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2022年6月

2022年6月29日 (水)

I Remember The Town~私の銀座/日比谷/有楽町<その3>

 
引き続き日比谷の「東宝村」から。
ココにはかつて有楽座があった…と。

260その向かいに席数1,200の大劇場「日比谷スカラ座」があった。
270このビルの5階ぐらいだったかな?
ココもよく来た。
確か歌手になる前の研ナオコがココで切符のモギリ嬢をやっていたんじゃなかったかしら?261初めてスカラ座に入ったのは小学校6年生の時。
オバさんに連れられて観た『マイ・フェア・レディ』だった。
そのオバさんはとても私のことを可愛がってくれて、『ダーティ・ハリー2』を新宿のミラノ座へ観に連れて行ってくれた際、ロビーでやっていたMGMのモデルガンの即売会で「44マグナム6インチ」を買ってくれた。
想えばずいぶん気前の良いオバさんだった。
そういえば、そのオバさんは一時期、寅さんの「おばちゃん」の三崎千恵子に着ものの着付けを教わりに行っていたっけ。Mflとにかく『マイ・フェア・レディ』は一発で好きになっちゃった。
もちろんサントラ盤も買った。
1984年、大学の4年生の時には、栗原小巻がイライザを演じた舞台を家内と一緒に日生劇場へ観に行った。
ナゼなら家内の親友が「召使いB」ぐらいの役で出演していたのだ。
3人で「Poor Professor Higgins」を歌っていた。
そのヒギンズ教授が神山繁。
ピカリング教授が増田喜頓。
イライザのオヤジさん役が坂上二郎だった。
もうみんな死んじゃった。
さらに、数年前にはロンドンで新しいバージョンの舞台を観た。
何しろ劇場が『マイ・フェア・レディ』の舞台である「コヴェント・ガーデン」の隣の「ロイヤル・ドゥルーリー・レーン劇場」だったので喜びもひとしおだった。0r4a0038ヒギンズ教授の家がある「ウィンポール通り」にも行ってみた。
もちろん実際には家なんかないんだけどね。
アレはジョージ・バーナード・ショウのつくり話だから。Img_0320 あのイライザの衣装をデザインしてアカデミー賞の衣装デザイン賞を獲得した人はセシル・ビートンというフォトグラファーなのね。
ロイヤル・ファミリーの写真を撮っていた人。
ロンドンでこの人の写真展に行った時にもエラく感動したわ。5cb 次…。
中学1年生の時に観た『ウエストサイド物語』…感動したナァ。
当然コレもサントラ盤を買った。
今でも他のバージョンの演奏を聴くことはそう珍しくない。
何しろこのミュージカルに収録されている曲は、ポピュラー音楽において人類が作り得る最高のモノだと私は信じて疑わないからである。
当然、バーンスタイン好きです。でも、自作の交響曲はツライな。
最近スピルバーグがリメイクしたようだけど、全く興味なし。261f『サウンド・オブ・ミュージック』もスカラ座まで観に来たな。
映画自体にはそう感動しなかった。
普通は最後の「Climb Every Mountain」で泣くんでしょ?
一方、音楽にはメロメロになった。

262fそして、『トミー』。
コレも『大地震』同様「クインタフォニック・サウンドシステム」とかいう音響効果を導入して上映された。
劇場内に入るといつものスカラ座とは様子が異なり、四隅に大きなスピーカーが備え付けられていた。
映画が始まって音楽のシーンになると、それらのスピーカーが容赦ない爆音を炸裂させるのだ。
ま~、まだロックに夢中になる前の子供にはうるさいことこの上なかったワ。
オリバー・リードもジャック・ニコルソンも知っていたけど、まだThe Whoも、エリック・クラプトンもよく知らない頃だったからね。
ティナ・ターナーとエルトン・ジョンがカッコいいと思ったのと、今でもよく知らないポール・ニコラスという人が歌う「いとこのケヴィン(Cousin Kevin)」がとても気に入った。
コレもミュージック・テープを買ったナ。
スカラ座も好きな映画館のひとつだった。

263fその隣り。
ココもガラっと変わっちゃったナァ。
中身は同じ「東京宝塚劇場」なんだけど。
終戦後は米軍に接収されて「アーニー・パイル劇場」として営業していたことはつとに有名だ。280ココには残念な思い出がある。
1978年にWeather Reportが来てココで演奏したのだが、それを見逃してしまったのだ。
『Heavy Weather』の頃の一番いい時のメンバーだったからね。
バンドや「ジャコ・パストリアス」の名前は知っていたんだけど、ロックに夢中だった私にはギタリストがいないバンドなどにとても興味を持つことができなかったんですわ。
今でも後悔している。
その「後悔」は絶頂期のWeather Reportを見逃しただけではなくて、宝塚歌劇など見る機会がない私には、その劇場に入る唯一のチャンスだったのだ!
それを逃してしまった。290vその向かいには「千代田劇場」という邦画専門の封切り館があった。
ココだけはキレイさっぱり一度も入ったことがなかった。
邦画専門だったからね。300しかし…ホントに全く変わってしまったナァ。310私の知っている日比谷の映画館街はこうだった。
上の写真と全く同じ場所だとはとても思えない。
そうだよね、突き当りの三信ビルだけでなく、その向こうのツイン・タワービルもなくなっちゃもんね。
5hby反対側は帝国ホテルのウラ。Ih2 帝国ホテルといえばコレだって言うんでしょ?
フランク・ロイド・ライトが設計したことは有名。
関東大震災の時、ライトはホテルが倒壊しなかったことを遠く離れた地で電話で聞いて大層よろこんだとか。
下が犬山の「明治村」に保存されているその旧帝国ホテル。
さすがにコレは日比谷にあった時に見たことがない…と思って調べてみると、1968年に解体しているではないか。
私が6歳の時だもん、見た記憶なんてあるワケがない。315千代田劇場の横の地下には「みゆき座」があった。
「みゆき通り」に面しているから「みゆき座」ね。
330「エマニエル夫人」が公開された時は凄まじい賑わいを見せていた…のを確かテレビで知った。335f多分、初めてみゆき座に入ったのはビリー・ワイルダーの『フロント・ページ』だろう。
武蔵小山の駅前のたい焼き屋のセガレと観に行った。
オモシロかった。Fp2『ピンク・パンサー2』もココで観た。
コレも期待していたよりオモシロくなかったように記憶している。
ピーター・セラーズはスキだけどね。331f『カッコーの巣の上で(One Flew Over the Cuckoo's Nest)』は1934年のキャプラの『或る夜出来事(It Happened One Night)』以来、41年ぶりにアカデミー賞の主要5部門(作品・監督・脚本・主演男優・主演女優)を獲得したことで大きな話題になっていた。
なんでもかんでも文句をつけてナンですけど、コレも特に感動した記憶がないんだよナァ。
『或る夜の出来事』はメチャクチャ良いです。
私、キャプラ好きだから。Ksuみゆき座のすぐ近く、高速道路の下の西銀座デパートの切れ目には昔、「カレーの王様」があった。
ここのカレーがすごく好きで、日比谷でのお昼はいつもココだった。
コレがあったので、日劇の横にあった「東宝カレー」にはあまり行かなかった…というワケ。
「カレーの王様」って昔の方がおいしかったように思うんだけど、今でも好きで見つけると食べたくなる。
でもお店ってまだあるのかな?
外苑前のお店もなくなっちゃったし…。
調べてみると、かつてはカレー粉のS&Bが経営していたけど、2012年に事業譲渡したのだそうな。350さて、日比谷エリアはコレぐらいにして、晴海通りを進み、歌舞伎町の前を通って東銀座方面へ移動しよう。Thumbnail_img_7779歌舞伎座は外国人を連れて一度だけ入ったことがあったな。
「切り売り」みたいなシステムがあって、部分的に一番上の階で見せてくれる…みたいな。
歌舞伎は観たいと思わないんだよナァ。
文化としては大変興味があるんだけど…。
Thumbnail_img_7780こんなのを演っていた。
『ふるあめりかに袖はぬらさじ』という有吉佐和子作の戯曲。
元は有吉自身の「喜遊の死」という、幕末の港崎遊郭(横浜遊郭)でアメリカ人に見初められた喜遊という女郎が、身請けされるよりも死を選んでしまうという悲しいお話。
玉三郎が歌舞伎で演じて人気演目となったようだ。

359v_2 その喜遊がいた「岩亀楼」という遊郭にあった灯篭が現在の横浜公園に残されている。120v 歌舞伎座を過ぎて築地方面へ向かって、中央通りと昭和通りの間にある橋が「三原橋」。
「橋」といっても川はない。
左手にはパチンコ屋があったような気がするな。
向かいには「ビックリ寿司」というのがあって、Marshallの社長他、外国人を何人か連れてきたことがあった。
Thumbnail_img_7835かつてこの橋の下を流れていた川は「三十間堀川」といった。
慶長年間(1612年)に江戸市中に船が入って来れるように作った掘割が三十間堀川で、その川にかかる橋のひとつが三原橋だった。
写真の下が三原橋。Mhb 終戦後三十間堀川は、GHQの指令により戦災の瓦礫の投棄場となり、1952年(昭和27年)に消滅した。
330kb1951年の成瀬己喜男の『銀座化粧』という作品でその当時の三原橋の様子をチラリと見ることができる。Gkココにもかつては「銀座名画座」と「銀座地球座」という映画館があったが私は入ったことはなかった。
この2つは後に「シネパトス」という名称になったらしい。
ココ、ちょっとした名店街みたいになっていたんだよね。
子供の私にはこんなところ用がなかったので1回ここまで降りて来たことがあったかな?…ぐらいの記憶しか残っていない。
そういえば銀座4丁目の裏通りにある「並木座」も入ったことはなかったな。

Mhbc 昭和通りを越えて、首都高を渡ると右手に現れるのが「松竹」の本社ビル。360vこのビルには「東劇」が入っている。
私がちょうど映画を観に銀座へ来るようになった頃にオープンしたんじゃなかったかな?370『新動く標的(The Drowing Pool)』を観に来たのが最初だったかな?365fジョン・シュレシンジャーの『イナゴの日(The Day of the Locust)』もココで観た。
好きな映画だった。
『エアポート'75』の時にカレン・ブラックのことをそう悪く書かなかったのはコレのせい。
ドナルド・サザーランドっていい役者だった。
『針の目』とかいう作品もメチャクチャよかった。
東劇も何回か来たけど他にナニを観たのかサッパリ記憶がない。
366fその向かい。
今はバカでかいオフィス・ビルになっちゃったけど…380ココには「松竹セントラル」という映画館があった。
アレ?ココっていくつか映画館が入っていたのか?
知らなかったのか、忘れていたのか…それさえわからない。
とにかく、入ったことがあったのは一番大きいヤツだけだったな。

382_2『タワーリングインフェルノ』はココで観た。
自由席がギッチギチで無理をして指定席で観たのを覚えている。
中学1年生だったのにネ。ナマイキね。374f何といってもコレか…中学2年生の時だった。
いよいよ「動くツェッペリンを見る」ことができる!と大喜びで観に行ったのはいいけど、ライブ以外の幻想のシーンがあまりにも退屈で呆れてしまった。
そして爆睡した。
すると「Black Dog」が流れて来ていっぺんに目が覚めたような記憶があるな。

375f今度は東銀座方面。
中央通りを神田方面に向かった銀座の一番ハジッコ。
ココには「テアトル東京」と「テアトル銀座」があった。
あ~、ココもこんなんなっちゃって!
悲しいナァ~。390脇の道を少し行ったところの地下にあったのが「テアトル銀座」。
東宝系のどちらかというとB級作品を上映することが多かった中劇場。
何回か入ったけどやっぱりナニを観たのか覚えていないナァ。
400そんな中で忘れられないのが中学校1年生の時に観た『ケープタウン(The Wilby Conspiracy)』というイギリス映画。
「誰が出ているか」以外にナンの予備知識もなく、はたまた観ようと思って行ったワケでもなく、本当にフラっと入って観た1本。
コレがヤケクソにオモシロかった!
まぁ、13歳の子供の感想だから今観たらどうかわからないけど、ひどく得した気分になったことは確か。
シドニー・ポワチエも死んじゃったもんネェ。
405fマイケル・ケインがイギリスでは超大スターだということはイギリスに行くようになってから知った。
「ロンドン博物館」という所に行くとマイケル・ケインの大きなタペストリーが飾ってあって、そこには「地元でエレファント・アンド・キャッスルなんて言うヤツはいない。キャッスルで十分だ」みたいなことが書いてあったのがカッコよくて「さすがスター!」だと思ったよ。
でも、マイケル・ケインの出身はエレファント&キャッスルではなくて、少し離れた「Rotherhithe(ロザーハイズ)」という所であることを知って裏切られた気分になった。Img_8352 一方、表の方。
テアトル東京はこうだった。
1981年10月末の閉館だというから、なくなってもう41年も経つらしい。
もっと大きい感じがしたけど今見るとさほどでもないことに驚く。
でも私の頭の中はいまだにこの景色だよ。
ココはシネラマが上映できる映画館でね、客席と舞台がなだらかなスロープでつながっているのが特徴だった。12j小学校6年生の時に『パピヨン』を観に行ったのが最初。
コレは親戚のオバさんと母と一緒に観たな。
脱獄を諦めて島に残ることを決意した「ドガ」という役を演じたダスティン・ホフマンを指して「ドガがかわいそうだ」と母が何回も言っていたのをよく覚えている。
訊けば多分今でも言うと思う。
私はパピヨンが虫を食べるところがとても印象に残った。
当時、「スティーブ・マックイーンは撮影の時に本当に虫を食べ」た…という話が広まっていたのでとても衝撃を受けた。
それが今では「近い将来、昆虫は貴重なタンパク源」なんてやってるじゃんか?
勘弁してくれよ。
ちなみにアメ横にある「食べる昆虫の缶詰」はタランチュラが最も高価だ。

Pp

ホラ…「ゼブラ・タランチュラ」が2,600円!
サソリもタガメも1,500円!
高いのか安いのかサッパリわからん!
1,100円の「Orthoptera mix」とは「直翅類ミックス」という意味。
豆じゃない!っつーの!
ちなみに「直翅類(ちょくいるい)」というのは、コオロギ、カマドウマ、キリギリス、バッタ…。
コレが日本人の常食になる日が来るかもしれないっていうんだからクワバラ、クワバラ。Tr翌1975年、中学1年生で初めてひとりでテアトル東京に観に行ったのは『ローラーボール』。
なんかボールペンの名前みたいだな。
この前の年ぐらいに「ローラー・ゲーム」というのが世界的に大流行していた。
「東京ボンバーズ」って言ってね、知ってる?
それにヒントを得て作ったのかどうかは知らないが、乱暴ながらとてもオモシロそうな映画だと思ったよ…予告編までは。
殺人OKのローラゲーム。
映画はローラーボールの試合のシーンはかなりの迫力で、鋼鉄の玉がゴールの磁石かなんかに吸い込まれて得点されるところがオモシロかった。
ところが、その試合のシーンのテンションの高さと他のシーンとの落差が大きすぎて映画自体は期待外れだったナ。
コレって確かノーマン・ジュイソンでしょ?失敗したな…。
ウワ!確認してみると、音楽はアンドレ・プレヴィンだわ!
この極悪の殺人スポーツ、舞台は2018年だって…もう過去じゃん!
それを言ったらシルベスター・スタローンの『デスレース2000年』なんかもっと前の設定だもんね。397f1966年公開の『天地創造(Bible)』のリバイバルを観に行ったのは1976年だった。
コレも見掛け倒しの印象だったナ。
ただ大画面を活かした映像はすごい迫力だった。
コレ、音楽が黛敏郎なんだよね。
ナント、この映画の音楽は、当初ストラヴィンスキーに依頼する予定だったらしい。
それがうまくいかず、有名な『涅槃交響曲』を聴いた監督のジョン・ヒューストンの抜擢で黛さんに決まったそうだ。
394f『ディア・ハンター』は1979年か…。
この映画はとても好きだったナァ。
数年前にベトナムへ行った時、猛烈にこの映画のことを思い出したわ。
まこの映画はタイで撮影したんだけどね。395fそして、テアトル東京で観た映画の中で最も思い出深い作品は何と言っても『七人の侍』だ。
1975年9月、豪雨の中父に連れられてテアトル東京へ向かったのだが、どういうワケか父が地下鉄の降車駅を勘違いして、ほんの少し開映に間に合わなかった。
場内に入ると、異常なまでの満員だった。
多分、久しぶりの映画館での上映だったんだと思う。
当時はビデオなんかなかったからね。
上に書いた通り、この劇場は舞台と客席がなだらかなスロープでつながっていたので、私は父が促すまま舞台に上がって、言い換えるるとスクリーンの真下&真横で観るハメになった。
しかし、3時間半、夢中になって観たのを覚えている。
それから一体何回観たかな~。
20回は軽く観ていると思う。
この映画を観ないで死んでいくことほど不幸なことはない…と今でも私は真剣に思っている。
そして、そうして死んでいく可能性が高い今の若い人たちが本当に憐れで仕方がない。
ま、いっくら言っても年寄の言うことなんか聞かないんだけどね。
 
父と2人で観た映画に関しては『七人の侍』が最も思い出深いのだが、他に錦糸町の江東リッツで観た『ポセイドンアドベンチャー』やナゼか新宿まで観に行った『燃えよドラゴン』も印象深い。
両方とも私が小学校4年生の時だった。
『ポセイドン』の時、シェリー・ウィンタースがあの役を得るために故意に太ったという話を父から聞いて驚いたし、映画を観た後、新宿通りを渡る時にブルース・リーのマネをして2人でフザけ合って楽しかった。
私の映画の師匠だった父が死んでから丸7年が経ったが、今でも、あるいは今だからこそ教えてもらいことや聞きたい話が山ほどあるのはナント皮肉なことか…。
396fそのテアトル東京の中央通りを挟んだハス向かい。
ココには「ラ・ボエーム」というチェーン店のレストランがあって、かつてはココでジム・マーシャルを囲んで関係者の夕食会を開いたことがあった。
そのレストランも大分前になくなってしまった。410以上、我が青春の街、有楽町、銀座、日比谷について3回にわたって思い出を綴らせて頂いた。
書いていて実に楽しかった!
 
しかし、残念ながら忘れてしまっていて、どうしても思い出せないことも少なくなかった。
また、書いてはみたものの思い違いをしている個所もたくさんあることだろう。
そうした状態を避けるために、極力インターネットで調べ正確を期したつもり。
何度も書いている通り、私は父の影響で10歳ぐらいの頃から外国の映画に興味を持ち、映画の雑誌を買い求めて夢中になって読み、父が薦めるテレビで放映される映画は間違いなく全部観て、中学に入って、それから映画館に頻繁に足を運ぶようになった。
ところが、今回この記事を書いて我ながらかなり驚いたのは、私が熱心に映画館に通っていた時期は、中学1年生だった「1975年」のほぼ1年限りだったということ。
おっかしいな~、もっと通っていたように思っていたんだけど…。
中学2年生になって、猛烈な速度と情熱でロックに夢中になって行ったんだな~。
そのロックもずいぶんノメリ込んだけど、せいぜい6年ぐらいの間だった。
それだけの期間で蓄えた知識だけで現在も勝負しているんですわ~。
 
とにかく言えることは「仕込みの早さ」ね。
ま、私の場合は全く大したことはないが、「三つ子の魂」で幼い時にいろんな経験をすることが後々どれほど役に立つかということを思い知る。
やっぱり年を取ってからではダメね。
もうひとつ、現在還暦付近の世代までは、映画にしてもロックにしても、TVアニメにしても、昭和までに育まれたエンターテイメントを存分に楽しむことができた最後の人たちだと思う。
「知らぬが仏」ということもあるが、今の若者は本当に気の毒で憐れだよ。
加えて東京生まれで東京育ちというのもかなりラッキーだった。
 
私の「人生交響曲」も「第4楽章」に入ったが、今までのところ後悔することも特にないし、やり直すのも面倒なので「昔に戻りたい」などとはツユほども思わないが、この抗うことのできない「町の変化」というモノに関してだけはどうにも寂しく、昔に戻してもらいたいという願望が募る。
デューク・エリントンに「昔はよかったね」というスタンダード曲があるが、アレの原題を「Things Ain't What They Used to Be」という。
「物事はかつてのモノではない」…「もうあの頃とは違うんだ」ということ。
やはり、歳を取るのは寂しいことなのね?
 
普通の人にとっては退屈極まりない拙文の羅列にすぎなかったと思うが、私個人としてはいつか今回のようなことを書いて、自分の過去を残しておきたいと思っていたのでキッカケを与えてくれたD_DriveのSeijiさんにはこの場をお借りして厚く御礼申し上げます。
 
キッカケとなったそのSeijiさん作のD_Driveの新曲はコチラ⇒I Remember The Town

Link <おしまい>

2022年6月25日 (土)

I Remember The Town~私の銀座/日比谷/有楽町<その2>

 
また晴海通りと外堀通りが交わる「数寄屋橋」交差点から。
「ソニービルのアソコ」と言った方が正確にロケーションを言い表すことができるか…?
でも、先日ココを訪れた時、その「ソニービル」はなかった。
もちろん、私が通っていた時代のオリジナル・ソニービルがもう大分前になくなっていることは先刻承知。
その後にできたヤツが「つなぎ」だったとは知らなんだ。
ココに通っていた理由は、とにかく地下にあった中古レコード店の「ハンター」に尽きる。
1階にはプレイガイドがあって、前回紹介した東京交通会館内の店を発見するまで何回かコンサートのチケットを買いに来たことがあった。
そのひとつがカラヤンとベルリン・フィルのチケット。
ある時、前回触れた新聞の三行広告でこのコンサートが開催されることを知った。
値段を見ると、ナント、1回の公演の値段がS席で2,500円!
チャイコフスキーとかブラームスとか、4回の公演すべてが「ベスト・ヒット交響楽」的な内容で矢も楯もたまらず4回の公演全て行くことに決心した。
だって全部行ったとしても10,000円だもん。
「クラシックのコンサートってずいぶん安いんだナァ」と大感激したわ。
しかもカラヤンだし。
それでも「音楽の勉強だから」とかナントカ言ってチョット親に助けてもらったのかな?
そして、チケットの発売日に意気揚々とそのソニービル1階のプレイガイドを訪ねた。
まんまとS席のチケットをゲットして1万円を支払おうとすると、プレイガイドのお姉さんがこう言った。
「どうもありがとうございます!全部で10万円頂きま~す!」
「ハ?1枚2,500円で合計1万円のハズなんだけど」…なんてことはとても恥ずかしくて言えるワケがない。
瞬間的に事情を飲み込むことができた。
例の三行広告の文字があまりにも小さくて「25,000円」を「2,500円」と見間違えたのだ。
赤面!
どうにも恥ずかしくてどうやってその場から逃げたのかは覚えていないのだが、マァ~、おかしいとは思ったんだよね。
一番安い席が5,000円ぐらいだったので、今となってはそれを買ってカラヤンを見ておけばヨカッタかな?とチョット後悔している。
 
とにかく就職して地方に赴任するまでココのハンターでロックとジャズのレコードをたくさん買った。
150同時に13歳の時から頻繁に通ったのが、高速道路の下の数寄屋橋ショッピングセンター(今は「銀座ファイブ」というらしい)の2階にあったハンターの「数寄屋橋」店。
いまだに何人かの店員さんの顔も声も覚えてるな。160インターネットでこんな写真を見つけたので拝借させて頂いた。
なつかしいナァ。
ハンターの数寄屋橋店。
こうしてお店がショッピングセンターの通路に面していて、ロックの中古レコードは写真の真ん中のエサ箱に入っていた。
後にすぐ近くに2号店ができて、そこで長年探していたトニー・ウィリアムスの『Emergency!』を見つけた時はメチャクチャうれしかった。
ココでもたくさん買ったな~。
ずいぶんと無駄な買い物もしたけど、「ああ、あの時買っておいてホントにヨカッタ!」という盤もたくさんウチのレコード棚に収まっている。
5hunこの店で初めて買ったレコードはELPの『Tarkus』だった。
「ミュージックライフ誌の人気投票で最近まで1位だったバンド」ということで聴いてみようと思ったのだ。
確か1,000円だったような気がするんだけど、今から46年前で「1,000円の中古レコード」ってベラボーに高かったような気がするな。
だから繰り返し繰り返し聴いた。Tar銀座ファイブの隣のビル。
コレも建て替わった。
ココには3階ぐらいに「ニュー東宝シネマ1」、地下に「シネマ2」という2つの映画館が入っていた。
170v
「シネマ1」は中型の映画館で比較的話題の作品が上映されていた。
あんまり来なかったけど、『明日に向かって撃て』と『ヤング・フランケンシュタイン』をココで観たのは覚えている。
ジーン・ワイルダーってちょっとニガテだったんだけど、コレはオモシロかったナァ。
監督のメル・ブルックスはコレで名を上げて、矢継ぎ早に『ブレージング・サドル』という作品が公開されたけど、コレはスベったように記憶している。173fそれと、今でも映画の情報を与えてくれる大学時代の友人と『赤ひげ』を観に来たのは1984年のこと。
3時間5分…アッという間だった。
その後、DVDを買って何回観たことか…。
原作より映画の方が出来の良い稀有な作品のひとつ。
杉村春子を大根で殴るシーンの度重なる撮り直しで、東宝の撮影所がある成城地区の八百屋の大根がすべてなくなってしまったのは有名な話。
スーパーの「成城石井」は元精肉店で、黒澤明の成城の自宅で毎夜開かれる宴会に納める肉の売り上げで成長したという記述を最近読んだ。

174f「シネマ2」では『レニーブルース』なんかを観に来たナァ。
印象に残っているのは小林正樹の『怪談』のリバイバル上映。
すでに何回か書いているように私は若い頃は邦画を全く観なかったが、コレを観たのは母のススメだったのかも知れない。
「恵子さんの『雪女』がすごくキレイよ」なんて言っていたような気がする。
岸恵子は、母の父方の従姉なので、映画好きの私にその美しい姿を見せたかったのかもしれない。
確かにとてもキレイだった。

Kd
日比谷エリアから銀座方面を望む。
この景色もずいぶん変わったナァ。

175下は数寄屋橋の交差点で撮られた写真だけど、今となっては古い映画の中ぐらいでしかお目にかかれなくなってしまった。
昔はこの森永キャラメルの地球儀の広告がごく普通に目に入ったものだった。
コレは向こうの方に東劇(松竹の本社ビル)が写っているので1975年以降に撮られた写真。

0hstさて、今度は「日比谷」地区…「東宝村」ね。
もう、このエリアの変わりようたるや悲惨だよ。
180v私が通っていた頃はココから左に「日比谷映画」、右に三井銀行が見えた。
道が曲がっているので奥までは見通せない。
この風景、どこか他でも見たことがあるなと思ったら…190コレだ!
日本堤から吉原大門の方を見る風景。
写真の右側の茶色っぽいマンションにはかつて「松葉屋」という引手茶屋があって、1976年、そこにフランク・ザッパがやって来た。Img_4790帝国ホテルの方に向かって少し入った左側。
ここにはずいぶん立派なビルがあって、1階がゲームセンターになっていた。200_2その向かい…あ~あ~、こんなに変わり果ててしまった。
私はココにあったビルに本社を置く会社に勤めていた。
好きな日比谷に本社があるということで喜んでいたけど、入社してすぐに富山支店勤務を命ぜられ、東京に帰って来たのは11年後。
1年だけココに通勤したが、本社勤めの堅苦しさに耐えられなくて辞めちゃった。220ココには2007年まで「三信ビル」という、1929年(昭和29年)に竣工したこんな立派な建物があった。
せっかく空襲にも耐え、終戦直後にはGHQに接収された。
GHQの本部があった第一生命ビルもすぐ近くなので便がヨカッタのであろう。
でもなくなっちゃった。230そのハス向かい。
今は「日比谷シャンテ」なんてビールの出来損ないみたいな名前のビルがあるところ。
「シャンテ(chanter)」はフランス語で「歌う」という意味ですな。
だからフランス語で「歌」は「シャンソン(chanson)」。
イタリア語なら「カンツォーネ(canzone)」、動詞が「カンタ(canta)」だ。

240昔はこういう景色だった。
「日比谷映画」ね。
日比谷映画は本当によく来たな。
東宝系一番の洋画封切り館だったので話題作ばかりがかかったから。12d初めてココに入ったのは『ボルサリーノ2』だったのかな?
1975年の2月の公開というと…小学校6年生か。
間違いなく1人で観てるんだけど、親が例外的に許してくれたのかな?
しかも、映画の雰囲気を後で味わいたくて、ナショナルの「スタジオ・マック」というラジカセを持ち込んで全編音を録音したことを覚えている。
ん~、アレは小学校年生の時だったのか?
中学2年生ぐらいの時かとばっかり思っていた。
246fh_2コレも私のチラシ・コレクションから。
ね、「日比谷映画」でしょ?
247fh_2ウワ!調べてみるとスゴイわ!
1975年の正月興行だった『007/黄金銃を持つ男』に次いで『ボルサリーノ2』が2月から公開され、3月末には『ジャガーノート(Jagdernaut)』というイギリス映画が日比谷映画で上映された。
この映画はオモシロかったナァ。
リチャード・ハリスっていい役者だよナァ…サウス・ケンジントンのジミー・ペイジの家の前の所有者ね。
「赤の線を切るか、青の線を切るか」ってね。
ハラハラしたわ。
コレ、監督がビートルズ映画を撮ったリチャード・レスターだから映画の作り方が上手だったんだね。

5jn4月末になると、『ヤコペッティの大残酷』という映画になった。
コレは小学校の友達の野村くんと観た。
彼のリクエストだった。
私は自分からはこんなの絶対観ないもん。
「モンド映画」ってヤツ。
「ヤコペッティ」だか「ジャコペッティ」だか知らんけど、この手の映画が一時期ずいぶん出回った。
『グレート・ハンティング』なんてのもずいぶん話題になった。
ものスゴく「時代」を感じるナ。
原題を見ると『Mondo Candido』…「mondo」というのはイタリア語で「世界」という意味で、「Candido」は主人公の名前。
だからコレは「キャンディドの世界」ということになるそうで。
今では問答無用で観ないナ。
5dzk
当然、興行成績が振るわなかったんでしょう、ひと月でヤコペッティが打ち切りになって、鳴り物入りで上映されたのが『オリエント急行殺人事件』だった。
コレも観に行った。
ものスゴイ豪華キャストでずいぶん話題になっていたっけ。
だって、リチャード・ウィドマークにアンソニー・パーキンス、ジョン・ギールグッドにショーン・コネリー、ヴァネッサ・レッドグレーヴにローレン・バコール、イングリッド・バーグマンにジャクリーン・ビセット、マーチン・バルサムにアルバート・フィニーだもん。
「ノーマン・ベイツとアーボガスト」から「ジェイムス・ボンド」に「シェイクスピア俳優」まで出てるんだからスゴイ!
ところが、こうなると決まって映画はツマらなくなる。
名匠、シドニー・ルメットとて同じ。
でも、音楽はヨカッタ。
5oexそれから43年後、また現在の豪華なキャストでリメイクしやがった。
今度はケネス・ブラナー、ウィリアム・デフォー、ペネロペ・クルス、ジュディ・デンチ、ジョニ―・デップ、ミシェル・ファイファー…スケールちっさいナァ~。
コレも飛行機の中で観たのよ。
前にも書いたけど、この作品はプロットが陰惨でニガテなのに加えて、どうにも幼稚な感じがしてツラかった。
飛行機の中でなければ最後までとても観れなかったろうな…。
5oex2『オリエント急行』の次は『アラン・ドロンのゾロ』が来た。
1940年のタイロン・パワーの『快傑ゾロ』の焼き直しで、コレも「昔のゾロの方がヨカッタ…」と父が言っていたような気がする。
要するに今の私と同じよ。
新しいモノには何でも文句をつけちゃう。
でも、能天気でオモシロかったよ。
アラン・ドロンのいい時の終盤だったな。245f『ゾロ』の次には『フレンチ・コネクション2』がかかった。
コレも観に行った。
すごくオモシロくて「ジョン・フランケンハイマー」という監督の名前を一発で覚えた。
ところが…後追いで前作を観たらこの『2』のことはスッカリ忘れてしまったナ。
やっぱり「続編」というモノはムズカシイ。
248fその次もジーン・ハックマンで『弾丸を噛め(Bite the Bullet)』。
コレ、ジェイムズ・コバーンにキャンディス・バーゲンにベン・ジョンソン、ジャン・マイケル・ビンセントといい役者が出ていて、監督もリチャード・ブルックスだったのにちっともオモシロくなかったナァ。
あの薬莢を虫歯に被せるシーンしか印象に残っていない。5btbその次はまたイギリス映画の『怒りの日(The 5th of November)』がかかった。
コレは清々しいぐらい内容を覚えていない。
映画の存在すら忘れていたが、この女王のコインを見て記憶が一気に…蘇らない!
でも日比谷映画で観たことは思い出した。
ナニナニ…ロッド・スタイガーにリー・レミック、エリザベス女王暗殺計画の話?
今観たいじゃないか!
Ih…と、中学1年生のボウズが、1974年12月から1975年10月までの約1年の間に日比谷映画で上映された映画合計8本をすべて観た…というお話でした。

しばらく間を空けて1976年に『ファミリー・プロット』で日比谷映画を訪れた。
初めてロードショウ公開で観たヒッチコック。
まだこの頃はヒッチコックも、ビリー・ワイルダーも黒澤明もまだピンピンしていた。Fp同じ年の暮れ『カサンドラ・クロス(The Cassandra Crossing)』という作品を観た。
ナゼか父と母と3人で観たんだよね。
4歳だった妹はその時一体どうしていたんだろうか?
自由席が混んでいたので、2階の指定席で観たことを覚えている。
幼い頃は父や母が別々に映画によく連れて行ってくれたが、3人一緒に観たのはコレ意外に記憶がない。
そして、どうしてコレを観に行くことになったのかが今でもわからない。
日比谷映画は1984年、数軒先の千代田劇場がその名を継ぐことによって閉館した。
Cc日比谷映画のとなり…あ~あ~、こんなんなっちゃって!250ココには有楽座があった。
有楽座も好きな映画館だったナァ。
写真の左側…地下に映画関連のグッズを売っているお店があって1度だけ入ったけど、ナニも買うモノがなかった。12e有楽座も70mmが上映できる大劇場で、初めてココで観た映画はその70mm作品の『大地震』だった。
1974年の暮れの公開なので、私は小学校6年生だったが、1人で来たのかな?
チョット記憶にない。
下のチラシにあるように「センサラウンド・サウンド・システム」とかいう音響装置が据え付けられていて、地震のシーンでは身体が振動を感じるような仕組みになっていた。
コレも映画自体はあんまりピンと来なかったナァ。
今は大地震がマジでコワくて映画どころじゃないわ。
ホント、地震はイヤだ。255f1974~1975年に大規模な「チャップリン・ブーム」があった。
『モダンタイムス』から、『ライムライト』から、片っ端からリバイバル上映しちゃう。
私はほとんど興味がなかったんだけど、『キッド』だけは有楽座で観た。
ものスゴイ満員だったのを覚えている。

259fそして、1975年の8月、初めて黒澤作品を有楽座で観た。
『デルス・ウザーラ』だった。
今はどうか知らないが、昔は日曜日の一番最初の上映は全席を自由席として開放していたので、遠慮なく2階の一番前の特等席で観せてもらった。
撮影中の逸話が多い黒澤監督。
この作品でも色んな逸話が残っているが、最近知ったのはサーカスのトラでは真実味がないと野生のトラを探して捕獲し、撮影に使ったという。
しかし、そのトラが野生なモノだからゼンゼン言うことを聞かなくて、黒澤さんはトラを相手に怒鳴って真剣に演技指導をしたそうだ。
トラは素直に言うことを聞いたかどうかは知らない。
このチラシもいい加減スゴイ。
役者じゃなくて写真が監督だもんね。
でも、感動したな~。
「カピタ~ン」って言ってね。
それで、家内が「観たことがない」というのでつい最近DVDを借りて来て47年ぶりに観てみた。
家内は涙を流していたが、私は相変わらずオモシロかったものの、感動することはなかった。
コレが歳を取るということなのか…。256f『デルス・ウザーラ』の次にかかった『マンディンゴ』も観に行った。
ジェイムス・メイスン、いいんだよね~。
イヤイヤ、それよりもスーザン・ジョージか!
男子はサム・ペキンパーの『わらの犬』なんて夢中になって観たでしょ?
スーザン・ジョージってイギリスのサーリー(クラプトンやジェフ・ベックの地元)出身だってことをつい最近知って驚いた。
てっきりアメリカ人だと思っていた。
しかも私よりたったひと回り上で思っていたよりずっと若かった。
モハメッド・アリのアゴを砕いてボクシング・ヘヴィ級の世界王者になったケン・ノートンが出演していたことも大きな話題になった。
私はこの映画が結構好きだった。
ところが…これまた最近読んだんだけど、大好きな中村とうよう先生が当時書いたエッセイでこの作品をクッソミソに酷評しているのを知った。
監督は巨匠リチャード・フライシャーなんだけど、劇中の黒人の歴史的な取り扱いがいい加減であるという理由だった。
ま、でも映画としてはオモシロいと思う。

Mdg飛んで1981年。
6月に有楽座に来たのは『エレファント・マン』を観るためだった。
家内との初デートだった…こんなのに連れて来てしまって申し訳ない。
でも、どうしても観たかったのよ。
残念ながらあんまりオモシロくなかったナ。

257f同じ年、もう一度家内とのデートで有楽座へ来た。
『レイダース 失われたアーク』を観た。
コレは文句なしで、家内と夢中になって楽しんだ。
この時が私の最後の有楽座だった。
有楽座がなくなったのは1984年のことだったそうだ。

258f<つづく>

2022年6月23日 (木)

I Remember The Town~私の銀座/日比谷/有楽町<その1>

 
タイトルの「I Remember The Town」とはD_Driveの新しい曲のタイトルのこと。
今となってはスッカリ変わってしまった昔慣れ親しんだ町にSeijiさんが郷愁を募らせて作った曲だ。
そこに人が暮らしている以上、「町」は変貌を避けることができない。
その曲を聴いていて、「しからば私が郷愁を寄せる町はどこか…」などと考えてみた。
東京で生まれて東京で育った私が郷愁を寄せる町といえば、必然的に「東京」ということになる。
それも「映画」か「音楽」に因んだ場所になることは必定なのだが、ココは「映画」だろうナァ。
「映画の町」こそが私が郷愁を募らせる場所。
 
私は映画狂の父の影響を受けて10歳になる前から海外の映画に慣れ親しんだ。
と言っても、まだ小学生の時分には1人で自由に映画館へ行くことは許されなかった。
それでも、小学校6年生の時にタマタマ応募した試写会の抽選が当たって、親に許しを乞うて行かせてもらったことがあった。
会場は内幸町の飯野海運ビルの中の「イイノホール」。
昔のイイノホールね。
今にして思うに、後年舞鶴の飯野海運の直系子会社と仕事をしたのはこの時のことが縁だったのか?
ココは当時よく映画の試写会で使われていたホールで、この後何度足を運んだかわからない。
よくトイレで福田一郎さんにお会いした。
とにかく、よくも小学校6年生の子供を夜にひとりで出かけさせてくれたと思うわ。
その試写会の映画とはトニー・カーティス主演の『暗黒街の顔役(Lepke)』だった。
「Lepke(レプケ)」というのは、1930年代、ニューヨークで「Murder Inc(殺人株式会社)」という組織を率いて、アメリカの大物ギャングで最初で最後に死刑になったルイス・バカルターという物騒なヤツのニックネーム。
「試写会」がどういうモノか全く知らなかったのでドキドキしながら観たが、コレのおかげでメナヘム・ゴーランという監督やアンジャネット・カマ―という女優の名前を覚えた。
先日『刑事コロンボ』を観ていたらアンジャネット・カマ―が出て来て、この試写会のことを即座に思い出してしまった。
一方、トニー・カーティスは『お熱いのがお好き』や『グレート・レース』、『空中ぶらんこ』なんかでこの時にはもうすでに知っていた。
だから映画に関しては、仕込みが早かった方だと思う。

Lpk_2 中学生になって電車で通学するようになると、堰を切ったように映画館に足を運ぶようになった。
行き先は有楽町、あるいは日比谷、あるいは銀座。
当時はまだ土曜日に学校があったので、日曜日が来るたびにそれらの町に出かけ、1日に2軒ハシゴをすることも珍しくなかった。
全部ロードショウ。
名画座に行くことはほとんどなかった…おぼっちゃんだったから。
…というのはウソで、お小遣いを全て映画に費やしたのだ。
中学の2年生ともなるとロックに夢中になり、日比谷や銀座へ行く目的が映画から中古レコードに替わって行った。
「ハンター」と「Lo-Dプラザ」である。
だから考えてみると、そう長いこと映画を観るためだけに日比谷や有楽町に通っていたワケではないのだが、何度も入った映画館が片っ端から姿を消すか、移転するかして町の様子がスッカリ変わってしまったことについてはとても寂しい思いがするのだ。
そんな映画と映画館の思い出を綴って私の「I Remember The Town」をいくつか編んでみたいと思う。
何しろもう40年も前のことなので、記憶違いの記述も多くなるかも知れないが、インターネットの協力を得てできるだけ事実に忠実に書いたつもり。
また、どう調べても情報が得られなかったことは極力「当たらずとも遠からず」となるよう努めた。
 
まずはJR有楽町の駅。
私が映画を観に通っていた頃は当然「国鉄」の時代。
写真の左、線路沿いに行くと、そこにはまだ東京都庁舎があって、今のビックカメラはデパートの「そごう」だった。
ところで、有楽町の駅って駅舎がないんだよね。
御徒町や神田なんかもそうだわ…新橋もかな?
ガード下の空間が駅舎を兼ねている。10この出口の向かいビルの2階にあったのが「スバル座」。
このディスプレイ、昔からあって、スバル座で上映している映画のポスターが貼られていた。
15vキャパは150席ぐらいだったろうか?
B級映画の封切り館だった。
12g_21974、75年ごろ、フジテレビ(だったように記憶している)が夜中に『洋画の窓』という5分枠の番組を放映していた。
何のことはない…1分ほどの洋画の予告編を2本流すだけの番組。
ビデオすらない時代だから、動いている映画に接することができる機会はテレビしかなかった。
だからそんな予告編だけでも映画に接することができるのがうれしくて、テレビの前にラジカセを置いて音だけ録って、何度も聴き返してはまだ観ぬ作品に思いを馳せていた頃があった。
そんなある日、『洋画の窓』で紹介されたのがブライアン・デ・パルマの『ファントム・オブ・パラダイス(Phantom of the Paradise)』だった。
デ・パルマはまだ全く無名だったし、『オペラ座の怪人』もポール・ウィリアムスもゼンゼン知らなかったが、主人公が被った不気味な銀色の仮面と電気的な声に大きな魅力を感じ、公開されてすぐ観に行った。
その封切館がスバル座だった。
も~、ものスゴク面白かったね~。
大好きな映画だった。
近田春夫さんの「JUICY FRUITS」や「BEEF」というバンド名がこの映画から引用されていたことに気が付いたのは大分後になってからのことだった。17fB級映画の小さな封切館ということからか、敷居が低くとても入りやすい映画館だったナ。
何度も入ったけど、他に何を観たかはもう思い出すことができない。
 
2020年からよしもと系の劇場になったそうだ。
ということは、かなり最近まで「スバル座」だったのね?
知らなかった。16有楽町駅のガードをくぐる。
目の前に丸井がドーン!
もうこの右側のあたりは私が知っている有楽町の原形を全くとどめていない。
30変わらないのはこの東京交通会館。
今では10年に1回、パスポートを更新する時以外に来ることはないのだが、高校生の頃は頻繁に訪れていた。20それはもちろんパスポートの更新のためではない。
話は飛ぶが、昔は新聞の三面記事の下の方に出ているいわゆる「三行広告」で外タレの来日の情報を得たものだった。
「外タレ」なんて言葉ももう死語だな。
「ひろし もう大丈夫だから帰って来い たかし」とか、「新聞配達員急募!」とか、そういう極めてプライベートな広告の隣に平気で「エアロスミス待望の初来日決定!」とか載っちゃう。
ロックバンドだけじゃない。
カラヤンの来日公演の情報だってそういうところに出ていた。
下みたいなヤツね。
「僧侶(真言宗)」募集ってのもスゴイね…「有資格者に限る」か。
まぁ、そりゃそうだろうナァ。寅さんじゃあるまいし。
毎日必ず朝刊に載るこういう欄をチェックして「お!リック・ダンコが来るゾ!」とか言って、チケットの発売日の朝にプレイガイドに並ぶワケ。
ああいうのひとつぐらいスクラップしておけばヨカッタな~。
3cad_3
高校の頃、東京交通会館に頻繁に来ていた理由は下の写真。
今はジュース屋になっているが、1階の入り口のすぐ横のこの場所に小さなプレイガイドがあった。
上の三行広告で情報を仕入れては、よく南青山のウドー音楽事務所の前にできる列に並んでいたんだけど、何かの拍子にココのプレイガイドを見つけて、ある時試しにチケット発売日の朝に来てみた。
場所は有楽町の駅前の好立地だからね、ウドーさんの事務所の時みたいにかなりの行列を覚悟したんだけど、誰ひとり並んでいなかった。、
何のコンサートだったかは忘れたけど、前から数列目の良い席を取ることができた。
もうそれからは必ずココ。
この店には興行主から割り当てられることがないのか、真ん中の最前列とか2列目なんて席を取ることはできなかったが、少しハジであれば2列目ぐらいの席を簡単に取ることができた。
サンプラザのUFOとか渋谷公会堂のNazareth、後楽園ホールのロイ・ブキャナンとかフランク・マリノなんてのは本当に前から2列目だった。
Wishbone Ashの時は友達と5、6人で行くことになっていたので、まとまった席が必要だった。
それでも全く並ぶことなく前から7列目の真ん中の席を取ることができた。
とにかく肉眼でステージの上の外タレの顔をハッキリ見れることが滅法うれしかったワケ。
Aerosmithが初めて日本に来た時に武道館の2階席から見たスティーブン・タイラーなんてスイカの種より小さかったからね。25東京交通会館の向かいにあった老舗喫茶店「レバンテ」。
ココに入り浸っていた…とかいうのではなく、この喫茶店は松本清張の『点と線』に出て来ることで知られていた。
もう写真の場所には存在しないけれど、どこかへ移転して同じ名前で営業しているんじゃなかったかな?35駅前の通り。
ココもゼンゼン変わってしまった。
今のマツキヨがある場所には「ジャーマン・ベーカリー」という洋菓子屋兼喫茶店があった。
自分ひとりで入ったことは一度もなくて、中学生ぐらいの頃、彼女が出来たら「ジャーマン・ベーカリーでお茶をする」のが夢だった。
結局今の家内と1回だけ入ったきりだったナ。
もう40年以上前の話よ。40その向かい…キノコの人形が置いてあるチョット先に「有楽シネマ」という小さな映画館があった。
2本立て専門のいわゆる「二番館」。
45『ミッドナイト・エクスプレス』をココで観た。
併映はナンだったか全く覚えていない。
それ以外にもホンの数回利用したんだけど何を観たのかは、やっぱり覚えていない。
後年…といっても大分前のことだが、海外のマネをして、参加型の『ロッキー・ホラー・ショウ』をココで上映していた。
スクリーンに向かって米とかを投げたりするヤツね。
私は興味なかったナ。55fその駅前の通りをマリオンの方に進んで左に曲がる。60ココもマツキヨか…。
昔は小さな木造(だったと思う)の店舗が並んでいて、角から3軒目ぐらいのところに山田うどんが経営する「カントリー・ラーメン」という立ち食いラーメン屋があった。
1975年の頃で140円ぐらいだったかナァ。もっと安かったかも知れない。
映画にお小遣いを使い果たしてしまうモノだから、何かを食べるとなると大抵ココだった。
ラーメンか…。
私が小学校低学年の頃はまだラーメンが100円以下だったのを覚えている。
立ち食いそばは50円だった。
かつてラーメンといえば、「給料日前だからラーメンしか食べるものがない」という類の食べ物だった。
父が職人だったので、私は家庭内におけるこの「給料日前」という意味や感覚がわからなかった。
同時にラーメンというのはそんなに位の低い食べ物なのか…という印象を持った。
それが今ではミシュランだからネェ。
私にはそんな刷り込みがあるモノだから、今でもチョット値段が張るラーメンを食べることに大きな抵抗感があるし、実際に食べることもない。
だいたい最近はスープがドロドロしているラーメンが多すぎるんじゃ!
なつかしいな、カントリー・ラーメン。70_2この通りの突き当り。
80外堀通りを渡ったところに東映系の封切り館があった…というか、ココが東映の本社。
映画館の名前は「丸の内東映」だったかな?
地下は「丸の内東映パラス」といった。
ちなみに今の東映の社長って「手塚治」さんとおっしゃるそうだ。
106v路面館である丸の内東映は邦画の封切り館だったので、子供の頃に入ったことは一度もなかったが、大学生の時に家内のリクエストで吉永小百合の『天国の駅』というのを観に入った。
後にも先にもコレ1回っきり。
え?コレは「日本で戦後初めて死刑を執行された女囚の物語」だって?
調べてみるに「ホテル日本閣殺人事件の『林葉かよ』」…ウーム、コリャなかなかスゴイ話だな。
ナニも覚えてないわ。
家内はよほど感動したらしく、ずいぶん涙を流していたナァ。
今回、この映画のモチーフがその殺人事件だったらしい、ということを説明するとかなり驚いてこう言った…「ナニも覚えてないワ」
ま、そんなもんです。
107f私の古いチラシのコレクションから。
『第2回 日本映画名作祭』…丸の内東映ではかつてこんなイベントをやっていた。
私は98%ぐらいの洋画派で、若い頃は黒澤明の作品以外の邦画を観ることはほとんどなかった。
ところが、洋画もハリウッド映画が凋落の一途をたどって久しく、幼稚なヒーローものやディズニーのお子様向けアニメのようなモノばっかりになってしまった昨今、日本映画に活路を見出している。
といっても、たとえ「ナントカ賞」を獲得した作品にしても最近のモノは絶対に観ませんよ。
1950~60年代初期の古い日本映画が破天荒にオモシロいのだ。
このイベントが開催されたのは1976年の2月だというから私は中学1年生。
当然、当時はこんな渋い邦画を観るワケなどなくて、何でもいいからとにかく映画のチラシを集めていた。
今なら全部観てもいいわ。

0r4a0064

0r4a0065 

一方、その地下の丸の内東映パラス。
ココは一度も入ったことがなかったナァ。
東映が配給するBC級洋画の封切り館という感じだった。
何しろこんなばっかだもん。
コレも私のチラシ・コレクションから。
B級といっても『悪魔のはらわた(Flesh for Frankenstin)』なんかは制作がカルロ・ポンティで、美術がアンディ・ウォーホルということで公開時には話題になっていたな。
0r4a0056コレは上のチラシの裏面。
ね、「丸の内東映パラス」でしょ?
この3つのウチだと『悪魔のいけにえ』だけテレビで観たな。
結構オモシロかった。
この『悪魔のいけにえ』の原題は『The Texas Chainsaw Massacre』という。
0r4a0058_2そう、コレは後年、オリジナルと同じタイトルでリメイクされた。
このリメイク版はヨカッタね。
脚本がシッカリしていて、カメラもウマかった。
と、思ったらこの映画、批評家の間ではクソミソだったとか…ほっとけ!
悲惨な目に遭う若者たちって、レーナ―ド・スキナードのコンサートに行く途中という設定になっているんだよね。Tcsmさっきのマツキヨの前まで戻って来る。
右手には有楽町マリオン。
向こう側のハジッコに「丸の内ピカデリー」があって、その地下には「丸の内松竹」があった。
最初、「ピカデリー」ってナンダ?と思ったな。
85コレがホンモノのロンドンの「ピカデリー(Piccadilly)」。
発音は「キャ⤵ディリ⤵」。
最初コレを耳にした時あまりにも変な発音で思わず笑ってしまった。
ロンドン最大の繁華街、ウエスト・エンドの中心地。81上の写真の向かいがこのロンドンのシンボル的光景。
私が初めてココへ来た時はこの電飾の広告がSANYOやTDKだったんだけどね…。0r4a0698 ココには「シャフツベリー通り(Shuftesbury Avenue)」という劇場街がある。
昔の「浅草六区」みたいなもんですな。
きっと世界のショウビジネスの中心であるこのエリアにあやかって「丸の内ピカデリー」なんて名前にしたのだろう…と今になって思っている。
ところで、ロンドンで道路の名前に「アベニュー」が用いられているのは珍しい。
たいていは「Street」か「Road」だから。
Img_0045コレが在りし日の「丸の内ピカデリー」と「丸の内松竹」。
「ピカデリー」の方は天下の松竹の洋画封切り館の代表とだけあって、 いつも大作がかかっていた。
何回入ったことか…。

88また私のチラシ・コレクションから…『エクソシスト(The Exorcist)』。
スゴいデザインだと思わない?
作品のタイトルよりも封切り日の情報の方が大きい。
日本での公開は1974年の7月13日だった。
残念ながらこの日は土曜日で、金曜日ではなかったんだね~。
ロードショウ映画の公開は土曜日にスタートするのが普通だったから。
松竹の宣伝部の人たちも悔しかったことだろう。
それともうひとつスゴいのは、建物内の2つの映画館で同じ作品を上映したんですわ。
それだけの動員を見込むことができたワケ。
1974年というと昭和49年…ビデオが普及するのはまだ4~5年先のことで、まだまだみんな映画館へ足を運んでいた時代。
この時、私はまだ小学校6年生だったのでココに観に来ることはなかったが、スポーツ新聞に「失神者続出!」なんて記事が載っているのを見て「そんなにコエェ映画なのか!」とビビったのを覚えている。
イヤ、その頃は「ビビる」なんて言葉はまだなかったかも知れない。0r4a0062結局、中学に入ってから後追いで観た。
悪魔が憑りついてリーガンがおかしくなっちゃうシーンは迫力があって圧倒されたけど、映画としてはそれほどオモシロいとは思わなかったナァ。
失神するどころか、よくわからなかった。
すごく印象的だったのはリーガンが「コックリさん」をやるシーン。
『エクソシスト』より先に『うしろの百太郎』で「コックリさん」が取り上げられて学校で流行ったからあのシーンにはゾクっと来たね。
海外ではアレを「ウイジャ・ボード(Ouija board)」というらしい。
「ouija」とはフランス語とドイツ語で「はい」を意味する「oui(ウイ)」と「ja(ヤー)」をくっつけた造語だそうだ。
ちなみにこの映画で一気に有名になった「exorcist(エクソシスト)」という単語の動詞は「exorcise(エクソサイズ)」で、「悪魔祓い」という意味だけではなくて一般的に「お祓いをする」という意味合いでも使うことができるようなので今度何かの折に使ってみよう。
しかし、「exorcise」と「exercise」…ひと文字でエライ違いだな。Ob_3 

『ジョーズ』を丸の内ピカデリーで観たのは中学1年生の時だった。
その時、私はもうリチャード・ドレイファスは『アメリカン・グラフィティ』で、ロバート・ショウは『ロシアより愛をこめて』で、ロイ・シャイダーは『フレンチ・コネクション』でそれらの名前を知っていた。
こんなヤツ、間違いなくクラスで私だけだった。
とにかくオモシロかったよネェ。
はじめ「ジョーズ」って「サメ」の一種かと思っていた。
後にそれが「アゴ」を意味すると知って結構驚いた。

83f_3 私は子供の頃からミュージカルがとてもスキだったので『ザッツエンタテインメント』には興味津々だった。
古今のミュージカル映画の名シーンをダイジェストにしたこの作品を指して、映画の師匠であった父は「あんな宣伝みたいな映画は観る必要がない」と言っていたのを思い出す。
そりゃ、自分は全部丸々観てるんだからいいよ。
ビデオがない時代、こちとら『雨に唄えば』すら自由に観ることができなかったんだから!
ということで、やはり丸の内ピカデリーに観に来た。
今では「エンタメ」なんて平気で言っているけど、この頃は日本ではまだ「エンタテインメント」なんて単語は未知のモノだった。
「70mm」か…そうだね、丸の内ピカデリーは70mmをかけることができる映画館だった。
もう「70mm」だとか「シネラマ」なんて言葉も死んだね。84f中学2年の時にキューブリックの『バリー・リンドン』を観たのも丸の内ピカデリーだった。
生まれてはじめてのキューブリックだった。
私は映画はたいていひとりで観に行っていたが、コレは仲良しの安藤くんと行ったように記憶している。
まぁ「キューブリック」ったって子供にはわかりにくいわねェ。
『2001年』なんかいまだにチンプンカンプンだもん。
それでも見せちゃうのがキューブリックのスゴイところ。
長いでしょ、『バリー・リンドン』…3時間5分だもん。
それでも比較的退屈しないで観ることができたナ。
今ではキューブリックの作品中、1、2を争うお気に入りの作品。
争っている相手は『博士の異常な愛情』かな?86f音楽もすごく印象に残ったんだよね。
とりわけシューベルトの「ドイツ舞曲第1番」という曲が気に入って、お茶の水の駅の横にあった小さなレコード店へミュージック・テープを買いに行った。
レコード・プレイヤーを持っていなかったのでカセット・テープよ。
「こんなのキミが聴くの?」と店のオジさんが驚いていた。
中身はバロックだからね。
 
この時から43年。
ロンドンで観た『スタンリー・キューブリック展』は本当にオモシロかった!
『バリー・リンドン』について書いた記事はコチラ
    ↓     ↓     ↓
イギリス紀行2019 その20 ~ スタンリー・キューブリック展 <vol.9>
Bl 
1975年当時は「パニック映画」ブームだった。
と、簡単に言うけど、当時「パニック」という言葉も一般的には知られていなかった。
この「panic」という単語はそのブームのおかげで「事故」とか「惨事」みたいな意味だと思われているようなフシが今でもなきにしもあらずだけど、本来は名詞なら「恐慌」とか「大慌て」という意味だし、動詞なら「うろらえる」とか「あわてふためく」とかいう意味。
何やら失敗をしてしまって「さぁ、どうしよう!」と慌てていると「Don't panic!」と言われる。
 
とにかく「パニック映画」はキャストが豪華な大作が多かった。
今にして思うとハリウッド映画の最後の悪あがきだったのかも知れない。
丸の内ピカデリーで観たこの『エアポート'75』もしかり。
チャールトン・ヘストンにジョージ・ケネディ、ナゼかグロリア・スワンソンも出ていて、『エクソシスト』で大スターになったリンダ・ブレアも出演していた。
ともすれば個性が強すぎるルックスのカレン・ブラックが主役のスチュワーデスを演じていたのはどういうワケだったのか?
後でまたカレン・ブラックは出て来るけど、私はキライではないのだが、もう少し見目麗しき方に主演をお願するべきではなかったか?
結果…コレはオモシロくなかったナァ。
そのことだけ覚えている。87fh_4こんなのも丸の内ピカデリーで観たわ。
イヤ、正確に言うと「観ていない」。
子供にはサッパリわからなくて、映画館の中に入ったものの比較的すぐに出て来ちゃった。
チラシをタンマリもらったので後悔はしなかったような気がする。5reni最後に丸の内ピカデリーに入ったのは家内とのデートで観た『E.T.』だった。
1982年か…我々が大学2年生の時だわ。
丸の内ピカデリーは1984年にマリオン内の本館内に移り、我が青春の「丸の内ピカデリー」は消滅した。
ちなみに『E.T.』は旧丸の内ピカデリーでの動員数トップを記録したそうだ。
そのウチの2人が私と家内というワケ。Et さて、丸の内ピカデリーの地下にあったのが丸の内松竹。
ココは何度かB級作品を観に行ったことがあったが、それらがナンだったのかはどうしても思い出せない。
ひとつだけ覚えているのが下のダブル・フィーチュア(2本立て)。
ナゼか組み合わせが『ロッキー』と『幸福の黄色いハンカチ』だったんだよね。
コレはロードショー公開ではなくて、大ヒット作のリバイバル上映。
松竹が「ヒット作自慢」でもしたかったのであろうか?
人気作の組み合わせだけに場内は超満員で立錐の余地が全くなかった。
『ロッキー』はナンの仕掛けもなくて飽きたナァ。
2本観てひとつ覚えて帰ったのは『ハンカチ』で健さんが武田鉄矢に向かって言うセリフ…
「オマエみたいのをナァ…『草野球のキャッチャー』いうんじゃ…………ミットもない」
健さん、精一杯のギャグ…お上手!

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ではそのマリオン…と行きたいところだけど、できたばかりぐらいの時に『ゴーストバスターズ』かなんかを1回観に行っただけなのでナンの思いもありません。
でも、ココが日劇だった時代の思い出はたくさんある。

120 日劇の前、晴海通りと外堀通りの交差点にある宝くじ売り場は、「よく当たる」ということで今でも年末にもなると、はかない夢を見る一般大衆で長蛇の列ができる。
昔はその横に停めた街宣車の上で白髪のコワい顔をした老人がツバを飛ばしていつもガナっていたものだった。
赤尾敏である。
私はまだ子供だったので、その熱弁に耳を傾けたことが一度もなかったが、今でもこの景色はあの演説と「組み」になっているような感じがする。100そういえばこの角の不二家って昔はこんなだった。
懐かしいな~。Fjy 在りし日の日本劇場。
コレもヤケクソに懐かしい!
写真の向かって右に写っているのは朝日新聞の本社。
ココには印刷所があって、いつもインクのニオイがプンプンしていた。
向かって左はさっき出て来た「そごう」。110 このマリオンの建物の分かれ目の辺りだったかナァ?
日劇と朝日新聞の間に道路が走っていた。
日劇の横には「東宝カレー」という東宝が経営するカレーショップがあって、タマ~に食べることがあった。
ナゼ「タマ~に」だったかの理由はまた後ほど。
で、その隣に同じく東宝映画の小さい小さいグッズ・ショップがあった。1301970年の『どですかでん』以来、ソ連で5年ぶりに作った『デルス・ウザーラ』の公開を記念したのか、黒澤明が『天使のように大胆に!悪魔のように細心に!』という本を上梓した。
1975年のことね。
その東宝のグッズ・ショップがこの本を徹底的に宣伝していたのを覚えている。
というのは、この本のタイトルがとても印象的だったから。
「天使のように大胆に!」ってナンでだ?
「悪魔のように細心に!」ってどういう意味だ?…ってな具合。
この本はいつか読みたいと思っている。
でもアマゾンで高いのよ。ブックオフでひたすら待つ!(←今ココ)Akb日劇に入った記憶は残念ながらないんだけど、その地下にあった「丸の内東宝」にはよく行った。
東宝系のB級洋画を上映する映画館でね。
『デアボリカ』とか『ストリート・ファイター』とかブルース・リーの『グリーン・ホーネット』とか…。137その中でひと際印象に残っているのがチャールズ・ブロンソンの『ブレイクアウト』という作品。
「脱獄」の「Breakout」ね。
D_Driveが7弦ギターを使って演奏するのも「Breakout」。
当時、ブロンソンってものスゴイ人気だった。
また、奥さんのジル・アイアランドを出演させては脱がす。
どうしてそんなことをするのか父に尋ねたことがあった。
「キレイなカミさんだから自慢してぇんだろ」だって。136f_2『サブウェイパニック(The Takingf of Pelham One Two Three)』もココで観たな。
ウォルター・マッソーにロバート・ショウにマーチン・バルサムだぜ!
アメリカ映画もいい脚本を書けるヤツがいなくなり、また、こういういい俳優がいなくなってしまって丸っきりダメになってしまった。
原題にある「Pelham One Two Three」というのはニューヨークのレキシントン・アヴェニューの地下を走る「Subway 6」の車輛の名前。
原題は「ペルハム123の分け前」という「地下鉄ジャック」の話。
地下鉄なんて乗っ取ったところで、いつかは地上に上がらなければならないんだから絶対に捕まっちゃうワケじゃない?
ソコがこの話のオモシロいところ。
ところがニューヨークの地下鉄は模倣犯が現れることを恐れて撮影を許可しなかったんだって。
代わりにカナダのトロントの地下鉄でロケをしたそうだ。
ロバート・ショウの最後のシーンね、アレ本当にああなっちゃうのかしらん?
 
コレに関して覚えていることがあって、この映画が封切られる前の1974年か75年の話。
「アナタは眠らないでぶっ続けで24時間映画を観ることができますか?」みたいな映画会社の企画があった。
私は当時まだ子供だったので参加することはできなかったし、そもそも夜に弱いから。
24時間の間に上映される作品は新しいモノではなくて、確か映画ファンなら絶対に観ているような名作ばっかりだったハズ。
そんなだから映画通の参加者たちはどうしたって眠くなる。
その代わり最後まで起きていた人は、ご褒美としてその時はまだ未公開だった『サブウェイパニック』を観ることができる…というさほどありがたくない企画だった。
そういう話題の作品が『サブウェイパニック』だったというワケ。
廃れたとはいえ、まだまだ「映画館で映画を観る」という文化が残っていた時代の話よ。
ちなみに『サブウェイパニック』の音楽を担当したのはデヴィッド・シャイア。

5sp_2コッポラに『ゴッドファーザー』の前年に撮った『カンバセーション…盗聴…(The COncersation)』という作品がある。
この音楽もデヴィッド・シャイアだった。
私は有楽町ではないどこかの名画座で観たんだけど、キッカケはデヴィッド・シャイアがその映画のために作曲したテーマソングだった。
ジーン・ハックマン扮するプロの盗聴屋が、殺人事件に巻き込まれてしまう。
その秘密を知ってしまった盗聴屋は気が付かないウチに今度は自分の素行が盗聴されていることに気づく…この後、何が起こるかは観てのお楽しみ。
コッポラは実にていねいにこの盗聴屋の精神状態を描いていくんだな~。
バツグンにオモシロイよ。
無名時代のハリソン・フォードが悪役でチラリと出て来る。

Cv 
そのプロの盗聴屋が仕事で使うテープレコーダーのリールがユックリ回るようすをデヴィッド・シャイアは変形マイナー・ブルース形式と不気味なピアノのメロディを用いて仕上げてみせた。
この曲をラジオで聴いて大きな衝撃を受け、映画がどうしても観たくなったのだ。
その曲というのがコレ。

日劇の地下には丸の内東宝の他に「日劇文化劇場」という映画館があった。
ココは当時ATG作品を専門にかけていたので、邦画に興味がなかった私には無縁の映画館だった。
ところが中学1年の時にたった1度だけ入ったことがあった。
何を観に行ったのか…?112cそれはザ・ビートルズ。
『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』と『ヘルプ!』と『レット・イット・ビー』の3本立て。
最後に上映した『レット・イット・ビー』の頃には尻の激痛でおおよそ映画どころじゃなかったナ。
ビートルズの映画とは関係なしに、時期的に私はこの頃からロックにノメリ込んで行った。
135f_2<つづく>