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2023年9月

2023年9月 2日 (土)

草津よいとこ…その後マイッタ!<その1>~「ベルツ」ってナ二?

 
昨年、セガレたちから「還暦のお祝いに…」と、JTBの旅行券(宿泊券)をプレゼントしてもらった。
うれしいものです。
名前は忘れてしまったが、それがコロナの最中に苦肉の策でヒネリ出された企画だったのかどうかは知らないが、商品のあまりの不親切さに驚いてしまった。
というのは、まずチケットが発行されてから6カ月以内にユーザー登録をしなければならない。
まずこんなことからして面倒。
さらにそれから6カ月以内に旅行先を決定しなければならない…という大きなお世話的なルール。
ナニを慌てているのであろうか、期限の縛りが厳重なのだ。
せっかくのセガレたちからのプレゼントだからして、百歩譲ってココまでは許すとしよう。
他方、この商品の大きな欠陥はユーザーが登録を済ませる時までその旅行券が使える宿泊先がつまびらかにならないという点だ。
ユーザー登録をして驚いた。
天下のJTBの商品ゆえ、全国津々浦々、自由に行き先が選択できるかと思いきや、ウェブサイトの見方を間違えていると思うぐらい受け入れてくれる宿泊先が極端に少ないのだ。
その頃、「会津藩」に興味があったので、即決で「会津に行ってみよう!」ということになったのだが、その宿泊券が使える宿が会津エリアには1軒もない。
仕方なく会津は断念…ケッ!会津藩や斗南藩や保科正之に関する本を5冊も読んだのによ!
しからばどうしたか…年寄り夫婦の1泊旅行ゆえ、何しろ温泉がよかろうとかつて住んでいたこともある行き慣れた長野を選ぼうとした。
ところが上諏訪の「紅や」1軒しかありゃしない!
お諏訪さんめぐりと岡谷の女工哀史(山本茂実の『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』は映画とはゼンゼン違ってとてもオモシロい本です)を勉強するのもよかろうと一瞬は思ったが、「紅や」は「源泉かけ流し」ではないのですぐに失格。
1泊なのであまり遠くにはいけないし…ということで次に群馬をチェック。
すると…伊香保と草津しかありゃしない!
「伊香保温泉コマーシャル!」なんてラジオのジングルは昔やたらと耳にしたが、行ったことがないので伊香保を選ぼうかと思ったが、提携している宿がこれまた「源泉じゃない、かけ流さない」だったので失格。
結局、家内の「草津温泉に行ったことがない」のひと言で、源泉かけ流しの宿に泊まることができる草津を訪れることにした。
コレね~、ホントにJTBにクレームをネジ込んでやろうかと思ったんだけど、旅行直後にスゴイことが待っていて、どうでもよくなっちゃったよ!…それがタイトルの「その後マイった!」というヤツ。

05s_2
早く目的地へ着いてもすることといえば風呂に入ることぐらいしかないので、ノンビリと通りすがりの「道の駅」巡りをすることにした。
ココは道中最後の道の駅「草津運動茶屋公園」。
もう温泉街までは目と鼻の先だ。10何やら立派でおシャレな風情。20せっかくなので売店以外も見てみることにした。
下の建屋の中にあったのが…30_2「ベルツ記念館」…「ベルツ」ってナンだろな。
知らないな。40v少々チープな雰囲気だが、何事も勉強、勉強。
無料ということもあって2階に上がって見学してみることにした。50_2展示室のようす。
「ベルツ」というのはドイツの医学博士のこと。
そのベルツ先生が泉質は言うに及ばず、ロケーションといい、気候といい、「世界の湯治場の最高峰」として草津を世界に紹介したというワケだ。
だから展示室内には先生と草津の関係を説明した写真や資料が展示してある。60コレがエルヴィン・フォン・ベルツ博士。
く~、キビしそ~!70私は知らなかったんだけど、「ベルツ水」という保湿ローションがあるんですってね。
この「ベルツ」はベルツ先生の「ベルツ」。75_2もうひとつ。
生まれたばかりの赤ちゃんのお尻って青いことが多いでしょう。
いわゆる「蒙古斑(もうこはん)」というヤツ。
この「蒙古斑」の名付け親もベルツ先生。
ナゼ「蒙古」なのか?
答えは簡単、時間が経つと消えて無くなるあの青いアザは黄色人種特有のもので、黄色人種のことを「モンゴロイド」と呼ぶことからベルツ先生は「Mongolian Blue Spot(モンゴリアン・ブルー・スポット)」と名付けた。
それを直訳したのが「蒙古斑」。
だから「モンゴル人の尻が青い」というワケではないし、お尻の青い赤ちゃんが特段モンゴルっぽいとうワケでもない。
 

76_3さて、ベルツ先生がどういう人かはだいたいわかった…イヤイヤ、まだわかってない。
ということで、少し調べてみた。
ココからものすごく脱線していきますのでよろしく。
ところはガラっと替わってココは本郷の東京大学医学部の管理研究棟。
80_2入り口の上の方に取り付けられているレリーフは「日名子実三(ひなごじつぞう)」という彫刻家による「長崎への医学の伝来」という作品。
左側は日本勢。
そして右側が西洋勢。
長崎の医学といえば、シーボルトやポンぺ等のオランダ人が思い浮かび(シーボルトはドイツ人)、日本勢は伊東玄朴、高野長英、松本良順らの名がよく知られているが、初めて長崎に医学を伝えたのは1557年にキリスト教を広めに来たアルメイダというポルトガル人なのだそうだ。
だからこのレリーフはそのポルトガル人をモチーフにしているのかも知れない。
85おっと!長崎に遊学したといえば、加山雄三演ずる『赤ひげ』の「保本登」を忘れてはいかんな。
ちなみに黒澤明の『赤ひげ』の一部は驚くほど忠実に原作の山本周五郎の『赤ひげ診療所譚』を映像化しているが、下の新出去定先生が二木てるみ扮する「お豊」に薬を飲ませるシーンは原作に全く出て来ない。
このパートはドストエフスキーの『虐げられた人びと』という小説の一部の映像化で、コレはコレで原作通りに実写化しているらしい…というのは私は原作を読んだことがないもんで。
こうした挿話の積み重ねが映画を観た山本周五郎に「ナンだよ、映画の方がオレの本よりいいじゃないか」と言わせしめたとか。
二木てるみに当てているキャッチ・ライトがスゴイね。
役者さんはコレで目をヤラれちゃうんだよ。
1_ahg さて、東大に戻って…この日名子実三という彫刻家は「朝倉文夫」のお弟子さんだったそうだ。
朝倉文夫というのは「東洋のロダン」と呼ばれた日本を代表する彫刻家。
谷中には生前暮らした家が残っており現在は「朝倉彫塑館」として一般公開されている。
アトリエのスケールの大きさは言うに及ばす、朝倉の趣味を凝らした住まいも見どころ満点。
何しろ、チャップリンが遊びに来たというのだからスゴイじゃないか。
事前に勉強して行くと大変オモシロイよ。
Img_5346朝倉文夫は福沢諭吉、島津斉彬からダグラス・マッカーサーまで400点以上の有名人の彫像を製作したが、最も有名なのはコレじゃないかしらん?
早稲田の大隈重信像ね。Os浅草寺に行くとこんなのも置いてあるよ。
猿山のサルがエサを待っているとことかと思ったらどうも違うらしい。
タイトルは「雲」。
ナンでやねん!2kmま、そんな見どころの多い朝倉彫塑館の中でもとりわけ目を惹くのはアトリエに飾ってある高さ4m近い巨大な「小村寿太郎」像。1_af_2小村寿太郎は何度かMarshall Blogにも登場しているが、明治時代の外務大臣で、日露戦争の後、ロシアのウィッテと血みどろの戦後交渉に臨んだ人。
日露戦争はアジアのマイナーな小国が世界に冠たるロシア帝国をやっつけた「世界の奇跡」だった。
アリが象を倒したようなものだから。
戦後、当然マスコミが「コレはいけっまっせ~!」とアオるもんだから国民はガッツリ賠償金がゲットできるものの思い込んでウハウハになった。
何せ日露戦争の戦費たるや、時の金額で20億円…国家予算の約3年分だから!
国民は「いったらんかい!」とルーズベルトの仲介でセットされたポーツマスの講和条約に臨む小村大臣に大いに期待したワケだ。
ところが…。
バルチック艦隊の到着の遅れでマグレで勝ってしまった日本に対し、毅然として立ち向かうウィッテ。
交渉は難航し、「え、ナ~ニ?もしかして『ロシアが日本に賠償金を払え』って言ってんの?チョット、笑わさないでよ~。ボクたちはいつでもリターン・マッチをやっても構わないんだよ~」とヤラれてしまう。
「ナニを!」ってんで、もしリターンマッチなんかやったらこの世から「日本」という国なんか消えて無くなっちゃうことを百も二百も承知だった日本勢は泣く泣く賠償金の請求を諦めざるを得なかった。
つまり、日本はロシアから一銭も賠償金をふんだくることができなかった。
怒ったのは国民だ。
みんなお国のためにガマンしてきたワケだから。
その怒りが全権大使の小村大臣に向けられ、「日比谷焼き打ち事件」なんてテロが起こった。
気の毒な小村さん。
しかし、賠償金は取れなかったにせよ、というか結果的に日本を守った小村大臣の交渉ぶりは立派なものだったそうだ。
この講和条約締結の交渉をジリジリと描いた吉村先生の『ポーツマスの旗』こそ今の政治家必読の書ではなかろうか。
  
小村寿太郎とポーツマス条約のことはコチラにも書いておいたので興味のある方はどうぞ。
  ↓   ↓   ↓
【Marshall Blog】私の明治村<前編>

1_phえ?朝倉文夫には興味ない?
しからばお弟子さんの実三はどうか?
サッカーの日本代表の選手がユニフォームにつけている日本サッカー協会のロゴマークの「八咫烏(ヤタガラス)」は日名子実三のデザインなんだよ。

Jfa今回、この記事を書くに当たって東大の医学部にお邪魔して来たワケだけど…しかしナンだネェ。
同じ大学に行くならやっぱり「東大」に行くべきだったナァ。
チョコチョコっと施設を見て回ってつくづくそう思ったわ。
ま、希望したところで到底入れるワケがないけど…。 
180_2上のレリーフの建物の向かい辺りにこんな場所を見つけた。90BIBLIOTHECA(図書館)+ MEDICA(医学)、VNIVERSITATIS(大学)+  TOKYOENSIS(東京産)というプラークが入り口に付けられていた。
ラテン語。
早い話しが「東京大学医学部図書館」ということか?
でも少なくともこの門の敷地の中に図書館はない。
コレは東大医学部の紋章らしい。
100門の中に入ると目に入るのが2体の胸像。130_2立派そうなお2人だが、いかにも手入れが悪い。140向かって右側は「ユリウス・スクリバ」という明治のお雇い外国人のひとり。
1901年に名誉教授の称号を贈られ、20年にわたって東大医学部で指導に当たった。
外科手術のテクに秀でていて、日本で最初の腎臓の摘出手術や縫合に絹糸を使用したことが知られているそうだ。
そんなことから「日本外科学の恩人」とされている。
こういうお雇い外国人って日本政府から目の玉が飛び出すようなケタ違いの給料をもらっていたんだゼ。170_2そして、その隣がベルツ博士。
キタキタキタキタ~!
東大にもベルツ博士。
160_2ベルツは温泉につかって赤ちゃんの青いケツに注目しただけではない。
明治政府の招聘により1876年に来日し、1902年に退官するまで26年にわたって東大医学部で生理学、精神科、産婦人科、内科の教鞭を執った。
かたわら明治天皇と皇太子の侍医を務め、1905年に勲一等旭日大綬章(現在の旭日大綬章。一番スゲえヤツ)をゲットし、日本人の奥さんを連れてドイツに帰国するまでの日本滞在期間は29年にも及んだ。
そうしてベルツ先生は「日本医学の父」と呼ばれるようになったスゴイ人なのだ。
それがベルツ!150v_2もうチョット敷地内を散策してみる。
結構草ボーボーで、見るからにナンの手入れもしていないのがひと目でわかる。
そんな草むらの中から顔を出しているのがコレ。
石碑には「加州(加賀の国)大聖寺藩 江戸上屋敷址」とある。
赤門のいわれがよく知られている通り、現東大の本郷キャンパスにはかつて加賀藩の上屋敷があった。0r4a0049大聖寺は久谷焼きで有名な福井県境の石川県の温泉地。
加賀藩の三代目の藩主が三男坊に7万石をシェアして生まれた藩。
さすが加賀百万石の藩だけあってシレっと7万石とは気前が良い。
後に10万石まで勢力を拡大した。
昔、私はよく加賀温泉の方へ行ったものでしてね、「大聖寺」という地名を耳にすると必ず「夏目雅子」を思い出す。
JR北陸本線の「大聖寺駅」の前に車を停めた時にラジオから夏目雅子の訃報が流れて来たから。
昭和60年(1985年)のこと。
私はまったく彼女のファンではなかったが、「あんなに若い人がこうも簡単に死んでしまうのか…」と驚いたのをよく覚えている。110v_2コチラは「胸像をぬらす日本の花の雨」とある水原秋桜子の句碑。
「水原秋桜子」なんて名前しか知らないナァ。
秋桜子も東大医学部出身で、日本の医学の進歩に大きく寄与したベルツの功績を称えてこの句を詠んだそうだ。
見なかったけど、秋桜子がベルツに捧げた句碑は草津にもあるそうだ。120v 少し移動して病院の方へ。
ウチは家内と次男がココでお世話になったことがありましてね。
だから何回も来てる。
でもこの外来病棟の入り口のすぐ近くに…Tb2こんなものがあったとは知らなんだ。
というのはコレ…石。
不忍池を見下ろす高台にあったベルツ先生の家に据えられていた庭石なんだって。
ベルツ先生は学校から近いということもあってか、お弟子さんをこの庭石があった自宅に招いては勉強会を開いていたそうだ。190_2そのまたすぐ近くに立っているのは、「相良知安(さがらともやす)」という佐賀藩出身の蘭方医の功績を称えた板碑。200最近はスッカリ英語になってしまったようだが、かつて病院のカルテにはドイツ語が用いられていた。
コレはもちろん患者に情報を漏らさないようにするための暗号のような働きもしているワケだが、どうしてドイツ語になったのか?
英語だっていいじゃん?
上に出て来た日名子実三のレリーフにあるように、そもそも医学はポルトガルから伝来し、その後、幕府から通商を許されたオランダの医師らによって伝わった医学が中心だったハズ。
オランダごだっていいじゃん?
その流れを変えてしまったのが下の写真の相良知安なのよ。
知安は長崎で「ボードイン」というオランダ人医師から医学を学んだ。
下の写真を見ると、なんかライブハウスの店員にいそうな感じの人だけど、大変にパワフルな人だったらしい。210v_2幕末から明治にかけて薩摩藩らは時代遅れになってきたオランダ医学に替わる最先端の医学として、イギリス公使館の医師だったウィリスを中心としたイギリス医学を推していた。
ところが、この文部省の医局長などを歴任していた知安が師匠のボードインに「先生、今、医学が世界で最も進んでいる国はどこでしょうか?」と質問したところ師匠はこう答えた。
「そうさナァ…まぁ、ドイツじゃね?」
このボードインのひと言で、知安はそのイギリス医学の流れをドイツ医学にヒックリ返そうと決心し、猛烈に新政府に働きかける。
「ドイツ医学推し」といえば後で出て来る森鴎外も有名だわね。
ところが、その知安のやり方が執拗かつ強引過ぎて薩摩藩なんかは激怒したらしい。
で、知安の努力の甲斐あって、新政府はドイツ医学を日本に導入することになった。
そこで明治4年になって来日したのが「レオポルド・ミュレル」というドイツの医学博士。
220外来病棟のすぐ近くに小高くなっているところがあって、下から覗き上げるとまたしても何やら胸像が見える。
「今度は誰だろう?」と思って階段を上がって行くと…0r4a0078おお!「レオポルド・ミュレル博士」!
かなりのコワモテだな。
ミュレル博士は東大医学部の前身の「大学東校(とうこう)」というところで3年間教鞭を執ったそうだ。
そして、この人は「医学と薬学は別にするべし」ということを提唱し、学校に「薬学部」というセクションを設置させた。0r4a0077ハイ、移動しますよ。
今度は東大の下にある不忍池を渡った「上野恩賜公園」。
この敷地は昔、徳川家の菩提寺の「東叡山寛永寺」だった。
慶応4年(1868年)に「上野戦争」が勃発し、残念ながら長州らのニセの官軍がいとも簡単に勝利。
例えインチキでも「勝てば官軍」。
その4年後、そんな徳川の菩提寺なんて目障りだから新政府は寛永寺の敷地に医学校と病院を作ろうと言い出した。
ところが下の胸像のオッサンが「こんなにキレイなところに学校なんか作らない方がいいんでないの~?悪いことは言わないからココは公園にしなさいよ」と提言した。
そして、寛永寺の跡地が今の上野恩賜公園となった。230その公園の建設を提言したオッさんこそが相良知安の師匠、オランダの一等軍医、「アントニウス・ボードイン」だったのです。
ドイツ医学の導入は気に喰わないけど、公園にしたのはデカした!
240_2相良知安は生来の気性の激しさと、妾の家に入り浸る家族を顧みない自堕落な生活のせいで晩年は悲惨な日々を送った。
今の浜松町付近の貧民窟で筮竹を片手に易をやって糊口を凌いでいたという。
そんな暮らしの中、64歳の時に国から「瑞宝章」が授与され、近所の人たちは「ええ!あの占いの小汚いジジイさんってエライ人だったの!?」とかなりブッたまげたらしい。
相良知安については吉村先生の『日本医家伝』という本で詳しく触れているので興味のある人はどうぞ。
この本もとても面白ぅございます。
S_nid「ドイツ医学 vs. イギリス医学」ということではこの作品もすこぶるオモシロイ。
明治の陸軍軍医である「森鴎外」と海軍の軍医である「高木兼寛」の脚気の治療をめぐっての対決。
カッケ~!
高木兼寛は慈恵医大の創設メンバーね。
德川第14大将軍の家茂は脚気で命を落としたが、脚気は日本特有の病気で軍隊では夥しい数の死者を出したがその原因がわからないでいた。
そしてナイチンゲールが指導して建設されたことで知られるロンドンの「セント・トーマス病院」に留学し、イギリス医学を信奉する兼寛がその原因を突き止めていくんだな~。
このこともココに書いたので興味のある方はどうぞ。
  ↓   ↓   ↓
【Marshall Blog】私の横須賀
Sk さて、その庭石やら板碑のすぐ近くにある医学部の出入り口が「鉄門」。250元々東大の医学部というのは神田お玉が池(現在の千代田区岩本町)にあった「川路聖謨(かわじとしあきら)」の住居跡に建てられたシーボルトのお弟子さんで、日本に種痘を広めた「伊東玄朴」らが出資して建てた「種痘所」がスタートだった。
その後、その種痘所が焼けてしまい、「下谷和泉橋通り(現在の昭和通りと蔵前橋通りの交差点付近)」にあった玄朴家の裏に移転した…ってんで行ってみた。
しょっちゅう通っているところ。
右のタテの道が昭和通り、手前のヨコの通りが蔵前橋通り。
0r4a0003伊東玄朴の居宅と家塾「象先堂」がココにあった…という感じか。
ロンドンの史跡と大きく異なり「ココ☞」とハッキリわからないだよ。
玄朴って家定の侍医だからね。かなりスゴイ。
伊東玄朴は上で紹介した『日本医家伝』にも出て来るよ。
0r4a0011その裏はこんなたたずまい。
こんなところにその種痘所があったのか…。
0r4a0014 種痘所の門が、厚い板を鉄板で囲い鋲で打ち付けた黒くいかめしいルックスだったので、人々はその門のことを「鉄門」と呼び、人々は「種痘所」を「鉄門」と呼ぶようになったそうだ。
やがてその種痘所は「医学校」、「大学東校」と変遷を経て「東京大学医学部」となり、今の本郷に移転した。
上に出て来たミュレル先生はその「大学東校」の先生だったワケ。
その医学部の門が東大全体の「正門」とされていたが、他の学部が合流してくるウチに別の場所に定められ、元あった正門は「鉄門」と呼ばれるようになったとサ。
オモシロいね~。タメになるね~。
その鉄門も大正時代に撤去されてしまった。
今の鉄門は医学部の創立150周年を記念して復刻したものなのだそうだ。0r4a0117ちなみに川路聖謨は勘定奉行や外国奉行を務めた幕末の開国派の役人ね。
ロシアのプチャーチンと通商の交渉を重ね、プチャーチンはスッカリ川路の真摯な人柄に惚れ込みファンになってしまったとか。
最初の奥さんがとてつもないブスだったらしい。
吉村先生が『落日の宴』という作品の主人公。
コレもすごくオモシロいよ。Ru聖謨の墓は池之端の大正寺にある。
東大医学部は目と鼻の先だ。3ta3さて、その鉄門を出て左に進むとすぐに不忍池方面に向かって降りていく坂になる。260この坂は「無縁坂」。
このパートは草津どころか「ベルツ」すら関係なくなっていますナ。270_2この無縁坂は森鴎外の『雁』の舞台となっているところ。
「東京の空にまだ雁が飛んでいた頃の話し」というヤツ。
鴎外は池之端に住んでいたからね。
私は恥ずかしながら小説は読んだことがないんだけど、映画は2通り観た。
ひとつは1953年の高峰秀子、芥川比呂志(芥川龍之介の長男)、東野英治郎のバージョン。280mもうひとつは1966年の若尾文子、山本学、小沢栄太郎のバージョン。
樋口一葉の『にごりえ』や夏目漱石の『こゝろ』なんかもそうだけど、明治の文豪ってのはなかなかにプログレッシブなストーリーを考えるよね。
「まだ人々の喜びがヘソ下三寸にしかなかった頃の話し」というヤツ。
…と、いかにも本を読んでいるようなことを言っているけど、そういうのは全部映画で吸収しました。
私がデコちゃんファンということもあるけど、『雁』は古いバージョンの方が断然ヨカッタ。
290mしかし、この坂の右側の家に「お玉」が囲われていたとはナァ。300それにしても、ゼンゼン草津じゃなくなっちゃったナァ。
だって次は海だもん。
群馬に海はないもんネェ。
ココは葉山。310葉山といえば「御用邸」。
前は何度も通過しているけど、一度もお邪魔させてもらったことがない。
340その葉山に「森戸大明神」という海べりに建立された立派な神社がある。320_2その境内には数々の石碑が立てられていて、見て歩くとコレが存外にオモシロイ。
特にコレ。Img_2803 コレはなんとベルツ博士の偉業を称えた板碑なのだ!
ココにもベルツ…どうしてだと思う?
ナント、葉山に御用邸を建てる提案をしたのはベルツ博士だったんだって!350ハイ、草津のベルツ記念館に戻ってきました。360そして、草津温泉到着~!370<つづく>