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2023年3月11日 (土)

東京大空襲の日 2023

 
78年前の3月9日午後10時半、南関東一体に空襲警戒警報が発令され、高度8,000メートルを飛行していた279機のB29は3,000メートル付近まで徐々に降下し、日付が変わった10日の午前0時7分、東京東部に飛来した。
そして1,650トンもの焼夷弾を落とし、2時間20分の間に東京の40%を焼失させ、10万人の一般人の命を奪い、100万人の罹災者を出した。
広島10万、長崎7万、沖縄15万と並ぶアメリカ人が実施した大量虐殺がこの「東京大空襲」。
それまでは軍事施設や工場を目標とした精密爆撃が中心だったが、コレは一般市民を殺害の対象とした相手を選ばない無差別爆撃だった。

東京に生まれ育った者として、また、当の被災地に住んでいる者としてこの東京大空襲のことは事あるごとに勉強しているつもり。
つい先日も『文藝春秋』の歴史的な記事を集めた単行本を読んでいて『東京大空襲・救護隊長の記録』という記事に出くわした。
筆者は陸軍軍医学校の救護班の一員で、本所の国民学校に救護班を設置し、多くのケガ人の治療に当たった方。
信じられないような悲惨なことがとにかくたくさん書いてあった。
そうしたことがすべて現実であったことに新たな驚きを禁じ得ない。10さて、ココは台東区の浅草公会堂。20入り口に俳優や芸人の手形が飾ってあることでよく知られるこの地も東京大空襲で丸焼けになった。30その公会堂の1階で、毎年3月10日の前後に『東京大空襲資料展』という展示会を開催している。40もう何年も前から開催していて、以前にもお邪魔したことがあった。
今日はその展示の内容を紹介してこの惨劇に触れたいと思う。
拙い内容だけど、若い人が読んでくれるとうれしいんだけどね…読まないだろうナァ。

45v入場は無料。
私も少しは勉強を重ねて来たつもりなので、今年は新たな気持ちで拝見する気持ちで臨んだ。50v結構なにぎわい。
最近はコロナの収束にともない、浅草も若い人でイッパイだ。
ヘンテコな着物を着て、異様なニオイの揚げ物を口にする姿が目立つ。
ところがココはと言えば、おジイちゃんとおバアちゃんばっかりだ。
昨年還暦を迎えた我々老婦が若く見えてくる。
若い人が見ないとこうした展示も意味が薄い。70会場の正面。60東京大空襲の9日後に松屋の屋上から撮った写真。
すぐ前のビルは現存する「神谷バー」。
隅田川にかかっている左下の橋は吾妻橋、その向こうのアーチがかかっているのは駒形橋、さらにその向こうは厩橋だ。
実はこの反対側の言問橋がスゴかったらしい。
浅草方面から逃げて行った人と向島から逃げて来た人が橋上でカチ合い、身動きが取れなくなったところへ炎が入り込み、言問橋の上だけで1,000人が焼け死んだという。
実は関東大震災の時に同じが起こっていて、その教訓が生かされなかった。
橋の上だけでなく、もちろん墨田川も炎から逃れようとする人たちの死体で埋め尽くされ、上の手記を書いた救護隊の軍医によると、飛び込む人があまりにも多く、対岸に押し出される人もいたそうだ。
川に飛び込んだ人は溺死、窒息死、圧死、凍死(まだ3月だったから)で生き残った人はほとんどいなかった。85台東区と墨田区内に設置されている慰霊碑の紹介。
上に書いたように長崎よりも犠牲者が多いにもかかわらず、大体的に東京大空襲の犠牲者を慰霊する設備がない。
両国の横網に慰霊堂があるにはあるが、そこも関東大震災の犠牲者と合同慰霊の形態を採っている。
ナンでなんだろう?
短時間に大量の死者を出したということについては世界でもトップクラスの惨劇だと思うのだが…。
コレはひとえに政府が隠したがっているとしか思えない。
理由は、まず属国として宗主国のアメリカに気を遣っていること。
そして、後で出て来る東京大空襲の指揮官に勲章を与えたこと。
さらに過去に中国の重慶などで日本軍が同じことをしてしまっていること。
それにせっかく愚民化を進めたのに国民に変な知恵をつけてしまう恐れがあること。
何よりも一番の理由はそうした設備を作ったとしても誰も儲からないからに違いない。
まぁ、この辺りのことすべてが絡んでいることは間違いないでしょう。
80場内には当時の品々を色々と展示している。90コレは松本敬三さんという方が出征する時の寄せ書き。
「武運長久」というのは「出征する兵士がいつまでも無事なこと」。
松本さんはどこへ行かされたのだろうか?
来る日も来る日も朝から晩まで先輩兵から制裁を受ける地獄の軍隊生活。
挙句の果てには「死」と同義語の「南方戦線」行き…こんなモノをもらったところでうれしくはなかったろう。
本当に気の毒だ。100知り合いだったのであろうか、ナント、伊藤雄之助の署名が入っている。
調べてみると、伊藤さんの家はご両親も役者の芸能一家で浅草の出身。
すると、この松本さんの同級生であった可能性が高い。
伊藤さんは1919年(大正8年)の生まれで1940年に陸軍に応召し1943年に除隊しているので、松本さんは25歳で出征したやに推測できるのではなかろうか。110伊藤雄之助は「ウマよりも長い顔」がトレードマークの名優。
黒澤明の『生きる』の三文作家のメフィスト役がカッコよかった。120また同じ黒澤映画では『天国と地獄』のナショナル・シューズの専務の役ね。
私、結構ファンでしてね…『あの手この手』、『ビルマの竪琴』、『かあちゃん』、『楢山節考』、『しとやかな獣』、『橋のない川』、『侍』、『花岡青洲の妻』等々、どれもヨカッタ。130コレは我が台東区の被災状況を表した地図…ほぼ全滅。
ウチのエリアはスッカリやられてるんだけど、当日の状況はもう尋ねる人が生存しておらず詳しいことはわからない。
昭和11年生まれの隣のおジイちゃんに訊いてみたが、当時小学2年生で縁故疎開していたので大空襲は経験しなかったそうだ。
とにかく帰ってきたらとても住めるような状態ではなかったので、津田沼に持っていた地所にバラックを立てて1年ほどしてから戻ったと聞いた。
一体、どんな状態たったんだろう?
ナゼか谷中等上野の山以西は焼かれなかった。
日暮里はやられているのに…だ。
コレは上野の池之端に三菱の岩崎邸があったからなのか?
140vウチのことでひとつわかっているのは、私の父は集団疎開の対象年齢に達していたので、仙台の今で言う太白区秋保町というところに居たために無事だったということ。
当時、父は12歳だったが、勤労動員をしたという話も生前に聞いたことがなかった。
しかし、私が子供の頃は「仙台にいた頃はツラかった」と幾度となく話していた。
その話を聞くたびに子供ながらに「集団疎開なんてイヤだな」と強く思ったものだった。
一番の苦労は食べ物のことのようだった。
父は生前、何が何でも絶対にカボチャを食べなかった。150v子供たちが疎開で書いた家の両親に宛たハガキ。
ウチの父もこんなハガキを書いたのであろうか?
イヤ、書かんな。兄弟が多くどうでもいいポジションの子だったから、送ったところで読まれないことがわかっていたハズだから。
やはりどの子も食べ物についてと集団生活の苦労を親に訴えている。
155国民服や代用品の展示。160猛烈に日用品が不足していたので、おたまやホウキなど、あり合わせの素材で自作した。
右上は世帯ごとに分けた貯金箱。
ココに集まった金で債券を買ったりした。
230コレは「戦時貯蓄債権」。
政府はこうした債権を乱発し、戦費を国民から吸い上げた。
戦争が終わると、国が債務を履行する道理などもちろんなく、これらの有価証券はただのゴミと化した。
240コレは「軍用手票(ぐんようしゅひょう)」。
いわゆる「軍票」。
占領地において軍が振り出す疑似紙幣。
勝手に紙幣を発行して、占領地で流通させちゃう。
もちろん振出した側が戦争に負ければそれまで。
何の価値もなくなった。
250内務省情報局というところが発行していた「週報」。180右は昭和17年1942年1月21日号。
「未だ我が本土に敵機を見ず 我らは我が皇軍将兵に 限りない感謝をささげると共に 空への固めを一段と強化しよう」なんて言っているけど、真珠湾からまだ2か月も経っていない時分なので敵機をまだ見ないのも当然だろう。
しかしこの時から3か月経った頃、B25が東京に飛んで来てしまったのだ。
いわゆる「ドゥーリトル機」というヤツ。
作家の吉村昭先生は日暮里の実家の物干しで趣味の凧あげをしていた。
そこへB25が飛来して、凧が当たってしまうのではないかと心配して慌てて糸を手繰ったという。
その時、ハッキリと操縦士の顔と着ている服を見たという。
それほどの低空飛行だった。
先日、私も加入している吉村先生のファンクラブの集いで「この話はウソではないか。操縦士は見えないハズだ」ということになった。
するとかなり年輩のおジイさんが「イヤ、見えるんだよ!」と強弁した。
周囲にいた人がみんなビックリしていると、そのおジイさんはこう言った。
「操縦士の顔も服も見えるんだよ!だってオレもそのドゥーリトル機に出くわして操縦士の顔を見たんだから!」
その後、そのおジイさんと私は三笑亭可楽の話で盛り上がった。
ホンモノをご覧になっていらっしゃったのだ。
おジイさん、志ん生、文楽、圓生をはじめとした名人を全員ご覧になっていて、B25の話はどこかへフッ飛んでしまった。
「生きた昭和史」にお会いした気がしたわ。
マァ、ココだけの話、ホンモノのレッド・ツェッペリンよりホンモノの志ん生や文楽を観てみたかったよ。
左は昭和18年7月発行の「時局防空必携」と題した各家庭に配られた1冊。
家に焼夷弾が落ちた時は「ムシロの類を水でぬらしてかけるか、水をかけるか、バケツやシャベルでかえんを消しなさい」と指導をしている。
ムリだよ。
焼夷弾のために開発した油脂の炎は水で消すことができないようになっていたんだから。190その週報には銃後の民衆の心得を説いたマニュアルがついていた。
「私たちは御国を守る戦士です。命を投げ出して持ち場を守ります」…と、焼夷弾が落ちて火に囲まれても逃げずに火を消すことを優先させられた。
その結果、夥しい数の一般人が焼死してしまった。
新藤兼人さんの映画じゃないけど、もう敵の半分は日本軍あるいは日本政府だったんだよ。
調べもしないで記憶で書くのは恐縮だが、東京大空襲の後にアメリカ軍は品川方面を中心とした無差別爆撃を実施した。
爆撃の規模は別にして、この時は犠牲者が東京大空襲とは比べ物にならないぐらい少なかった。
ナゼかというと、東京大空襲で避難より消火を優先して取り組み命を失った市民が多くいたことを東京西部の人は学習していて、まず逃げたから犠牲者が少なかったのだそうだ。
正解でしょう。
空襲で被害を被った一般市民は、兵士と異なり国からの補償を受けることは全くなかったんだから。

200v今でも自然災害の時などに「罹災証明書」は発行されるが、戦時中は空襲で家を焼かれると役所でそのことを証明する書類を発行してもらった。
それを見せると鉄道の乗車券を優先して発行してもらえたり、避難先でも配給を受けることができた。
また、戦争中は食べものや日用品を自由に買うことができなかったので、焼け出されてしまった場合に真っ先に必要になるのが罹災証明書だった。
役所は役所でこの書類を作成するに忙殺されて大変だったらしい。
そういうシーンが冒頭の『文藝春秋』にも出て来る。
210戦争末期の昭和20年に日本音楽文化協会が発行した「証明書」。
鈴木敬子さんのナニを証明しているのかというと、「この方は銃後の勤労の現場において、慰問・激励のために演奏をする人ですよ」ということ。
振出人が「山田耕作」であることに注目。
「からたちの花」、「赤とんぼ」、「砂山」等の叙情歌他を作った日本を代表する大作曲家。
「白雲なびく」ウチの大学の校歌も山田耕作の作品。
「日本音楽文化協会」は内務省情報局と文部省の所管のもと、1941年11月(開戦の前月)に開設された戦時中の国策団体。音楽関係者はこの教会に入らなければ紙の支給を受けられず、楽譜を入手することができなかった。
「戦争になんかなったら音楽すら出来ない」…ということはこういう所にも表れて来る。
山田耕作は日本音楽文化協会の副会長で、会長は徳川義親…と言ってもわからないね。
「幕末の四賢候」松平春嶽の息子さんだって!
215v
焼夷弾や灯火管制グッズの展示。170今の子は知らないけど、上野動物園の花子という象は「かわいそうなぞう」という絵本で我々の世代にはおなじみだが、かわいそうだったのは象だけでなく、ライオンもかわいそうだった。
上野動物園の「アリ」という名前のライオンはエチオピアの皇帝からの贈り物だったそうだ。
空襲のドサクサで猛獣が脱走すると二次災害を引き起こすので昭和18年の8月に都知事がライオン他の動物を殺処分する指令を出した。
象が利口だったために餓死させた話は「かわいそうなぞう」でよく知られている。
一方、ライオンはバカだからすぐに毒入りのエサを食べてしまったかもような印象が残るが、そうではなく、約1週間エサをロクに与えずに飢餓状態にしておいて毒入りの馬肉を与えて殺したそうだ。
下の写真はその「かわいそうなライオン」アリくんの剥製。235戦時下の民家の居間のようす。260
日本の高射砲の弾は10万メートル以上の目標物には届かなかった。
つまり10万メートルの高所を飛んでそこから爆弾を落としていれば爆撃機が被害を被ることはなかった。
そうしてはじめのウチは高いところから軍需設備や工場を狙って爆弾を落としていたのだが、思うように着弾しないことも多かったそうだ。
当時爆弾は目視で投下していて、目標物がよく見える日中に低く飛んで爆弾を落せば命中の精度は上がるが、高射砲に狙われてしまう。
また、アメリカ軍は日本の上空にジェット気流があることを知らず、ますます高空からの正確な爆弾投下が困難であることを知った。
それなら暗いうちに低空から爆弾を落としてしまえというのが東京大空襲のひとつの作戦だった。

アメリカ軍は関東大震災の火災被害を東京大空襲の立案に組み込んだそうだ。
つまり、関東大震災の時、どの方向に火が燃え広がったのかを調べた。
また、消防車が到着するまでに人力では消すことのできない火災を随所で引き起こせばそれが大火につながり一気に広範囲を焼き払えると考えた。
木と紙で出来ている日本家屋をコピーしてネバダの砂漠に作り、どうすれば効率的に燃やすことができるかという実験をしたのは有名な話。
さらに東京や横浜等の10の都市の「燃えやすさランク」を3段階に設定し、それぞれ必要な焼夷弾の量を割り出した。
東京の下町地区は最も燃やしやすい「焼夷区画1号」だった。
ところが、米軍の中にはその策定では甘いという反対意見が持ち上がった。
そこでどうしたかというと、関東大震災の後に16年間日本に住んでいたカナダの火災保険業者と横浜で震災を経験したイギリスの保険会社の駐在員にアドバイスを求めた。
2人は震災以降の日本の防災体制は格段に強化されたので、焼夷弾の量をもっと増やすようにアドバイスしたそうだ。
結果、約2,000トンの爆弾はほぼすべて焼夷弾となり、普通の爆弾はたった8発しか使わなかったという。
アメリカがそんなことを研究している時、日本の軍隊は相変わらず古参兵が新兵をリンチして喜んでいたんだよ。

270v東京大空襲で使用された爆弾は「E46」や「E28」と名付けられた集束焼夷弾というもので、内部が2階建ての構造になっており、それぞれに19個ずつ「M69」という子爆弾が格納されていた。
地上700mの地点で親の爆弾が散開し、38個のM69が民家をめがけて落下した。
M69の最後部にはガーゼの布が取り付けられていて、コレが凧の足のような役目をして弾道を安定させ、また落下速度を低下させることによって家の中に着弾するように工夫してあった。
子爆弾の中には「ナパーム剤」という水では消えないゼリー状の油脂が充填してあって、取り付けられた信管でナパームに着火するようになっていた。



280下が「E46」の中に格納されていた「M69」の実物。
コイツが家の中に落ちてきて油をまき散らしながら燃え狂うのだから日本家屋などひとたまりもない。
この爆弾の油脂の開発にはハーバード大学の化学研究社たちが喜々として取り組んだという。
戦時中は天気予報がなかったため、アメリカ軍は自分たちで気象観測をし、3月10日の夜に強風が吹くことを知って空襲を実施した。
予測は的中し、風速20メートルの強風が吹いた。
「戦争を早く終わらせるため」とか、「兵器のパーツを作っているのは下町の小さな工場だから」とか大義名分を掲げたけど、こんなの人体実験だからね。
原爆と同じ。
アメリカ軍は焼夷弾の効果を測定したかっただけでなく、下町地区の周囲をまず爆撃して炎の壁を作り、「その壁の中に残された人間を焼き尽くす」という絨毯爆撃作戦の効果も測定したがった。
290vコレが東京大空襲を指揮したカーティス・ルメイ。
最終の階級は空軍大将。
コイツ、東京だけでなく日本各地の爆撃を指揮し、半年の間に67都市もメチャクチャにしやがった。
東京大空襲は40%がコイツのせいで壊滅したが、一番ヒドかったのは富山だったそうだ。
何しろ町の99%を破壊しという。
私は2年ほど富山に住んだことがあるが、今にして思うとなるほど田舎のワリには古い建物がナニひとつなかったわ。
次いで徳島が85%、岡山は69%が破壊された。360_clそして、有名な話。
戦後、昭和39年の第一次佐藤栄作内閣は当時の浦という航空幕僚長から一番上の「勲一等旭日大綬章」をルメイに授けさせた。
ちなみに佐藤栄作は非核三原則を掲げて1974年に「ノーベル平和賞」を受賞した総理大臣。
ルメイが受勲した理由は「自衛隊の発展に貢献したから」というんだけど、ノーベル平和賞受賞者が2時間半で罪もない10万もの人を殺したヤツに勲章をやるってのはどうなのかね?
最近聞いた話では、錦糸町の精工舎、大蔵省専売局、そして池之端の岩崎弥太郎邸は空襲の被害を全く受けなかったという。
コレを日本政府と米軍との「裏のつながり」と見る向きもありようだが、調べてみると精工舎は被害を受けたという記録もあって、また、ピンポイントで爆撃することは難しかったハズなので憶測が適切であるかどうかわからない。As カーティス・ルメイが東京大空襲に気合を入れていたのはアメリカの空軍と陸軍の確執があったらしい。
つまり、空軍は3軍の中で最も評価が低く、デカイことをやって空軍の地位を上げようと企んでいたというのだ。
そしてルメイは戦後にこう言い放っている。
「当時日本人を殺すことについて大して悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらすことだった。
もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことに我々は勝者になった」
コイツは朝鮮戦争でも徹底的に空爆を仕掛け、ベトナムでもやりたい放題やり尽くしたという。
少し精神がおかしかったのかしらん?
何十万人もの人の命を奪って平気だなんてヤツの精神が普通なワケがない。
きっと今で言うサイコパスという輩なんだろう。
もちろん軍としてはこういうヤツこそ「利用価値あり」ということで徹底的にうまく利用したんでしょうね。
実際、ルーズベルトも日本人のことを「虫ケラ」呼ばわりだったらしいし。
9clmこんな本が一昨年アメリカで上梓され、ニューヨーク・タイムスの週刊ベストセラー・ランキングで初登場2位になったそうだ。
アメリカは第2次世界大戦に関する本は今でもベストセラーになりやすい傾向があるんだって。
確かにイギリスも『D-Day』と呼ばれる「ノルマンディ上陸作戦」を開始した6月6日が近くなると毎年本屋の店先に「D-Day」関連書籍の新刊書がズラリと並ぶもんね。
 
で、下の『The Bomber Mafia(ザ・ボマー・マフィア)』という本は、アメリカ軍が日本全土での無差別な空爆に踏み切った経緯を丁寧に描いた内容なのだそうだ。
アメリカ軍の中にも戦争による犠牲を最小限に抑えるために、空爆のターゲットを軍需工場などに限るべきだと考える一派があった。
そうした良識派の司令官やパイロットたちのことを「Bomber Mafia」と呼んだそうだ。
んんん~、読んでみたい!
ところが翻訳本が出ていないようなのだ。
原書で読むのは時間がかかるでナァ。
こういう本こそトットと翻訳して読ませろよ。
ちなみにこの本の著者は日本人自身に「東京大空襲」への認識があまりにも浅いことにショックを受けたそうだ。
365b海外からのお客さんをスカイツリーに案内するために隅田川を渡る時、必ず東京大空襲の話をするようにしている。
炎の熱から逃れようとする一般市民でこの川がイッパイになり、ほとんどが亡くなってしまった…という話だ。
大抵は「オーマイガ」程度の反応だが、あるイギリス人ドラマーにこのことを話すと大きなショックを受けていた。
話をさんざん聞いた後に私にこう質問した。
「ところで、誰がそんなことをしたの?」
ガクっとは来たが、まぁ、民主主義や戦争をキチンと学校で学ぶイギリス人でも東京大空襲とアメリカは結び付かなかったのだろう。
海外の人はそれで良くても日本人は知っておかなければマズイよね。
それでこんなことをさっきからズラズラと書き続けている。
そしてまだ続く。Sk 会場にはビデオを上映するコーナーがあって、同じ場所で東京大空襲を実際に経験された方が語り部としてその体験を話してくれる。
今回、初めてそのお話を聞かせて頂いた。
300この日にご登壇されたのは78年前に14歳だったという吉野山隆英さん。
つまり今年92歳!…下の写真は近影で、信じられないぐらいお元気!
吉野山さんは画家で、この役目を18年も続けていらっしゃるそうだ。
後ろは氏の作品。
そして、吉野山さんがお召しになっているTシャツのデザイン…310 アメリカの従軍カメラマン、ジョー・オダネルが長崎で撮った有名な写真をモチーフにしている。
背負った兄弟を荼毘に付す順番を待っている少年。
荼毘に付すと言っても火葬の設備などあるワケがないので、死体を山と積んで油をかけて燃やすだけだ。
気丈に見える少年だが、最近のデジタル技術を使った調査によると、少年の目には涙を流した後が残り、鼻血を止める詰め物をしているそうだ。
つまり被爆して鼻血が止まらなかったのではないか?というのだ。316v吉野山さんはこの写真を自らの手で絵にしてTシャツに転写し、人前に出る時には必ず身につけるようにされているそうだ。315東京大空襲で吉野山さんが見た東京の悲惨な光景が次々と語られていく。
私も東京に住む者として、機会があれば関係した書籍を読むように努めているが、やはり実際に経験された方の話となると説得力が違う。
また、吉野山さんは92歳とはとても思えない力強い語り口なのだが、以前は悲惨な体験を口外するのを嫌ったそうだ。
ところが、周囲の人から「絵を描いたらどうか」という強力な勧めがあって、70歳の時から東京大空襲に関する絵画を描き始めた。
下はその処女作。
お母さんが子供だけは助けようと覆いかぶさってボロボロになっているこの光景が忘れられないそうだ。
その向こうではB29が雨あられと焼夷弾をバラまいている。
昭和2年生まれの吉村昭先生の体験談を読むと、この時は谷中の墓地に避難していたが、あまりの低空飛行にB29の底部に地上の炎が映しだされ、鮮やかなオレンジ色に染まっていたそうだ。
水彩画だが、油彩のような押し出し感がスゴイ。
320吉野山さんは青戸のご出身で、自分が通っていた小学校が焼け残っているのを発見し地下を訪れた。
その地下室の光景を見て絶句したいう。
その時の様子を描いた作品。
あまりの火力で防空壕なんてのは役に立たなかったらしい。
ヘタに中に残っていると蒸し焼きになって死んでしまうのだ。317これは浣腸で知られるイチジク製薬の東駒形の本社の現在。335昭和45年3月11日はこんな光景だった。
絵の真ん中で肩掛けカバンを身に着けてしゃがんでいる少年が吉野山さん。
ビルの前の黒い山は焼け焦げた死体。
兵隊が鳶口を用いて死骸をトラックに載せているところ。
ビルから多くの人がそれを見下ろしている。
亡くなった人達はビルの中に避難しようとしたが、中に入れてもらえなかったのだ。
「ヒドイ」と思うかも知れないが、そうした光景はアチコチで見られたらしい。
冒頭で紹介した救護班の軍医の手記にも同様のことが記されていた。
小学校の体育館で長時間にわたって治療に専念していたその軍医が、気分転換に新鮮な空気を吸おうと外に出ると、体育館の外壁にすがる無数の焼死体が放置されていたそうだ。
中に入れてくれと泣いて叫んだが入り口が開くことはなかった。
コレは中がすでに避難者でイッパイで、扉を開けると炎が入り込み全滅してしまうことがわかっていたからだ。
また、この軍医はその学校に行くまでにいくつもの黒焦げの大きな死体の山を見かけたそうだ。
どうしてそんなに高く死体が積み重なっているのか不思議に思ったそうだが、すぐに理由がわかった。
人が逃げ込んでギュウギュウになった木造の家に火が点くと、家の部材だけが完全に焼け果てて、人間だけが生焼きで残ってしまい高い死体の山になるのだ。
また、燃えていない路上の死体は悉く全裸だったそうだ。
コレは炎が巻き起こす風が衣服がすべて吹き飛ばしてしまうからだ。
330スカイツリーを遠望する北十間川。
345ココはこの有様だった。
川に浮かんでいるのはすべて死体。
1日前まで元気に暮らしていた人たち。
吉村先生も同じ光景を中川でご覧になられていて、先生曰く、あまりに死体を見るのでしまいには完全に慣れっこになってしまったそうだ。

340展示会場の入り口に飾ってある巨大な絵も吉野山さんの作品。
逃げ惑う一般市民の上に降り注ぐM69焼夷弾。
ひと口に「犠牲者は10万人」というが、身元がわかっているのは2万人程度だった。
どうやってその他の犠牲者の数を勘定したのか…。
それは身に付けていた不燃物の数で割り出したらしい。
たとえば、ガマ口財布。
服や紙幣は燃えて灰になってしまうが、ガマ口の留め金は金属なのでそのまま焼け残る。
財布をいくつも身に付けている人は普通いないので、「ガマ口の留め金1個」で「人ひとり」と数えたそうだ。
腕時計も同様。380そして、焼死体は身元が追跡できるモノはまず家族に引き渡し、身元がわからない死体は台東区の場合、浅草や上野に大きな穴を掘ってそこに埋めて一旦仮葬し、後に掘り起こして横網の慰霊堂に運んで合同で弔った。
そうした処理は兵隊が担当した。

390
しかし、「♪カ~モンベイビー」のような「アメリカ病」患者の若者なんかをテレビで見ると吉野山さんはどういう気持ちがするんだろうナァ。
この絵の骸骨になった犠牲者はみんな指を組んでいる。
コレは普通に手を合わせて「平和」をお願いするのではなく、「2度と戦争が起きないように」と祈っているところなのだそうだ。

400v最後に吉野山さんは「今日はいつもより若い方にお話を聞いてもらった」と少しうれしそうにしていらっしゃった。
しきりに一番前に座っていた我々夫婦に目を合わせていたので、もしかしたら我々がその「若い人」だったのかも知れない。
後ろを振り向くと、確かにほぼ全員が我々よりはるかにお年を召したおジイさんとおバアさんだった。
そして、「こういう話は年寄りにしても仕方ないんです。それでは伝承ができないんです。
若い人たちにこそ、78年前にこういうことがあったということを伝えたい。
次回は興味を持っている人を連れてきて頂きたい」と自分たちの活動への理解を求めた。
さらに、最近の日本政府の動向を批判し、「このまま放っておいたら間違いなくまた戦争に巻き込まれるでしょう。
お願いだから選挙に行って欲しい。我々にできることはそれしかない」と付け加えた。
まったく同感である。
350入場は無料なので、寄付代わりにこんなリーフレットを買って来た。
年寄の散歩コースを広げるのにも有益と考えたのだ。410最近、この運動が進んでいるようでとても期待している。
東京都が1億円を投じて制作した東京空襲の経験者の皆さんの体験談を収録したビデオ。
コレが長い間お蔵入りになっているので、それを公開しようではないかという動きだ。
小池さんも積極的に進めているとか、いないとか。
公開されればよいが、行政がやることは何がしかの下心があるようでコワいような気もする。420当の日本人がチンタラとそんなことをしている間にオーストラリア人が東京大空襲の経験者の話で構成する『ペーパーシティ』という映画を作っちゃった。
恥ずかしいナァ。
さっきアメリカが爆撃したことにピンと来なかったイギリス人の話を書いたが、この展示会では下のような外国人向けの英語版のリーフレットを制作して海外での認知度を高める努力もしている。
430来年もまた見学に来ることにしよう。
その時も吉野山さんが元気にご登壇されているといいな。
Img_9455帰りに浅草寺へ寄った。
この浅草寺のご神木のイチョウは源頼朝が浅草寺を参拝した時に挿した枝が発芽したモノなのだそう。
イチョウは大変耐火性に富んでいる木なのだそうだ。440v二天門と並んで戦火を潜り抜けたご神木として浅草寺のひとつのシンボルとなっている。450また来年。
またナニか新しい知識を身に付けておきます。