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2022年8月

2022年8月21日 (日)

私の高松 <vol.3>~丸亀の丸亀うどん

 
コレが2日目に泊まったホテル。
風呂が全部家族風呂になっていてとてもいい感じ。
「湯上りのアイスキャンディが無料」なんてサービスもあったけど、そんなことより従業員が皆さんご親切でとても快適な滞在だった。

10_3ホテルの周囲を見て歩く。
並びにある歴史的なルックスのお店の名は「虎屋」。
草団子を売っているワケではない。500何でも江戸時代から続く旅館だそうだ。510なるほど実に貫禄のある佇まいだ。520旅館だけでなく、うどん屋も併営している。
というか、今では旅館業より飲食業の方をメインとしているのであろう。
ご主人がとても積極的な方で、建物の説明をしながら中へグイグイと誘導してくれたが、お腹が空いているワケではないし、最近は間食をするとお腹がイッパイになって3度の正規のご飯(今は2度にしている…それでも痩せない)が食べられなくなってしまうのでお断りした。530琴平町の「公民館」。
昭和7年の建造だそうだ。
見事な日本建築!

540この近くに天保6年(1835年)に建てられた現存する日本最古の芝居小屋「金丸座」というのもあったんだけど、工事中で全く見学できず。550ホテルの前の道。
突き当りが金毘羅宮の参道の入り口。
30_3反対側。
平日だったとはいえ、人がほとんど歩いていなかった。20_3最近は観光地にきっとあるご当地プリン屋。
ココのは他と違ってゼリーが混ざった感じで美味しかった。40_4讃岐だもん、そりゃ「うどんの学校」ぐらいあるよね。
系列のお土産屋さんもいい感じ。50_3ホテルのすぐ並びにある「金陵」という造り酒屋。
60_3先日、Marshall Recordsアーティスト、D_DriveのYukiちゃんが灘の「白鶴」のウェブCMに出演し、そのレポートをMarshall Blogにしたことから日本酒に少々興味を持つようになりましてね…。
 
その記事はコチラ⇒【Marshall Blog】酒は白鶴、アンプはマーシャル!

Syuki2 調べてみるとこの「金陵」も元はなかなかに古い。
元和2年(1616年)というから江戸時代の初め、鶴羽屋という酒造家があって紆余曲折を経たのち、寛政元年(1789年)に八代目西野嘉右衛門という人がそれを買い受けたところから始まったのが「金陵」というブランドなのだそうだ。0r4a1923「金陵」という名前は、江戸時代の儒学者・頼山陽が琴平を訪ねた際、中国の金陵(今の南京)を思わせるとして、琴平のことを「金陵」と呼んだことに由来しているのだそうだ。70_3「頼山陽(らい さんよう)」とはこの人。
ヒゲ濃いな~。
まるで昔の野球マンガに出て来る長嶋選手みたいだ。
『日本外史』という日本の武家の歴史に関する本を書き、それがベストセラーになってその名を知られるようになった。
幕末をテーマにした歴史小説に必ず登場する「頼三樹三郎(らい みきさぶろう)」は山陽の三男坊。
お父さん、それにしてもヒゲが濃い。
Rai 酒造りの博物館が併設してあって誰でも見学することができる。80vところで、ワタシは鶏料理が好きでしてね~。
家内が「一鶴」という骨付きモモ肉が名物のお店が丸亀にあることを事前に調べてくれていて、この日食べに行くことになっていた。
ところが当日の朝、予定外に<vol.1>で紹介した高松松平家の菩提寺の「法然寺」へ寄ってしまったものだから、このお店がお昼の休憩に入る前に行けるかどうか微妙な時間になってしまった。
それでも「とりあえず行ってみよう!」ということで丸亀へ向かった。
案の定、間に合わず食べることができなかった。
コレがその骨付き肉。
ク~、うまそ~!
5ik せっかく丸亀まで来たんだから…と丸亀城を見学。
コチラさんは石垣が自慢だそうで…。
何しろその石垣の高さは日本一で日本の100名城にも選出されているのだ。
170_2信長→秀吉→秀頼に仕えた松平家の前の高松藩主、生駒親正と息子の一正が慶長2年から5年がかりで築いたのが丸亀城。90_3丸亀城の石垣は、江戸時代初期の城郭石垣を築く技術が最高水準に達した時に作られたものなのだそうだ。
これぞ当時の石垣の最高技術!100_2石垣の頂に行くにつれ垂直になるよう独特の反りを持たせる技術を「扇の勾配」というらしい。
確かに美しいな。120vと、大人しく見学していると現れるんだな…ボランティアのガイドさんが!
「この梁がどうの」、「こっちの柱がどうの」…。
チョコッと説明してくれるだけなら歓迎するんだけど、ああいう皆さんって、こっちが説明の内容に感心していると微に入り細に入りやり出すでしょ?
ありがた迷惑な時があるのよ。
もうこっちがイヤがっているのがわからないかね~?
萩の博物館に行った時は知識で競り勝って引き離したけど、丸亀なんてうどんぐらいしか知らないからね。
この場はも「時間がない」とか言ってナントカ切り離しに成功。110_3エッチらオッチら、天守閣を見に山のてっぺんまで来ると、またそのガイドのオッサンが現れるんだな~。
「そうですか?じゃ説明しましょうか?」ってオイオイ、頼んでね~よ!
ナニが「そうですか?」だよ!
ココはさっさと入館料を払って天守閣の中へ避難した130_3スゴイ風でね~、寒くて寒くて!とても外にいられなかった…というのもあった。140_2でも景色はヨカッタ。
飯野山…別名「讃岐富士」。
オモシロいね、こうやって突然ポッコーンと盛り上がっているのが讃岐流の山。150_2さて、せっかく丸亀まで来たんだから丸亀製麺の本店でも見物しに行くか!と思って調べてみると…丸亀に「丸亀製麺」はない!
「紺屋の白袴(こうやのしろばかま)」ってか?
本店どころか店舗が存在したことすらないらしい。
「はなまるうどん」は高松が発祥なんだって。
ところが「丸亀製麺」の発祥ときたら、ハハハ、兵庫県加古川市だって!
香川県ということで言えば、丸亀は高松市に1つ出店しているだけ。
反対に「はなまる」は丸亀にお店を出しているそうだ。
なんで「丸亀」の名前を冠したのかというと、創設者のお父さんが「丸亀中学校」出身だからだって。
それって全然関係ないんじゃん?
ま、「東京ディズニーランド」も東京にはありませんから!160_3土讃線琴平駅。
駅舎がいいね!180_3駅前の石灯篭がまた実にいい!
お寺かと思ったわ。
220_2駅舎の中はこんな感じ。190_3そして、駅前にそびえ立つのが慶応元年(1865年)に完成したという高さ27mの日本一高い灯籠。
その名も「高灯籠」。
壁に江戸時代の人々の落書きが今も残されている。200_2こんなモノ何で作ったんだろう?
それは、決してこの辺りの通行人のためではなく、瀬戸内海を航行する船の乗組員たちのために建てられたのだそうだ。
つまり、船人が金毘羅さんを拝む目印だったワケ。
金毘羅さんは「海の神様」だから、船の上で航海の安全を祈る時、「オイ、金毘羅さんはどっちの方向だ?」「アレを見ねい。高灯籠がアソコに見えているからアッチの方角に違げえネェ」とやったのだ。210vこれで『私の四国』の<高松シリーズ>はおしまい。
次回は<小豆島の巻>です。

2022年8月20日 (土)

私の高松 <vol.2>~金毘羅さんへ上るぞ!


四国2日目。
法然寺から琴平町に回る。
「こんぴらさん」ね。
ホテルに荷物を預けて早速金毘羅宮に向かった。
ホテルの人から杖の貸し出しのオファーを受けたが、バカにするない!
まだまだ足腰は達者じゃわい。
ホテルのすぐ先が参道の入り口でとても便利。
10_2ああ、もう足がガクガクだ。
ウソです。20_2左右に立ち並ぶ年季の入った土産屋の風情が何ともタマらんね。40_3こういった手合いのモノが果たして売れるのであろうか?…って、売れるからお店が続いているんでしょうけど。
30_2コリャ「森の石松」だな?
「石松金毘羅代参」っていうヤツ。
50_2「石松金毘羅代参」というのは、『清水次郎長伝』の中の一話で、金毘羅宮に願掛けをした次郎長親分がその宿願を果たし、代理で森の石松を願ほどきに四国に派遣する物語。
ところが、次郎長親分は石松に道中の酒と博打と喧嘩を固く禁止する。
そこから色々とハプニングが起こるワケだね。
今の若い人は知らないだろうけど、我々世代ぐらいの人ならきっと知っている、あの有名な「食いネェ、食いネェ、寿司食いネェ」というヤツは、この金毘羅代参の帰りの船の中でやるんですよ。
あ、参考までに書いておきますが、「森の石松」って、「森」にいるのかと思っていたけど、それは違う。
トトロやジェスロ・タル(←「Jack in the Green」という曲のことです)じゃないんだから。
「森の石松」の「森」は石松の出身地、「遠州森町村」のこと。
 
『清水次郎長伝』は二代目広沢虎造でどうぞ!
浪曲っていうのは「ひとりミュージカル(正確には『曲師』と呼ばれる三味線を弾く伴奏者と2人)」だからね。
ジッと聴いているととてもいいもんです。Sz さあ、ガンガン歩くぞ~!60_2観光地でよく見かけるこういうアイドルのグッズって一体誰が買うんだろう?
天地真理とか、私は一度足りとも買ったことも、買ってもらったこともありません。70_2お、もう100段か!
チョロい、チョロい!80_2周囲の様子がコロコロ変わっていくのが楽しいな。
階段を上がるだけじゃ飽きちゃうもんね。90_2備前焼の狛犬だって。110vこんなの出て来た。
「灯明堂」という釣り灯籠のハウス。
安政5年(1858年)に建てられたモノ。0r4a1687 梁への彫刻等、なかなか手が込んでいる。130_2ハジッコも立派!
使っていた頃はココから入って中の灯籠に火を灯したのだろう。0r4a1695 ナンカ急に階段が険しくなってきたナ。
まだ全然ヘッチャラだぜ!140v1993年の『男はつらいよ』の第46作『寅次郎の縁談』のロケ地は香川で、金毘羅さんに詣でるシーンが出て来る。
マドンナは2回目の松坂慶子。
もうこの頃の渥美清はガンで著しく体調が悪く、派手な演技が一切できなくなっていたそうだ。
ちなみに笠智衆はもう亡くなっていて、タイトルからクレジットも消えていたが、劇中で「御前さまお元気?」、「元気にしてますよ!」というシーンが2回ぐらい出て来る。
本当はもうこの世にいなかったのだ。
アノね、「寅さん」はチョットやらかしてしまいましてね、近々またこのShige Blogで記事を編みたいと思っています。
155v時折後ろを振り返るととても気持ちがいい!
子供たちは元気じゃのう。
イヤ、ワタシだってまだまだナンともありません。
150v時折出て来る展示コーナー。
これが存外に楽しい。
 
「琴陵宥常大人命(ことおかひろつねうしのみこと)」という金刀比羅宮の元宮司。
江戸時代、「金光院金毘羅大権現(こんこういんこんぴらだいごんげん)」と呼ばれていたのを現在の「金刀比羅宮」という神社名に改めた人。
1886年、紀州沖でイギリスの「ノルマントン号」という船が沈没。
イギリス人の乗組員は船員は助かったものの、日本人が全員水死しまった。
そこでこの琴陵宥常は海上安全を祈願して時の総理大臣であった黒田清隆に直訴して「大日本帝国水難救済会」を創設させたのだそうだ。
金毘羅宮は海の信仰だからね。
160_2だからこんなモノも展示してあった。
昔の全国の海難事故の避難所マップ。0r4a1703 294段目…まだ半分も来ていないのかよ!
どうりで足がヘッチャラだと思ったわ。
170v
チョット疲れた頃になると現れる展示コーナー。
階段を上っていて飽きさせないように設計されているのか?
 
コレは「掃海殉職者顕彰碑」というもの。
第二次世界大戦中、瀬戸内海や日本近海にはなだ67,000個に及ぶ機雷が浮いていて、日本周辺の海路をことごとく塞いでいた。
アメリカ軍の置き逃げよ。
「それじゃ困る」ということで昭和27年から約6年の長きにわたってその機雷の始末に従事していた旧海軍関係者の人たちがいた。
そのウチの79名が殉職。
その方たちを称え顕彰したのがこの碑。0r4a1711 コレは上とは別に世界の掃海作業で活躍した「はやせ」の錨。180_2365段目にある「大門」。
吉原みたいだな。
お土産屋が立ち並ぶのはココまで。

190_2ハイ、後ろはどんなかな?
おお~、高くなってきた!210_2大門を抜けると勾配が緩くなって景色が一変する。220おお!それっぽくなってきたぞ!230_2「桜馬場」という石畳のエリア。
こうした寄進額を表示した石碑を「奉納石柱」というらしい。
0r4a1726こうしてズラリと並んでいるんだけど、寄付額は「壹百萬圓」、すなわち「1,000,000円」!
なんの、なんの!…240_2「3,000,000万円」行ってみよう!250_2寄進額の思い切りの良さとは別にこの辺りはとても雰囲気がよくて歩いていて気持ちが良い。260_2また階段。
ドンドン行くぜ!270_2青銅の鳥居をくぐって階段を上ると…280_2ちょっとした広場になって色んなモノが展示してある。
まず目についたのはコレ。
「もーれつア太郎」に出て来そうなこの犬は「こんぴら狗」というそうだ。
どんな犬か?…高札の解説を読んでみよう。0r4a1735 皆さんも読んでみて!
フムフム…って、サッパリわからんわ!
前半の文章は完全に複雑骨折をしている悪文。
いわゆる「フリー文章」…コレでよくOKが出たな。
一度たりとも読む人のことを考ていない文章と言えよう。 
0r4a1737 私だったらこう書くよ。
「江戸時代、庶民はみなとても篤い信仰心を持っていました。
そして、伊勢神宮や富士山にお参りすることを望んでいましたが、それは庶民の夢で一生に一度行けるかどうかの一大イベントだったのです。
ナゼなら、費用がかかるばかりではなく、昔は交通機関などありませんから遠方へ出かける長い期間仕事を休まなければなりません。
そんなことはできるハズもなく、庶民は代わりに『講』というシステムを考え出しました。
コレは、講のメンバーでお金を出し合って旅費を作り、みんなで選んだ代表者に現地へ行ってもらい、出資者たちの分まで代理でお参りをしてもらうシステムです。
このシステムは「伊勢講」、「富士講」などとして日本国中に伝播し、大変な発達を遂げました。
一方、代理のお参りを犬に託した人もいました。
この『金毘羅参り』がその対象のひとつです。
初穂料と道中の食費を入れた袋に『こんぴら狗』と書いて犬の首に括り付け、犬は街道を行く旅人から旅人に引き渡されて見事金毘羅宮までたどりつくのです。
しかし、飼い犬の願い事はひとつしか叶いませんでした。
ナゼかというと、犬は参道の階段785段を上り、本堂でお詣りするワケですが、口にするのは「ワン」だけだったからです。
おあとがよろしいようで…」

Ki_5 ナゼかアフリカ象の像が…。
金刀比羅宮のある山が「象頭山」と呼ばれていることからのようだ。
山の形が象に似ているんだって。290_2そういえば昔、『脱走山脈(Hannibal Brooks)』という象を脱走する映画があったな。
主演はオリバー・リードとマイケル・J・ポラード。
『バックトゥザフューチャー』のマーティを演じたマイケル・J・フォックスっているでしょう?
この人はマイケル・J・ポラードの大ファンだったので、自分の芸名も「マイケル・J」にしたんだよ。
ポラードは『俺たちに明日はない』でボニーとクライドの子分を演った人。
いい役者だった。
Ds ナンダナンダ?
こんなモノも出て来た!300コレは高さ6mもあるホンモノの大型船のプロペラ。いわゆるスクリュー。310_2寄進者は今治造船株式会社。
金毘羅宮は「海の神様」だし、「金毘羅さんも弊社もうまく回っていきますように」…との願いがこめられているそうだ。
案外軽いな…。
ま、こんなスゴイものを寄進されるのだから、よもや首が回らなくなるようなことはあるまい。320_2神馬(しんめ)もいらした。
「月琴号(げっきんごう)」という。
神様がお乗りになる馬ですからね、エライんだぜ。330_2丸山応挙の絵で知られる「表書院」。
時間の関係でスキップした。340_2628段目にある旭社。
大分来たぞ!
350_2この提灯のロゴ。
丸に金かと思っていたらチョイと違う。
コレは御社紋(ごしゃもん)という神社の紋で「まるこん」と呼ばれているのだそうだ。
文字自体は「金」で、隷書体(れいしょたい)フォントで表したものだそうだ。360_2本宮までの最後の難関。
最後がコレかよ~。380_2あと133段だって。
ハイハイ、登りますよ。Img_0132 登った~!390コレが本宮。
ココも実は2回目の訪問なのだ。
400_2コレが47年前に初めて来た時。
赤丸が私。
当時は集合写真を撮る時はなるべくいいポジションに収まるように努めていた。
黄色は「瞽女研究」の大家、石塚義一郎先生。
詳しくは<vol.1>を見てね!410御本宮の御祭神は、農業・殖産・医薬・海上守護の神、「大物主神(おおものぬしのかみ)」と、讃岐の国に流された「崇徳天皇(すとくてんのう)」を合わせ祀っている。0r4a1813_3 イヤ~、785段、さすがに疲れたわ~。420でも絶景!
450本宮のとなりの絵馬堂…なんて聞いた風なことを言っておりますが、この「絵馬堂」という名前がわからなかったので、金比羅宮に電話をして教えてもらいました。

メチャクチャ親切なご対応をして頂きました。

430海関係のモノがビッシリと飾られている。440さて、今回は本宮より先の「奥社」へも上がることにした。
ココまで785段、奥社までは1368段というからあと583段…イケるのか?Img_0146 つべこべ言わず階段を上がる。
本当はもうシンドイのよ、ツラいのよ。460vお、途中で白峰神社に遭遇。0r4a1838 「白峰」の名がつけばそれはもう崇徳天皇。
すなわち「崇徳院」。0r4a1836 「崇徳院」といえば古典落語の人気演目で、私はこの噺や「芝浜」を十八番としていた三代目桂三木助の名演で覚えた。Km_2 百人一首の歌がテーマになっている噺。
「川の流れが速くて水が二手に分かれてしまうけど、また後に一緒になるんだよ」というロマンチックなラブ短歌。
こんな甘ったるい歌を詠むワリに…

Sti_2 生前の恨みが募って崇徳院は死後恐ろしい怨霊になった。
そして、さまざま災厄をもたらし、100年ごとに開催する「式年祭」の前後には国を揺るがす大きな動乱を引き起こすとして、歴代の天皇陛下をビビらせていた。St_2そして幕末期、孝明天皇は崇徳天皇が奥羽越列藩同盟の味方をすることのないように、京都に白峰社(後の白峰神宮)を建立して祀った。
もし、この神社が建てられることなく、崇徳天皇の怨霊が会津や彰義隊の味方をして岩倉&薩長の偽の官軍を駆逐していたら今の日本はもっといい国になっていたかも知れない…と考えると大変興味深い。
ちなみにこの白峰神宮は蹴鞠の宗家の飛鳥井家の地所に建立されていることから、「まりの神様」として、現在ではサッカー他「スポーツの守護神」としてにぎわっているらしい。Sj_2 そして、崇徳天皇のお墓は今日の祇園にあって、今でも月命日の21日には月次祭というモノを開いて鎮魂しているそうだ。S3tb2さて、奥社はまだかいな…。
もうね、ダメなの。
引き返すワケにもいかないので、観念して階段を登り続けたけどサ…もうシンドかったわ。
ハッキリ言って遠慮しておけばヨカッタよ。Img_0150なんて後悔していたらナントカ到着!
1368段上りきったゼ~!
490コレが「奥社」こと「厳魂神社(いずたまじんじゃ)」。470眼下に広がる絶景!
ああ、この景色を見たら疲れナンカいっぺんに吹き飛…ばないっつーの。
もうクタクタだよ。480そして、無事に下山して夜ユックリ温泉に浸かったとさ…。
そういえば、この日はうどんを食べなかったナ。
と思ったら…570夕食の茶碗蒸しにうどんが入ってやがんの。
コレはヤメてくれ!
美味しくない。
580 <つづく>

2022年8月19日 (金)

私の高松 <vol.1>~うどんを食べに行こう!

 
「そしたら四国へうどんでも食べに行く?」
 
チョット前の話で恐縮だけど、高松へ行って来た…ホントにうどんを食べるために。
この頃はまだ「Go To トラベル」をやっていた一方、私が貯めている全日空のマイレージの大規模な失効が目前に控えていたので、ムザムザ無駄にするよりはよかろう…と、家内のひと言に端を発した企画だった。
2020年12月のこと。
私は以前、2度ほど高松を訪れたことがあった。
最初は中学の修学旅行の時だから1976年のこと。
もう1回はMarshallの仕事で行ったのだが、それも2004年か2005年のことだったので、もうずいぶん時間が経った。
どうせ行くなら…と、朝一番の飛行機で高松に向かい、空港でレンタカーを借りて四国の旅が始まった。10せっかくなので朝からうどん。
私も御多分に漏れず麺類が大好物でしてね。
そばもうどんも大好き。
うどんに関して言えば、「東京で一番おいしいうどん」と呼び声がかかる水天宮近くのうどん屋に通っている。
しからば本場讃岐はいかがなのもの?
「うどん県」だからしてどこへ入ってもヒドイ間違いはなかろうが、一応ガイドブックに目を通して評判のよかった街中のお店に入ってみた。
朝っぱらから結構お客さんが入っていたナァ。
ラーメンはゴメンだけど、朝食にそばやうどんってうれしいのよね。20おいしいね。
麺もダシもおいしい。
そして、格段に安い。
ところが…ココはカウンターの前に設置してある熱湯が入った大きな水槽にうどんを入れ、グバグバと自分で湯がいて食べるシステムだったんだけど…とにかくヌルい。
ダシもヌルめだったのが残念だった。
身体に悪いことは百も承知しているが、私は鍋焼きうどんとかみそ煮込みうどんの類を取り皿を使わず鍋からダイレクトで食べるタイプなので、麺類の場合、その温度がチョットでも低いのはどうにもガマンがならないのだ。30天気もよく、1回目目のうどんを食べた後はまず「栗林公園」へ。40な~んともココは美しいところですな~。
50「栗林公園」は国が特別名勝に指定している文化財庭園の中で、最大の広さを持つ…と言われているのだそうよ。
高松藩主松平家の別邸として、歴代の藩主が手を加えて300年近く前に完成したのだそうだ。
本当にどこをどう切り取っても惚れ惚れするほど美しい。70私は冒頭に書いたように、その修学旅行の時にココに来たことがあった。
その時はオモシロくも何ともなかった。
そりゃ13、14歳の子供にこんな庭園を味わえったって土台ムリな話だわ!
60コレがその初めて来た時の写真。
赤丸内が私。
黄色い線で囲ったオジサンね…教頭先生かなんかだったんだけど、この人に関して最近驚くべきことを知った。75下は私の音楽と社会の先生、故中村とうようさんの『地球のでこぼこ(話の特集刊)』というエッセイ集。
氏は御存じの通り、今の『ミュージック・マガジン』の創始者で、1970年の1月から毎月2ページほどのエッセイを同誌に連載していらした。
それを1冊にまとめ、「とうようズ・バラード」と「とうようズ・ブルース」と2巻にわたって刊行した。
話題は音楽のことから政治のことまで。
コレがどうしようもなくオモシロイ。
正当と思われるモノごとの見方や考え方をとてもわかりやすく、かつオモシロおかしく、しかし厳しい筆致で説明してくれる。
驚くのは50年前に書かれた政治に関する文章の内容がソックリそのまま現在の政治に当てはめることができることだ。
50年の間、政治家も民衆も全く進歩していなければ改善もされていないことがよくわかって笑える。
それどころか、社会情勢は今の方が断然悪い。
先日SNSで紹介した「Obscurantism(オブスキュランティズム)」というヤツだ。
 
そのとうようさんのエッセイ集の1973年の1月の回に「瞽女(ごぜ)」についての記述があった。
一応書いておくと、「瞽女」というのは新潟を中心に北陸地方を転々として三味線を弾いて唄って歩いた盲目の女芸人のこと。
時には芸以外のことを強いられることもあった。
近世までは全国に存在していたらしい。
で、当時とうようさんはフォーク・ソングの同好会のようなモノを主宰していて、そこに石川さんという人が毎回熱心に顔を出していた。
チョットその部分を引用すると…「(その石川さんが)うちの学校の文芸部の雑誌におもしろい記事が出ているから、と持ってきてくれた。
明治大学付属中野学園の文芸部の機関誌で、石塚義一郎というこの学校の先生が『越後高田瞽女物語』というのを寄稿しておられる。いま読んでもなかなか立派な内容で、この先生、かなりのゴゼ研究家と見える」と、とうようさん。
コレを読んでブッたまげたよね。
ナンとならば、上の写真の黄色い線で囲ったオジさんがこの「石塚義一郎」先生なのだ。
つまりこの石川さんという人は私の先輩ということになる。
石塚先生は歴史の先生でね、中学から同校に通った私は中高と2回この先生に教わったが、両方とも教科書を終わらせることができなかった。
とにかくとても話好きな人で、落語や文芸など、教科書と全く関係のない話題で毎回授業の1/3の時間を費やしていた。
当然子供たちはそんな話に興味などあるワケがなく、いつも先生はひとりでしゃべって、ひとりで笑っていた。
生徒の時は何とも思わなかったが、学費を払う方の立場になって考えてみると、コレは一種の詐欺ではないかね?
だって授業料を聴取しておきながらやることをやり切っていないんだゼ。
でもね、当時の先生の年齢に近づいた(あるいは上か?)今になってみると、あの時、落語の話とかをチャンと聞いておけばヨカッタような気もする。
しかし、生徒だった時分は興味のない話に毎回実にイライラさせられたものだった。
話をし出した時に「ハイ、じゃチョット手を降ろしてごらん」とおっしゃる時は話が長くなるサインで「またかよ~!」と大変ウンザリしたものだった。
ある時、突然「奢侈(しゃし)」という言葉を黒板に書かれたことがあった。
恐らく吉宗の「享保の改革」かなんかの授業だったのだろう。
昔の学校の先生はみんなチョークで字を書くのが上手だったが、石塚先生は特に達筆でね、私は「奢侈」という言葉をこの時覚えた…なんてこともあった。
ん~、それにしてもこの『越後高田瞽女物語』っての読んでみたい!
もう、先生はお亡くなりになっているだろうナァ。
修学旅行に引率した中学2年生のボウズが今年還暦になるんだから!0r4a0260 とにかく園内はどこもかしこも美しい。80植わっている木々がまたいちいち素晴らしいと来てる。90と言いたいところなんだけど…この時12月でめっぽう風が強く…

93もうこんな格好だったのよ!
ピュ~~とカメラを持つ手も凍り付く寒風が吹きすさんで居ても立ってもいられなかった!95vそれでもひと通りユックリ見て歩いた。100こんなハート型の植木もあった。105やっぱり美しいとしか言いようがなかった…けど寒くて鼻水が垂れたわ。110_2それとコイがスゴイのよ!
こんな寒いのに水に浸かって気の毒に…。120近寄るとウジャウジャ集まって来たわ「冷たい!助けてくれ~!」って。130さぁ、冷えた身体を温めようということで2回目のうどん。
釜揚げうどん専門店ということで期待大。
釜揚げうどん、好きなのよ!140ココもいい加減混んでたナァ。
出て来たのは見紛うことなき「釜揚げうどん」。
2005年に来た時、空港のうどん屋で釜揚げうどんをオーダーすると、「スンマへン!釜揚げは今でけまへんのや。えろう時間がかかってまいよる。
でも、湯だめならすぐできまっせ!」と言う。
飛行機の時間もあったのでその「湯だめうどん」を頼んでみた。
出て来たモノは下の写真に限りなく近い、私から見れば完全に「釜揚げうどん」だった。
この時初めて知った。
お湯に入ったうどんを付け汁に浸して食べるモノをすべて「釜揚げうどん」と呼ぶのかと思ったら、釜で茹で揚げたうどんをそのままお湯に浸して提供するのが「釜揚げうどん」なんだとか…。
一方、茹でて一旦お湯を切ったものを再び熱湯に入れて温め直して食べるうどんを「湯だめうどん」というって言うらしい。
全く知らなかったわ。
 
で、このお店の釜揚げうどん、ごく普通だった。150古い街並みを観に行こう…ということで高速道路に乗って東かがわ市という所まで足を伸ばしてみた。160ん~、「古い街並み」ということではそれほど大したことなかったな。
170でもコレは壮観だった。
こんな赤い壁の建物を初めて見た。
この「赤」は魔除けだそうだ。
牛が見たら突っ込んで来るぞ。
180
「かめびし屋」という江戸時代からの製法を連綿と受け継いでいるつくり醤油屋。
200中を見たかったんだけど、ちょうどお休みの日で残念ながら閉っていた。190馬の繋ぎとめておくための環。
イギリスの田舎に行くと同じようなモノを見かける。
220vこの東かがわ市というのは手袋の生産が盛んなところで、ナント全国シェアの90%だって!
鯖江のメガネと同じだね。210この日泊ったホテル。225高台にあって眺望はバッチリ!240ロビーにはこんなモノが飾ってあった。
1998年の第24期棋王戦の第1局、羽生善治棋王と佐藤康光名人がこのホテルで対局した。260コレは投了のようす。
115手で羽生棋王の勝ち。
将棋指しには大変興味があるが将棋自体には興味がない。
250コレは父の形見の私の座右の書。
3回読んだ。
「真剣師」というのはお金を賭けて将棋を指す仕事ね。O6_2昼間あの眺望だったので、さぞかし部屋からの夜景が美しかろうと思っていたら期待通り。
ところが!
隙間風が遠慮なく吹き込んで来て寒いのなんのって!
さすがにガマンができず、押し入れの中に余っていた布団をすべて引っ張り出して窓枠を目止めして寝たわ。Img_0069翌朝は早く起きて「法然寺(ほうねんじ)」という古刹を見に行った。
前の晩に高松松平家の菩提寺ということを知り、さぞかし立派な寺に違いないとニラんだのだ。270浄土宗の宗祖である法然が作ったとされる阿弥陀如来立像が本尊だという。280鎌倉時代、讃岐に流された法然が立ち寄って「生福寺」を建立。
水戸光圀のお兄さんで初代高松藩主となった松平頼重が江戸時代初期にその「生福寺」を現在の場所に移転させ名を「法然寺」と改めた。290なるほど立派なお寺だわ。
階段の上には「文殊楼」と呼ばれる楼閣がある。300v 名前の通り「文殊菩薩」と「普賢菩薩」を祀っているのかと思うとさにあらず。
梵天さまと…310その仲間の帝釈天さまが祀られている。
コレが帝釈天か…。
テッキリ笠智衆のイメージだったがゼンゼン違うじゃん?
どっちかというと萩生田か?
右手に握っているのは密教の法具で「金剛杵(こんごうしょ)」というのだそうだ。
煩悩を打ち砕き、邪魔外道を退く武器とされている。
320その奥にある「来迎堂(らいごうどう)」というお堂。350般若台という名前の墓所の入り口。
ここに高松松平家の墓があるのだそうだ。
「松平」ってスゴイでしょ。
会津やら福井やら、いたる所に「松平氏」。
ベトナムの「グエン」さんじゃあるまいし、ナンでこんなに「松平」?
と思っていたら、紀州、尾張、水戸以外の徳川関係者はみんな「松平」なのだそうで…。
他に報奨として松平姓が下賜されることもあったが、元の家名の方が格上の場合もあり、そういう時は大変に迷惑だった、なんてこともあったそうだ。
ところで、ベトナム人の苗字の70~80%が「グエンさん」なんだよ。
ウソだと思ったら、コンビニの従業員が付けている名札にグエンさんという名前を見つけたら「ベトナムの方ですか?」って訊いてみな?
私はもう何回もやっているんだけど、的中率は完全に100%だよ。
人の好さそうなグエンさんだったら「日本はどうですか?」と尋ねてみたりもしている。
「水道の水が飲めてとてもありがたいです」とにこやかに答えてくれた男性のグエンさんがとても印象に残っている。0r4a1633裏の墓所に回ると「無縫塔」と呼ばれる墓石の先端が丸まっているお坊さんのお墓がズラリ。
いかにこのお寺の歴史が長いかを示している。360ああ、いい景色だナァ。
四国の山はポッコリしていてオモシロいね。
330隣りには阿弥陀如来像、釈迦如来坐像、弥勒菩薩像を本尊とする「三仏堂」というこれまた立派なお堂。380それと並んだこのお堂が御本堂なのだそうだ。
ココに法然さん自作の阿弥陀如来像が鎮座ましましている。
400国指定の史跡だからね。
来てヨカッタ!
390v<つづく>