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2013年7月23日 (火)

桑名正博さんのこと

2012年10月27日初出

ある年の大みそかの晩、突然携帯電話がなった。原田喧太からだった。

「道がわからないんでちょっと案内してくれない?」

ふたつ返事で指定された浅草のすし屋通りの日本そば屋へ赴いた。2階の座敷には喧ちゃんはもちろんのこと、桑名さん、後藤次利さんたちがそばをたぐっていた。これが桑名さんとのはじめての出会いだった。彼らは浅草ロック座で開かれた「ニュー・イヤー・ロック・フェスティバル」に出演するところだったのだ。

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はじめてお会いする桑名さんは、そのままテレビから出てきたような感じで、「よろしく!」ととても気さくに接してくれた。

それからというもの、喧ちゃんと共演するライブにマーシャル・ブログの取材でよくお邪魔させていただいた。

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私は残念ながらファニー・カンパニーには間に合わなかった世代だが、元来桑名さんの声が好きで、ライブに行けば行くほど、男が聴いてもウットリするようなその美しい歌にハマった。

曲がいいのは当然だが、桑名さんは声だけで聴く者ををトコトン酔わすことができる究極のシンガーだった。

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基本的にマーシャルの人ではなかったが、愛用のB.C. Richで奏でる音数の少ないギターも素晴らしかった。ストン、ストンと選び抜かれた音で構成された味のあるフレーズをアーシーなリズムの中に散りばめて歌い上げていくスタイルが実にいい感じなのだ。

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喧ちゃんの結婚式で披露してくれた1曲も感動的だった。原田家の餅つき大会でもよくご一緒させていただいた。

桑名さんは自分が掲載されているマーシャル・ブログの記事を読んでおいでで、ある時取材でコンサーtお会場に行き、楽屋に挨拶にお邪魔すると私に向かってこう言ってくれた。

「ジブン…エエ写真撮るナァ~。使わせてもろてもええか?」

「桑名正博」が私にそう言ってくれたのである。超一流の著名なカメラマンに撮られ慣れている「桑名正博」がですゾ!うれしかった。コレは本当にうれしかった!

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2011年7月22日、喧ちゃんのお父様、原田芳雄さんの告別式に参列させていただ日、晩にも桑名さんにお会いした。その晩は森さん(森園勝敏)や大二さん(岡井大二)のライブがあって私は告別式の後、原宿のクロコダイルに取材にお邪魔していた。楽屋で森さんとおしゃべりをしていると、桑名さんが楽屋に入って見えて森さんに悲痛の声をもらした。

「告別式の後、ジョー(ジョー山中氏)のところへ行ったんや。芳雄さんやろ(正確には桑名さんが原田さんのことをどう呼んでいらしたかは記憶していない)、ジョーやろ…もうホンマ、こんなんタマランよ!」

それからちょうど1年後、桑名さんが病床に伏してしまった。この不幸なニュースを聴いた時、まっ先に桑名さんがクロコダイルの楽屋で話していらしたことを思い出して軽いめまいを覚えた。でも、必ず桑名さんは復活されると思っていた。

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私は桑名さんの音楽には「ブルース」を感じた。それは関西の人だけが持っている一種独特の感覚で、東京の人には絶対に出せないオーラのようなものが漂っていた。それは「●●ブルース」というタイトルが付いているとかいないとか、曲が3コードでできているとかいないとか、そんな形式的なものではなく、魂が「ブルース」という意味だ。しかも、桑名さんはこの「ブルース」という言葉を平気で「ロック」という言葉に置き換えてしまうことができるアーティストだった。または、ロックがブルースでできているということを証明する音楽の神の使者だったのかもしれない。つまり本物のロック・アーティストだったのである。

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そして桑名さんを失ってしまった今、我々や日本のロック界はとてつもなく大きな音楽的財産を失ってしまったことを悲しみ、そして深刻にとらえてしかるべきであろう。

もうあの歌声をナマで聴くことができないなんて不幸以外の何物でもない。もっともっと聴いておくべきだった。

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桑名さん、素晴らしい音楽を本当にありがとうございました。安らかにお眠りください。

桑名さんと少しでもお近づきになれたことを誇りに思います。

そして、そんなスゴイ機会を作ってくれた原田喧太さんに心から御礼申し上げ、桑名さん一家の一員としてますますのご活躍をお祈り申し上げます。
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(一部敬称略)