢獄の跡。
こんなところにあったんだ!1050<前編>で紹介した十一烈士の処刑もココで行われた。

1060vその真向いにあるのが「岩倉獄」。
コレも牢獄。
同じ罪人でも身分が高かったり政治犯だったりすると「野山獄」へ入れられた。
学識人の先生は野山獄。
一方、松陰に従って浦賀へ行った弟子の金子重輔は、残念ながら身分が低かったので普通の罪人が入れられるこっちの「岩倉獄」に投獄された。
ものすごく待遇が異なっていた。
入ったことはないけど、今の刑務所は「罰」というよりも「更生」を第一義にしているらしいんだけど、江戸時代の牢獄は完全に「罰」を与えるところだった。
だから身体がよっぽど丈夫でないとすぐに獄死してしまう。
1070そんなだから、重輔もこの岩倉獄で死んでしまった。
そこで「金子重輔君絶命之處」という碑が建てられている。
揮毫は元総理大臣の田中義一。

1080vドンドン行くよ~!
 
コレは滞在2目のようす。
も~雨がどうにもならない。
「濡れない場所」ということで「萩博物館」に入る。Simg_5551入った途端、「紙芝居が始まりますので見て行ってくださ~い!」とガンガンすすめられたので休憩がてら見てみることにした。
お題は…「吉田松陰」。
またか…。
開口一番、紙芝居士(博物館の方)がこうおっしゃる。
「私たち萩の人間は~、『吉田松陰』などと呼び捨てにすることは~、絶対にありませ~ん!
か~な~ら~ず~、『松陰先生』とお呼びしま~す」
そんなに偉い人が郷土にいらっしゃるなんて羨ましいナ。
じゃ、こっちは明日から「勝海舟先生」かぁ?
おとなしく見ていたんだけど、途中で携帯が盛大に鳴ってしまって逃げるようにして途中で出て来ちゃった。
もちろん、終演後に紙芝居士の方に謝りに行きました。

Simg_55521回だけ書きます。
「明治維新」という革命はアメリカの戦争映画と同じで、倒幕派から語られることが圧倒的に多いけど、幕府側の人たちがどんなことをされたのかも知っておく必要があると思いますよ。
 
ココは東京の谷中。
このネコとメンチで有名な「谷中ぎんざ」は観光客で常時往来が絶えない。Simg_4859その端の「夕焼けだんだん」と呼ばれる坂を上ったところの左側に「経王寺(きょうおうじ)」という寺がある。Simg_4649その山門。
穴が開いてるでしょう?Simg_4654こっちも。
これらは長州の皆さんに開けて頂いた風穴です。
彰義隊が寛永寺から逃げこんで来た幕府軍の連中を追いかけて来て銃を撃ちまくったんだね。

Simg_4653こっちはもっとスゴイ。
幕府軍の総本山、上野の東叡山寛永寺の入り口にあった門。
いわゆる「黒門」。

Simg_8194穴だらけ。
彰義隊の遺体はこの円通寺で火葬された。その関係で黒門が彰義隊の墓とともにここに残されている。
こういうのは戦争だから仕方ない。Simg_8198 しかし、会津藩なんかはこんなもんじゃとても済まされなかった。
少なくとも松陰先生が生きていればその蛮行を許さなかっただろう。
だから会津の人は「維新」とは言わず、今でも「戊辰」という言葉を使う。
このことは松平容保のひ孫さんがそうおっしゃっていたのを実際に聞いたことがある。
こういうことを知っておかないと。
歴史というモノは絶対に裏表を見る必要があるからね。
吉村先生の最晩年の長編力作『彰義隊』なんてのを読んでみるとよろしい。
人間何事も勉強ですから。Ssgt_2最後…雨はヒドくなる一方だし、クタクタになっちゃったしで、もう切り上げようかと思ったんだけど、もう一か所寄ることにした。
割引券もあったし、「アレだけ見て帰ろう」と家内がプッシュしてくれから。
そして、どうにかやって来たのが、前日に聖火リレーのイベントを開催した萩中央公園の隣にある「明倫学舎」。

Simg_5563元々ココには水戸藩の「弘道館」や岡山藩の「閑谷黌(しずたにこう)」と並ぶ「日本の三大学府」のひとつ「明倫館」があった。
そういえば、去年水戸に行った時もメンドくさくなってしまって「弘道館」を見なかったんだよね。
要するに「明倫館」は長州藩の藩校ね。

Simg_5559 吉田松陰をはじめ、井上馨、桂小五郎、高杉晋作、長井雅楽等、み~んなココで学んだ。
乃木希典もOBだって(乃木将軍については吉村昭の『海の史劇』という本を読むべし)。

Simg_5558_2 で、この建物が明倫館の跡というワケではなくて、その後同じ場所に立てられた「明倫小学校」がコレ。
何とも美しい建物だこと!
ものすごくキチンと手入れがしてある。
というのは、国の登録有形文化財に指定されているこの小学校の建屋を新しい観光施設として2年前にオープンさせたばかりなんだって。
いいね~、アメリカの空襲も大地震もなかったら…残っていさえすれば何とでもできるんですよ。

1090明倫館当時のモノも残っている。
この「観徳門」と呼ばれる孔子を祀った聖廟の前門。1100「有備館」と名付けられた剣術と槍術の稽古場。

Simg_5567 それとコレ。
向かって左の碑は明倫館が出来て21年目の1741年に毛利家六代目当主の宗広が創立の由来を伝えるために立てたモノ。
右は嘉永2年、ペリーがやって来る4年前の1849年、十三代藩主敬親が「新明倫館」の開校を記念して建てたモノ。
コレも亀趺(きふ)の上に建てられていた。
スゴイね、どれも大切にしてください。

Simg_5560現存する日本最大の木造校舎とだけあってデカい!
こういうのが2棟あるんだから。
私は小学校2年までこういう木造校舎だったな。
トイレが汚くてすごくイヤだった。
アレ、汲み取り式だったのかな?…覚えてないな。
教室が売店やカフェになったていたり、ビデオの上映室になっていたり…当然、維新のビデオよ。
「世界遺産ビジターセンター」なんてのもあったりするが、土台観光客を集めるための施設の感は否めない。
それなのにナゼ私がこんなに丁寧に案内しているか…。

Simg_5573コレを紹介したかった。
コレにはマジでブッたまげた!
小川忠文さんという幕末の品々を6,000点以上個人的に蒐集していらっしゃる方のコレクション。
文献が大半らしいが、グッズもスゴイ。
シャレで「是苦集(これくしゅう)」なんて名付けていらっしゃるが、トンデモナイ。
こんな人がいらっしゃるなんて!…なんでテレビで全国的に紹介しないんだろう?
それぐらいの価値は十二分にあると思う。
でも小川さんは下関の方なんだって。
しかし、萩が幕末の倒幕活動の発祥地でもあり、中心地でもあったということで何百点かを寄贈したそうだ。
とても上手に展示してあって、コレは「萩市の新しい自慢」と認識してもいいんじゃないの?

S4img_5574
日本の博物館/美術館はイギリスと違って残念ながら見学者に写真を撮らせないのが大きな難点。
なので、インターネットの写真を拝借してそのスゴさを紹介しておく。
コレクションは「天文」、「機械」、「医学」の3つのカテゴリーに分けて展示されている。

Ent「機械」というのは「からくり」のことね。
例えばこの江戸時代の扇風機とか時計とか。

Fn_2長州の支藩の殿さまが遊んだゼンマイ仕掛けの亀。
『なんでも鑑定団』に出品され、100万円の予想をしたところ200万円の値がついたそうだ。
昔の仕事の取引先に骨董コレクターの方がいて、蔵の中から出て来たシャリアピンのSP盤を見てビックリ。
何とシャリアピン自身のサインが入っていたのだそうだ。
そこでそのSP盤を鑑定に出した。
「シャリアピン」というのは、20世紀前半に活躍したオペラの歴史において最も重要な歌手とされるロシア人。
「シャリアピン・ステーキ」ってあるでしょ?
アレはこの人が来日した時に宿泊先の帝国ホテルのシェフが考案したメニューなんだよ。
シャリアピンは当時歯を悪くしていて、肉を食べるのが大義になっていたので、シェフは肉を柔らかくするために、まずたたいて伸ばし、タマネギのみじん切りに漬け込んだ。
名前はよく聞くけど、日本でしか通用しない料理名だそうです。
で、そのSP盤、結構いいお値段が付いた。
でも、あのテレビで提示している値段というのは、鑑定士が買い取る値段ではなくて、「もし買い取ってアナタが売るとしたらサァいくら」という骨董品屋の利益含みの値段らしい。
だから結構無責任と言えば無責任な値段なんだって。
展示室ではからくりが動くビデオを上映していて、みんな完動品なのに驚いちゃう。

Km さぁ、私が燃えたのはココから。
「天文」のところ。
ボランティアのガイドのおジイさんがよせばいいのに伊能忠敬の話を切り出して来た。
おいおい、ウチでは伊能忠敬のことを「伊能勘解由」とか「推歩先生」とか呼んでるんだぜ。
ま、井上ひさしの『四千万歩の男』を読んだだけなんだけどサ。
1120伊能忠敬が使っていた測量機器そのものが置いてあるワケではないんだけど、同じ型のものがズラリと展示してある。
そのどれもがピッカピカなんよ。
他にも地球儀だの遠眼鏡(望遠鏡)とか。
おジイさんが伊能忠敬の生涯を説明しようとしてくれるんだけど、コッチは黙っていられないじゃない?
「養子なんですよね」とか「千葉の佐原の出身なんですよね」とジャブを入れてみるが、おジイさんヘッチャラ。
ガンガン説明しちゃう。
Ti「千葉の佐原に行きますとね、伊能忠敬の博物館があるんですよ」
「ハイハイハイハイ、行きました、行きました。すごくヨカッタです」
コレね。1140「伊能忠敬は日本の地図を…」
「ハイハイハイハイ、自分では完成していないんですよね。弟子たちが長屋を借り切って巨大な地図を清書したんですよね」
下は伊能勘解由と私。

1130v「その弟子は…」
「ハイハイハイハイ、高橋景保ですよね」
「景康はシーボ……」
「ハイハイハイハイ、シーボルト事件ね」ってな調子だったんだけど、ガイドのおジイさんビクともしない。
仕方ないので、必殺ワザを繰り出してみた。
「伊能忠敬は自分が死んだら師匠の高橋至時の隣に埋葬してくれって遺言したんですよね。それが幡随院長兵衛なんかも埋葬されている浅草の源空寺。
へへへへへ、実はその墓はウチのすぐそばなんですよ」とやってみた。
おジイさん、人の話を全く聞いていませんでした。
コレがその伊能忠敬のお墓。
なんか、今回「歴史特集」というより「墓特集」になっちゃったな。1145アレ?おジイさんいなくなっちゃった?と思っていたら、ナント、もう次の部屋に先回りして待ち伏せしてた!
「ハイ。次はですね~」なんて用意しちゃってる。
頼んでない!っつ~の!
次は「医学」のコーナー。
ココも面白かった。

Ana江戸末期の手術器具やら体温計やらの展示。
 
ガイドのおジイさん、またやっちゃった。
ナント腑分けの話をし出したのだ。腑分けというのは人体解剖のことね。
何でも日本で最初の解剖は萩で行われたとか…。
そうかな~。
私の認識と違うなんだよな~。
吉村先生の『事物はしまりの物語』という「日本で最初の〇〇」を集めた本の巻頭にある「解剖」というパートを読むと、「日本で最初の解剖が行われたのは宝暦4年(1754年)」のことで、京都において山脇東洋によって執り行われた…とある。
それまではカワウソを使って研究していたらしい。
京都所司代に東洋の弟子たちが申し出て罪人の死体を使って解剖する許可を得て実現した。
自分たちではできないんだけどね。
役人がハラをかっさばいて、中を医者に見せるというやり方。
「チョットそこんとこ、どうなってんの?そこそこ、肝臓のこっち方!」なんてやっていたのだろう。

Hm その17年後、江戸の小塚原で杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らが解剖を実施し、それを本にした。
それが有名な『解体新書』。
下はその腑分けが行われた南千住の回向院。
松陰先生の遺墳があるところね。
他にも橋本佐内、雲井龍男、鼠小僧津次郎吉、カール・ゴッチなんかの墓もあるんよ。
0r4a0058『解体新書』はベストセラーとなり玄白は億万長者となった。
この辺りのことは『冬の鷹』という本をどうぞ。
1110bその後、腑分けが頻繁に行われるようになり、日本の医学は急速に進化した。
ところが脳の研究は一向に進まなかったらしい。
というのも、腑分けに供される死体は斬首になった罪人のモノばかりであったため、頭が身体にくっ付いていなかったから。
明治2年には吉原の女郎で梅毒を患い余命幾ばくもない、「みき」という女性が死後に自分の身体を解剖に供して欲しいと自ら願い出て、コレが日本の篤志解剖第一号となった。
普通、吉原の女郎は命を落とすと南千住に今でもある浄閑寺というとろにポイと投げ捨てられて終わりだったが、死骸を解剖に供すればねんごろに弔てくれるという処置を期待してのことだった。
その後も医学の進歩を期して、解剖は東京医学校(後の東京大学医学部)で盛んに行われるようになった。
そうした解剖に協力した方々を慰霊するために東京大学が谷中霊園に建立した慰霊塔が下の写真。Simg_4647
…という話をしても、例によっておジイさんヘッチャラどころか、「あ、もう時間ですね。別の担当の部署に行かなきゃ」と言ってサッサと姿を消しちゃった!
萩のガイドさんは<前編>で紹介した伊藤博文の生家の方とか、押しが強く、なかなか人の話を聞いてくれないね…でもとても親切でオモシロかったよ。
他にも鍼灸のツボを表した人形…

Md木でできた入歯やら。
小川さん、一体どこでこんなもん探してくるんだろう?

Tt_3
数年前には萩博物館で期間を設けて小川コレクションの特別展も開催していたようだ。
さっきのおジイさんに訊くと、この明倫学館を作ったはいいが、「展示すべき中身がない」ということで小川さんの協力を仰いだということもあったらしい。
それがこうして常設展になり、いつでも、誰でも見れるようになったのは素晴らしいことだ。

Fl他にもスゴイのよ。
銘板を見るとほとんどすべてに「小川コレクション」と入ってる。
ミニエー銃とかゲベール銃とか、幕末の戦争ものの小説でしか目にしない名前のホンモノがゴロゴロしてる。

Gun大砲や砲弾…

Bl夥しい数の陣笠。
とにかく素晴らしいのがその保管の状態。
全てがピカピカで「ああ、ココが取れちゃってるのが残念だね~」なんて不完全なアイテムがまずない。

Jgこうなると気になるのが、小川さんのお姿。
現場には一切写真が展示していなかったのでインターネットで捜索してみた。
こんな方…おお、いかにもジェントルマン!
相当な資産家なんでしょうネェ。
そうでなければこんな貴重品をドッカンドッカン手に入れられるハズがない。
でも、一番不思議なのは、この膨大なコレクションを一体全体どこにどうやって保管していたのだろうか…。
小川さんはご自分で「是苦集」なんておっしゃているが、コレ…周りの人が一番「苦」なんじゃないかしら!

Otココに何時間いたかナァ?
萩にいらっしゃるチャンスがあれば絶対にこの小川コレクションは見ておくべし!
だいたいね、こんなスゴイものは国なり都なりが金を出してそれなりの施設を作って東京で展示するべきだよ。
もちろんもっとたくさんの人に見てもらうためにね。
そうすれば海外の人に見てもらえるチャンスも増えるだろう。
そしてキチンと保管して子孫に受け継いでいくべきよ。
日本人は本当にこういうことに関する民度が低い。
自分たちの歴史なのに!
イギリス人なら間違いなくそうしてるよ。
何なら大英博物館に寄贈した方がいいかもよ。

1150本当は石見銀山でも見学して羽田に戻ろうと思っていたんだけど、夕方の便がすべて欠航ということで滞在3日目の朝、空港を発たざるを得なかった。
あ~、今回もとても素晴らしい「田川旅」だった。
ヒロアキくん、美瑞穂さん、どうもありがとうございました!1155
☆★☆★☆★☆★☆★☆おまけ★☆★☆★☆★☆★☆★

コロっと忘れていたんだけど、楽屋でヒロアキくんの出番を待っていた時、フト思い出した。
それは「どんどん」といううどん屋。
10年チョット前、Marshallコレクターの竹谷さん(現Marshall Museum館長)を訪ねて熊毛郡田布施にお邪魔した時、同氏からこのうどん屋を教わった。
「おいしいな~!」と思ってね~。安いし。
いい感じのおダシとつるつるでコシのある麺。
何よりアツアツなのがうれしい。
昨年、高松へ行って讃岐うどんをいくつか食べて来たけど、ん~、ゴメン、ナント言われようと私は「どんどん」の方がいい。
その後、田布施やかつてMarshallミュージアムがあった柳井へお邪魔するたびに「どんどん」のうどんをおいしく頂いた。
今回その大切な「どんどん」をスッカリ忘れていたのだ。
で、楽屋で「どんどん」のことを思い出してそんな話をすると、上に登場したビデオの木ノ切さんが「『どんどん』は確か本店が萩のハズですよ」と教えてくれた。
それじゃ~!ということで、本店ではなかったんだけど、美瑞穂さんが教えてくれたホテルと会場の途中にあるお店に食べに行った。

1160天ぷらうどん…やっぱり美味しいんだよね。
丸亀とか花まるみたいなお盆を持って移動する学食スタイルではなく、完パケ品を出してくれる。
チョッ~トだけ甘いおダシがたまらなく美味しい。
血圧のこともあるので全部飲み干すような無茶はしないが、ゴクゴクいけちゃう。

1170店内もいい感じ(…に見えて来る)。
そして、思うのは「ああ~、東京に『どんどん』があればどんなにシアワセか…」。
そこでイチかバチかインターネットで調べてみた。
キーワードは「どんどん・うどん・東京」だ。
するとすぐに出て来た。

Simg_5555「箱崎TCAT店…フムフム。
住所は…ナニナニ…中央区…箱崎町…?」
オイ、チョット待てよッ!
ナントそこは、以前勤めていた会社の事務所のそばで、お昼にさんざん食べに行っていたお店だった!
なんだよ~、アレ「どんどん」だったのかよ~!
全く気が付かなかった。
ナゼなから…山口の方が格段においしいから。
と思って、それを確かめに早速行って来た。

1190メニューは公平を期して天ぷらうどんだ。
ちくわもプラスした。
結果!
コリャ同じ味だわ!
でもやっぱり山口で食べた時の方が絶対おいしい感じがするんだよナァ。
ひとつにはこの東京の店は丸亀みたいな学食スタイルだということ。
もうコレで味が丸亀ってしまう。
もうひとつは山口県の風土や人のあたたかさがそう感じさせるのかな…ナンチャッテ。
 
最後までご高覧頂きありがとうございました。
Sdd_2jpg2 

 
(一部敬称略 2021年5月14~15日 山口県萩市にて撮影)

私の萩<前編>

 
生まれて初めて降り立ったこの空港は島根県の萩石見空港。
いいね~、地方の空港って…広々としていて、とても静かなんだよね。
昨今のコロナ禍で羽田から日に2便飛んでいたウチの夕方の便が欠航だって。
ホントにANAさん頑張って耐え抜いて欲しい。
さもないと長年貯め込んできた私の虎の子のマイレージが水の泡になってしまうからね。
Simg_5444 これから向かうのは山口県の萩市。
後で地元の方に訊いてみたところ、東京との行き来には普通宇部空港を使うらしい。
飛行機の運航便数が多いのと、アクセスする道路の便が良いとか…。
そして、萩石見空港は「国内最優秀空港」というANA社内のコンペティションで4年ぶり2回目の優勝を果たしたそう。
「安全性」、「定時性」、「快適利便性」の3つのポイントにおいて全空港従業員が一丸となって業務を遂行している姿勢と結果が評価されたらしい。
前年は最下位だったんだって!
また、空港から萩へのルートも超快適だった。
新しい発見もあったし…。10空港から萩へは海沿いの国道191号線をひたすら西に進む。
するとすぐに目に飛び込んできたのが「田万川」という「道の駅」。
家内は道の駅が好きで、時間もあったのでチョット寄ってみた。
それからさほど走らないウチに、次の道の駅が現れた。
なんだ、都電荒川線みたいだな。
それがこの阿武町(あぶちょう)の道の駅。20ココがステキでしてね~。

30海に面していて実に風光明媚な道の駅なのだ。40温水プールもあるよ。

50そして萩の町に入る直前には下の「シーマート」という道の駅。
60kmにも満たない距離に3つもの道の駅がある。
地元の方から教わって調べてみるに、この「道の駅」というプロジェクトは、山口2か所、栃木3か所、岐阜7か所から始まったのだそうだ。
しかも、その山口の2つというのは、さっき寄って来た「田万川町」と「阿武町」なのだそうだ。
コレが新しい発見。
60このシーマートってのがスゴイんだわ。
魚市場といえば大ゲサだけど、新鮮な魚介類が所せましと並んでる。
コレは観光客目当てとかいうモノではなくて、完全に近所の人たちが晩ご飯のおかずを買いに来てるてぇヤツ。

70干物がヤケクソにおいしそうな上にアホほど安い!
大分買い込んでクール便で送ってもらった。
東京に帰って食べた。
名物のアマダイもアジも破天荒に美味しかったわ。
こっちの人たち、こんな新鮮な魚を食べていたら東京のスーパーのヤツなんてとてもじゃないけどキモチ悪くて食べられないでしょうね~。
イカもバツグン!
ところで、東京にもたったひとつだけ「道の駅」があるの知ってる?
それはどこか…。
答えは「八王子」。
もちろん新鮮な海の幸は期待できない。80そんな楽しい寄り道をしながらだったのでアッという間に萩の市街に着いた。
町の中心のアーケード。
こいのぼりが沢山上がっていてとても賑やかだが、人っ子一人歩いていない。
「ジョイフル」だった時からそうとう年月を重ねたのだろう。
でも、東京だって似たような商店街がゴロゴロしているからね。S2img_0519 でも、地方の商店街を見て歩くのは楽しい。
ホラ、こういうお店をみかけるから。
古着にタバコ…

Simg_5461 薬屋さんだ。
タバコとクスリを売ってるのか…コレが本当の「二足の草鞋」。
「二足の草鞋」の本来の意味は、相反する2つのことを職業にすることを指す。
昼間はオマワリさん、夜はドロボー、とかね。
今は何でも2つの仕事をすることを「二足の草鞋」と言っているが、コレは本当は誤用。
掲げられた古い看板に「大阪武田商店發賣」とあるが、コレはお察しの通り、武田薬品工業の前身。
「ウロコ印」というのは1898年に登録したその武田商店の商標。
薬品業界のことは全く知らないが、この業界も特約店制度を採っていたのか。
こんな金看板を掲げている津田さんはきっと地元の名士なんだろう。
昔は公共性の高いモノは地元の名士や豪商が専売的に取り扱った。
肥料なんかがそうだった。
それに目を付けたのがセメントで、今でも地方へ行くと肥料とセメントを販売している古い商店をよく見かける。
コレは「二足の草鞋」ではありません。肥料とセメントは相反していないから。

110こんな軒下の装飾なんてモノはいいね~。

120「洋行」なんてのは古い言葉だね。
日本から中国へ進出して商売する連中が自分の会社や商店を「洋行」といった。
だから上海の三井物産は「三井洋行上海支店」といったらしい。130コレがその元上海の三井物産。
とても美しいビルだったよ。170_2 太田洋行さんにはこんなアイテムが売られていた。
「源義経の兜」だそう。
ホンモノかな?…なんて志ん生の落語みたいじゃん?ま、あれは骸骨だったけど。
ちなみに昔はセメントのことを「洋灰(ようばい)」っていったんだよ。140やっぱりこういう町並みはステキだね。

150町を歩く。
こうした建物を見ていると、いくら歩いていても飽きることがない。
「空襲がなかった」ってステキなことよ。

160こんな近代的なビルも!
「ヤング・プラザ萩」というシネマ。コンプレックス。
何がかかっているのかというと…170v「ローマの休日」に「ハリー・ポッター」に「七人の侍」!?
マジか!180「水戸会館」!
こんな名前をつけて大丈夫なのか!?
210コレはハンドメイドの帽子屋さん。
雰囲気がオモシロかったので撮っておいた。
筆ペン、習いたいな~。185人のことを言えた義理ではないが、萩市長…ん~、とてもわかりやすい!
もうご自分自身が市の名前のアイコンになってるもんね。
しかも「田中文夫」さんなんて、オッソロしくシンプルなお名前。
読み間違えられることも一切ないだろうし、綴りの説明がとてもラクそうでうらやましい。
お隣さんと違って、どんなことがあっても会議に遅刻することなどないマジメそうな方だ。

186v夕方のジョイフル。
……昼間と何ら変わりがない。
大丈夫、大丈夫、東京にもこういうところがゴロゴロしてるから。220その入り口にある「高札場」。
「高札場(こうさつば)」というのは、掲示板を掲げた場所のことね。
新聞もインターネットもなかったから、お上の通達をココに掲げて村人に内容を知らせた。
コレはレプリカだけど、当時の基礎が地中に残っていて、1654年に7枚の高札が掛かっていたことがわかっているんだって。
たとえば「忠孝にはげみ、親子兄弟仲良くすること」。
江戸の昔は「親殺し、主人殺し」なんていったら一発で死刑だからね。
それだけ忠を重んじていた。
「キリシタン禁令」とか「異国船の抜荷禁止」なんてのもあったらしい。
「抜荷(ぬけに)」というのは「密輸」のことね。
当時は抜荷で巨万の富を得る藩もあった。
ココはそうして村人が集まる場所だったため、晒場(さらしば)の機能も持っていた。
つまり極悪人をココで磔(はりつけ)にしたり、獄門で首を晒したりしていた。
ヤダよね、こんな町中に生首が並んでいたら!

200町を回って感じたんだけど、コンビ二が大変少ない。
イヤ、東京の多さが異常すぎるんだとは思うけど、ホントに少ないの。
スーパーもほとんど見かけなかったナ。
コレは町の既存の商店の保護を目的に市条例でも布いているのかな?
それで、ナゼかセブンイレブンの看板が赤と緑ではなくて白と黒なんだよね。
コレも景観条例かなんかで定めているのだろうか?
何だったかは忘れてしまったが、他にもが通常は色が付いているのに、モノクロの看板を掲げたチェーン店を見かけた。
スターバックスはどうなっていたかな?…あ、なかったわ。荒川区と一緒だ。

230私がどうして萩まで来ているのかをまだ書いていなかった。
オリンピックの聖火リレーのイベントに田川ヒロアキが出演するので、Marshall Blogがその取材にお呼ばれしたのだ。
イベントの内容はMarshall Blogでレポートしているのでコチラをどうぞ。
    ↓   ↓   ↓
TOKYO 2020 OLYMPIC TORCH RELAY<前編>

TOKYO 2020 OLYMPIC TORCH RELAY<後編>
460さて、見どころ満載の萩。
すこし山の方面に入って見て来たのは「東光寺」。
ココには感動しちゃったよ。
コロナで無人。
チャンと拝観料の300円は入れましたよ。

4701691年、萩藩三代藩主 毛利吉就が開いた毛利氏の菩提寺のひとつ。
毛利氏はスゴイからね。
最盛期には山陽道・山陰道10か国と九州北部の一部を領国に置いた最大級の戦国大名。
ところが…豊臣政権の五大老だった毛利家十四代目の当主である輝元が1600年、関ヶ原の戦いで西軍の総大将として担ぎ出されて家康に負けちゃったもんだから周防と長門の2か国以外を全部取り上げられちゃった。
そして、江戸時代には新たに萩に城を作って長州藩(萩藩)となったワケだ。
そしてそれが幕末の倒幕運動の礎を作ることとなった。
山門も立派!

480これが本堂。
何の着色もしていなくてヴィンテージ感がすさまじい。
490本堂の裏に回る。
「四大夫十一烈士」の墓が並ぶ。
盛り上がっていた尊王攘夷の急進派だったが、1864年の禁門の変(=蛤御門の変)と下関戦争(=馬関戦争)の敗北により、長州藩は方針を転換して幕府への恭順姿勢を示すようになる。
一方、幕府の方は第一次長州征伐を実行直前。
そんな中、禁門の変の責任を問われて合計4人の家老が自刃を命ぜられた。
幕府に対するジェスチャーですな。
その切腹した家老の墓が下の5つのウチの4つ。
向かって一番左は同様に責任を感じて後に自主的に腹を切った周布正之助の墓。

S0r4a0071_2 また、同様に野山獄(<後編>に登場)に投獄されて処刑された急進派の尊王攘夷派11人の墓が直角にズラリと並んでいる。
だから「四大夫十一烈士」の墓。500そして、この十一烈士の反対側が一大スペキュタクラー。

520夥しい数の石登楼。

530なだらかな勾配が付いているものだから、見上げると一目ですべての灯篭が目に入る。

535そして、正面にズラリと並んでいるのは萩藩主毛利家代々の墓。

540一番真ん中にあるのはこの東光寺の開祖である長州藩三代目当主の吉就とその正室であった亀姫の墓石。
殿の戒名が立派!
「壽徳院殿前二州太守四品拾遺補闕大光元榮大居士」…〆て22文字!
ま、こんな立派なのはどんなにお金を出しても付けてもらえないでしょう。
普通はスタンダード・コースで6文字。
チョット踏ん張って9文字だからね。
一方、亀姫の方は…
「長壽院殿慈雲元輝無相老尼公禅師」で15文字。
吉就は27歳の短命だったが、一方の亀姫は83歳の長寿を全うした。
「老尼」なんて言う文字が入っているのはこのせいかも知れない。
それにしても未亡人生活ナント56年!
寂しかったろうにナァ。

S0r4a0084

3d 
他に五代吉元、七代重就、九代斉房、十一代斉元といった奇数代の長州藩当主の墓が並んでいる。
4つ以上あるのは、全て正室の墓とペアになっているから。
こういったことに私は全く浅学でははあるが、番で埋葬されているなんて珍しいんじゃないの?
有名な毛利家十二代当主、毛利元就については永井路子という女流作家が何冊か著しているので興味のある人はどうぞ。
大の永井ファンであるウチの正室に言わせるとすごくオモシロいらしい。

560毛利家は「毛利水軍」という海賊を擁して瀬戸内海の覇権を確立していた。
イギリスもそうだけど、海賊ってのは政府のウラ直轄組織の公務員みたいなもので、エリザベス1世女王の頃、有名なスペインの無敵艦隊(Amada)を駆逐したのも海賊で、コレでイギリスは世界の一等国にのし上がったんだから海賊サマサマだ。
毛利家は海に関連が深かったせいかどうかは知らないけど、何でも亀の上に載っけちゃう。
しかも亀がみんな同じ方向を向いてる。
それとも亀姫の関係かしらん?
いずれにせよ長寿でめでたいモノのアイコンのひとつだったのだろう。
…と思っていたらその通り。
この亀の台座は中国から伝わった「亀趺(きふ)」と呼ばれるもので、亀は「亀は万年」と言われるように長寿の象徴であったことより、亀の台座の上に碑を建ててその碑が未来永劫残るよう願いを込めたのだそうだ。

570この石灯篭は500基以上あるんだって。
昔は何かの行事の時に火を入れていたのかな?
キレイだったろうな~。
その光景たるや幽玄の極みだったに違いない。
 
ちなみに初代を含む偶数代の藩主の菩提所は「大照院」というところで、そちらには600基以上の灯篭が並んでいるらしい。
負けた…。
しかし、この東光寺は黄檗宗(おうばくしゅう)、大照院は臨済宗と宗派が違うのが気になったが、聴き慣れない黄檗宗は日本の三禅宗のひとつで、教義、修行、儀礼、布教といった点は臨済宗と同じなのだそうだ。580私はしょっちゅう書いているように生まれも育ちも東京なもんだから、幕末の志士ファンというワケでは決してない。
でもね、萩はも~見るところ満載でね、勉強してジックリ見たらとても1日や2日では見切れない。
…ということで急いで次のポイントに移動。
 
ココはね、42年前に来てるんだよ。
そう、実は高校の修学旅行は山陰&山陽をめぐるコースで、岡山から山口を回ってグルリと鳥取まで周遊したのです。
念願の秋芳洞に行けて、とても楽しく思い出深い旅だった。
今、やって来たのは伊藤博文の生家。
ん?違うな…コレは違う。
「伊藤博文の家」という看板は出ているけど絶対に違う!
42年ぶりでも違うということがすぐにわかるぞ!

590証拠はコレだ!
下は42年前の私。
伊藤博文の生家の前で、当時の千円札を持って仲良しの安藤くんと撮った写真じゃ。
私の髪の毛が妙な形をしているのは、この旅行の数週間前、ライブハウス出たさに学校の記念行事をサボった罰で「アタマを丸めて来い!」といわれ、さすがに坊主頭にはできず、スポーツ刈り程度で勘弁してもらったヤツが伸びちゃったところだからだ。
そのライブハウスというのは、吉祥寺にオープンしたばかりの「シルバーエレファント」だった。
すごく茶色っぽいでしょう?
コレは地毛の色なの。
私はものすごい赤毛で、学校で「黒く染めて来い」と言われたこともあったの。
今は真ん中がゴッソリ無くなっちゃったもんだからそんなことスッカリ忘れてたわ。
昔の写真ってのはいいもんだ。
 
さて、安藤は中2の時にクラスが一緒になって、同じ「映画好き」ということですぐに仲がよくなった。
昔、日刊スポーツが「日刊ゴールデン試写会」っていうのをやっていてね、家で日刊スポーツをとっていた安藤が抽選に応募してくれるワケ。
ほぼ毎回当たって、内幸町にあるイイノホールによく誘ってもらった。
原田美枝子が『錆びた炎(1977年)』という映画に主演して舞台挨拶に登場したことがあった。
すごくステキだったのを覚えている。
安藤はスゴくてね、いつも何がしかの本を読んでいてね、我々が「なんだ?『まつしむらじゅく』ってよ~?ナショナルかぁ?」なんてやっていたこの修学旅行の時にはもう『竜馬がゆく』を読破していた。
元々フォークが好きで、中2の時にボブ・ディランを熱心に聴いていたからね。
岡林信康を教えてもらったのも安藤からだった。
Shige Blogで紹介した、1977年に晴海で開催された「ローリング・ココナッツ・レビュー・ジャパン」に誘ってくれたのも彼。
千葉の鹿野山の寺に2泊ぐらいで座禅を組みに行ったこともあったな。
その後、ローリングストーンズに夢中になって、パンク・ロックに傾倒して音楽の趣味がスッカリおかしくなっちゃった。
でもThe Kinksなんかも聴いていたなナァ。私なんかより全然進んでいた。
日本で知らないものはいない一流の大調味料会社に勤めているけど…もう何年かしたら定年だネェ。
人生ってのは早いもんだ。
安藤の奥さんはウチの御台所の短大時代の仲良しということもあって、今でもタマ~に連絡を取り合っている。
Marshall GALAは初回も『2』も両方観に来てくれた。
だからヒロアキくんのステージも経験している。

595vとりあえず中に入ってみる。
……も~、完全に違う。
と、騒いでいたらボランティアでガイドをしているおジイさんが出て来ちゃった。
このおジイさんがまた説明したくてしたくてしょうがない。
ナニか展示品を見てると、遠くの方から「あ、それ?それはですね~…」と頼んでもいないのに近くへ来て説明してくれる。
ほっといて欲しいわけよ、おとなしく見てるんだからあ!
も~、誰も来ないからヒマでしょうがないワケ。
ま、こっちもどちらかと言えばダマって人の話を聞いていられるタイプじゃないでしょ?
こっちも質問攻めにしてみたよ。
数年前に木曽の妻籠へ行った時、ガイドのお姉さんが藤村の「まだあげ初めし前髪の…」と『初恋』を吟ずるもんだからさ、こっちも「小諸なる古城のほとり…」と『千曲川旅情の歌』を諳んじてみせた。
ガイドさんかなりビックリしていた。
もちろん、藤村なんて私は丸っきり門外漢でせいぜい「蓮華寺では下宿を兼ねた」という『破戒』の書き出しぐらいしか知らないし、結局最後まで読んでいない。
ところが、安藤は上に書いた通り、座禅を組みに行った時に『破戒』を読んでひとりで感動していたんだよ。
で、ココのガイドに確認したところ、この屋敷は伊藤博文が住んでいた品川に移築していたモノなのだそうだ。
道理で…。
じゃ、上の写真の正真正銘の生家はどうなったのか?と尋ねると、私の質問攻めに気分を害したのか「ああ?ありますよ。となり…工事中ですよ」と何やら大変そっけない。
Sentそれは隣りだって。
改築中で一般公開していないっていうのよ。
ナンだよ。

600コレが入り口。
この門をくぐったところで安藤と写真を撮った。
ガイドジイさんは想像を絶する伊藤信奉者で、3回ずつ同じことを言わないと話が前に進まない。
聞いているとヒロアキくんのリハーサルに間に合わなくなりそうだったので、残念だけど途中で切り上げさせてもらった。620さて、ようやく<前編>の最後のセクション。
もうチョットお付き合いくだされ。
 
萩は世界遺産がゴロゴロしているのね。
といっても、イギリスのブレナム宮殿やカンタベリー大聖堂のように「コレ!」っと単体で登録されているワケではなく「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」という括りの合わせ技で登録されている。10vそのひとつがこの「恵美須ケ鼻(えびすがはな)」という造船所の跡。
コレには結構感動した。30v1854年、幕末に通商の交渉をしにロシアからやって来たプチャーチンはアーダコーダと粘っているうちに「安政東海地震」に遭ってしまい、乗って来たディアナ号が大破し、ロシアへ帰れなくなり下田に釘付けになってしまう。
色々やってみるが、結局新しい船を作るしかロシアに変える方法がない。
ところが、日本には外洋を航行するに耐える洋船を作る技術がない。
この辺りのプチャーチンとの交渉にあたったのが時の勘定奉行、川路聖謨(かわじとしあきら)。その2人の交渉の過程や友情を綿密に描いた作品が吉村昭の『落日の宴』。
オモシロいよ。
60b結局、下田の近くの戸田村(へだむら)というところに日本の船大工が集まり、ロシア人技師の指導を受けながら洋船の建造に着手する。
ロシア人は日本の船大工の手先の器用さにかなり驚いたらしい。
一方、最初は大きな船の建造には消極的だった長州藩は桂小五郎の意見により洋式軍艦の建造に乗り出す。
萩藩は戸田村の洋船建造の話を聞きつけて尾崎小右衛門という船大工を派遣するワケ。
そして、尾崎は洋船建造の技術を習得して、戸田村の船大工を連れて萩に戻り造船所の候補地を探す。
そして、白羽の矢が立ったのがこの恵美須ケ鼻。
ココで「丙辰丸」と「庚甲丸」という2隻の洋式軍艦を作ったっていうんですわ。40_2庚申丸は馬関戦争に出陣してアメリカ軍と戦って撃沈されたが復旧して長州征伐に備えた。
ま、何にも残っていないと言ってもいいぐらいなんだけど、関係する本を読んで現地に赴くということは実に楽しいね。
写真の上の方に小屋が見えるでしょ?
ボランティアのガイドさんが常駐してるんだよ。
ヒマだろうな~。
いいな~、私だったら本を山ほど持ち込んで一日中読んでるわ。50_2さて、戸田村で造られた洋船は「ヘダ号」と名付けられ、プチャーチンはそれに乗ってロシアに帰って行った。
下は今も残る当時の堤防。

S0r4a0026 吉村昭にはこの時の造船の過程だけを描いた『磔(文春文庫刊)』という短編集に収録された「洋船建造」という短編もある。
吉村先生の作品は圧倒的に長編の方が読み応えがあって、志賀直哉の「城の崎にて」や梶井基次郎の「檸檬」などの影響を受けているとされる創作の短編は私なんかにはツライ。
両方読んだけどサッパリわからなかった。
先生はあんまり好きで、写経みたいに文章を書いて写したっていうんだよね。
そんな先生の短編でも史実に関する短編はすこぶるオモシロイ。
「洋船建造」もそんな一作。
タイトルの「磔」が気になる人もいるかもしれない。
コレは女子供も容赦なく耳を削がれ、磔にされるために裸足で長崎まで歩かされているキリシタンの話。
昔は残酷ね。

70b下は上野の池之端にある大正寺。
ココに川路聖謨の墓がある。
散歩していて偶然見つけて驚いた。3ta3次の世界遺産は「萩反射炉」。

80_2韮山の反射炉が有名だけど、近世の日本の反射炉はこの萩のモノと2つかしか現存していないそうだ。
残っているのは反射炉の煙突部分の先の方ね。90v_2萩藩がアヘン戦争のことを知って海防の重要性を感じ、西洋式の鉄製の大砲を鋳造するためにこの設備を建造した。
うまくいかなかったらしい。

100_2裏はこんな感じ。110v次の世界遺産は「萩城下町」と呼ばれる古い民家が立ち並ぶエリア。

120_2いいよね~、こういうところを見て歩くのはすごく楽しいね。

139見ていて全く飽きない。
170一般公開している「菊屋家住宅」というところに入ってみる。

140_2毛利家に取り入っていた豪商の家。
立派なもんです。

150_2庭もスゴイ!
でも雨の方がスゴくなって来ちゃった!
イベントが昨日で本当にヨカッタよ。
160_2それでも見て歩く。

180_2

190「景観のため道路標識がありません」という徹底ぶり。
一方通行の標識が立ってないんだよ。
さすが世界遺産の一部。
幕末の有名人ゆかりの建物がズラリと並ぶ。

195コレは木戸孝允の生家。

200_2晋作広場。

220_2高杉晋作の銅像が立っている。

230vこれが生家。

249表だけね。

250_2田中義一の生家跡。
陸軍大臣から、昭和2年、第26代内閣総理大臣に就任した人ね。

260_2萩観光はまだまだ続く。
<後編>でも世界遺産を紹介します。
42年前の修学旅行の時、こんなに色んな所を見なかったですけど…一体ナニをやっていたんだろうね?

270_2<つづく>
  

 
(一部敬称略 2021年5月14~15日 山口県萩市にて撮影)