2024年1月11日 (木)

草津よいとこ…その後マイった!<その2>~衝撃!日本のアウシュビッツ

   
さて、ベルツ先生に別れを告げていよいよ「日本三名泉」のひとつとされる草津温泉へ。
家内は初めて、私は10歳ぐらいの時に父に連れられてスキーに来た時以来だから50年ぶりだわ。
370 草津といえばこの「湯畑(ゆばたけ)」。
硫黄のニオイがプンプン!
20_2それにしても50年前にこの光景を目にした記憶が全くないのはナゼだろう?
せっかちな父のこと、きっと温泉街には近寄りもせず町はずれの「サンバレー」というホテルに一泊してスキーを存分に楽しんだ後、サッサと私を連れて東京へ帰ってしまったのであろう。
10_2他にナニもすることがないので湯畑の周りをグルリと歩いてみる。
地面がなかなかイカしていてね、モルタルに瓦を埋め込んで模様を施してある。
60_2コレらの瓦は取り壊された古い旅館に使われていたモノなのか?
だとすればとてもステキなことだ。
50_3「♪草津よいとこ一度はおいで お湯の中にも 花が咲くよ」
「♪お医者様でも草津の湯でも~ ホレた病は治りゃせぬよ」
通路には「草津節」の歌詞が彫り込まれている。
ああ、草津の湯でも治らない「恋の病」をしてみたい…ウソ。
「老いらくの恋」なんてメンドくせえわ。
40_2草津温泉って湯の自然湧出量が日本一なんだってね。
1日にドラム缶約23万本分もの温泉が湧き出しているおかげで盛大に「源泉かけ流し」ができるんだって。
で、この「湯畑のシンボル」とでも呼べそうな7本の樋はナンのためのものか…。0r4a0045まずは、50度以上の源泉を空気に触れさせて温度を下げるため。
水で薄めると温泉の成分が薄まってしまうので、ココで冷やしてから各施設へお湯が送られて行くんだって。
「ぬめり」の反対だ。
70_2源泉は樋を通って、最後は「湯滝」から流れ落ち各浴場へと供給される。
80_3湯樋のもうひとつの役割は「湯の花」を採取することなのだそうだ。
樋に沈殿した湯の花を年に4回採取してお土産物店や一部の旅館で販売している。
子供の頃、湯治場として有名な新潟の「燕温泉」に毎年スキーをしに行っていた。
定宿だった「花文」という旅館の風呂のお湯がゴミだらけで子供ながらにすごくイヤだったのね。
もちろんそれは「ゴミ」などではなく、名湯が誇る「湯の花」だったワケ。
「湯の花」と聞くといつもあの旅館のことを思い出す。
30_3下の写真の右下に移っている木の枠があるでしょ?
八代将軍吉宗や十代将軍家治はこの枠の中のお湯を樽詰めにして江戸城へ運ばせたんだってよ。
この湯枠は八代将軍吉宗が汲み上げた際のオリジナルだそう。
それほどのお湯だけに、古来色んな人が草津を訪れている。0r4a0011_2周囲に設置された石柱にはそうして草津を訪れた著名人の名前がズラリと彫り込まれている。
コレは各宿の宿帳をヒックリ返して調べたのかしらん?
例えば、武満徹は1985年、東山魁夷は1988年に訪れている…らしい。90_2菊池寛は1933年、石川達三は1935年、そして林芙美子は1937年に来たんだって。0000r4a0015 今井正は1954年。
『ひめゆりの塔』や『にごりえ』を撮った翌年。
下は3年前にその『ひめゆりの塔』を観に行った時に舞台あいさつでご登壇された主演の香川京子さんの著書に頂いたサイン。
私は香川さんのファンなのでとてもうれしかった。
大事な宝物のひとつ。
香川さんは今井正、小津安二郎、黒澤明、溝口健二、成瀬巳喜男といった世界に名だたる日本の映画監督とお仕事をされた大女優のひとりなのです。
10_hy 一方、木下恵介と田中絹代は1945年。
この前の年に2人は『陸軍』というプロパガンダ映画で一緒に仕事をしている。
それの打ち上げかな?…と思いたくもなるが、1945年といえば敗戦の年だからね~。
そんなことができる余裕はなかったであろう。00000r4a0021 この『陸軍』という映画はとてもいいですよ。
赤紙が来たらお国のためにスムーズに応召してくださいよ…という戦意高揚のための映画なんだけど、木下さんはクライマックスのシーンで息子を戦地に送り出す母親役の絹代さんの姿をジ~ックリ撮って結果的に反戦映画に仕立て上げてしまった。
「日本映画史上最高の女優」と言われているだけあって、絹代さんの完璧以上の演技に心を打たれない者はいないであろう。Rg先日、新藤さんが絹代さんの伝記を書いていることを知り即刻アマゾンにオーダーして一気に読んだ。
やっぱりスゴイ人の人生はスゴイね。
絹代さんは1909年の生まれ…明治42年。
生誕地の下関には「田中絹代ぶんか館」という施設があるので、いつか下関を訪れてみたいと思っている。
ところで、私が子供の頃は「明治生まれの人」って珍しくも何ともなかったんだよね。
明治の末年に生まれた人は、私が生まれた時にはまだ52歳だったんだから当然だ。
そもそも祖父や祖母が普通に「明治の人」だったし…。
今年は昭和の元年に生まれた人が99歳だからね。
結果…自分の古さにビックリしてしまう。
来年は昭和100年か!
Tk石柱の人物もグッと古くなって…
良寛和尚は1627年。
シーボルトの高弟だった高野長英は1830年だそうだ。
ホンマかいな。00000r4a0058高野長英は何度もMarshall Blogにご登場頂いているが、長崎の「鳴滝塾」でシーボルトの薫陶を受けた岩手の水沢出身の天才蘭方医。
下はその鳴滝塾があったところ。
コレが見たくて長崎までワザワザ行って来た。
ご覧の通りナニもないに等しかった。0r4a0534 長英は『夢物語』という開国政策を支持する本を書き、水野忠邦の幕政下、鳥居耀蔵という強力な攘夷論者の幕臣が実行した「蛮社の獄」という粛清により小伝馬町の牢屋敷に入れられた。
医学の知識と道徳的な行動により牢名主にまでなったが、悪列な環境と鳥居の監視の下では命がもたないと考え、火事の「切り放し」を画策して脱獄。
「切り放し」というのは、火災により止む無く一時的に囚人を開放し、「3日の後に規定の場所に戻ってくれば減刑、戻ってこなければ問答無用で死罪」という非常時の囚人の救難策だった。
長英は牢に出入りする者に頼んで外部から火をつけさせ、切り放された後そのまま逃避行に入った。
幕府の追跡は厳しく、長英はまずは向島の小梅町(スカイツリーの近く)にしばらく潜伏した後、直江津、愛媛、広島、名古屋等、その6年にわたって逃避行を続けた。
その道程を綴ったのが吉村昭先生の『長英逃亡』。
へへへ、今またコレを読み返してるんだ。
「吉村先生の旅」…長崎の次は宇和島へ行ってみようかと思って。
で、長英がその逃避行のはじめの頃に訪れたのが草津の沢渡(さわたり)という所だった。
前回のシゲブログではベルツ先生を取り上げたけど、草津はそのはるか昔から湯治でその名が知られていたことより近隣に医者がたくさん住んでいた。
その中に長英の同僚や教え子がいて、それらを頼って草津に逃げたワケ。
だから高野長英の場合、石柱に名前が彫られていても他の人とは事情が異なり、ノンビリ温泉に浸かりに来たワケでは決してなく、幕府の捕吏の接近にビクビクしながら身を隠すためだった。Ct下は大正末期から昭和初期の草津温泉の絵はがき。
マジでこんなにいっぺんに大勢の人が湯船に浸かっていたのかな?
コレはイヤだな~。「イモ洗い」もいいとこだ。
まるで昔の後楽園プールだわ。
それとも絵はがき用に仕込んだのかな?Jkyコレは「時間湯」とかいう江戸期に始った入浴法で、「湯もみ」→「かけ湯」→「入湯」のストロークを3分で行い、それを日に4度繰り返すというもの。
現在は実施していないそうだ。
で、「湯もみ」とくれば「湯もみショウ」。
下の写真の中ほどの施設で日に何度か催されているがウチはパス。0r4a0007町を散策。130_3射的屋が目についた。
ま、「温泉」といえば「射的」と相場がキマっているけど、湯河原なんかには全くないよ。140_2このイボイボは天ぷら屋だって。
モダンだネェ。145セブンイレブンも…150ローソンも茶色基調。155近くの「白根神社」を参詣する。0r4a0050草津と言えば「白根山」。
その名の通り活火山の「白根山」を祀った神社。
かつては白根山のテッペンにあったが、明治6年に現在に場所に奉遷したそうだ。
階段が結構キツかった。160_3もうひとつ。
コチラは「光泉寺」という名刹。0r4a0060湯畑を見下ろすロケーションが素晴らしい。0r4a0063階段を上って本堂に至る。180_3コレだけですごく疲れてしまった。
190v香川の金毘羅様だってヘッチャラだったのに、こんなに疲れるのはどうもおかしいナァ。
この後、マズイうどんを食べて、宿にもどって早速お風呂。
170_3「ライトアップされた湯畑が美しい」というので夕食後に出かけてみた。200_2なるほど、昼間とは全く異なる風情で…210とても幻想的だ。220_2温泉はコレで終わり。
さすがベルツ先生おススメの「日本の三大名泉」のひとつだけあって、とてもいいお湯でございました。
チョット心配なのは家内の体調。
夕食も残しがちで、朝食はほとんど口にしなかった。
かくいう私も、温泉に来れば5回は入るようにしているのだが、そんな元気はなく今回は3回しか入らなかった。230_2翌日…。
前の日に町をブラブラして時間ツブシに寄ったこの草津町図書館で発見したある設備が気になって寄ってみることにした。K2tそれはコレ。
「重監房資料館」という国が運営している設備。Jkp町の中心から車で15分ぐらい行くと、公団住宅のような同じ住居が立ち並んでいるエリアに出くわす。
410その奥に「重監房資料館」があった。240_3それがコレ。
まだ新しい施設のようだ。250_2コレはナニかというと、かつてこの近所にあった「重監房」というハンセン病患者を監視するための施設を再現している設備。
昔、草津にはそうした隔離施設がある、と父が話していたことを思い出した。
ところが「重監房」というのはそのような通常の隔離施設ではなく、「日本のアウシュビッツ」の異名を取った非人道的な懲罰施設だったのだ。260_2コレが資料館で展示されている「重監房」のレプリカ。2jk2この施設には施設の対応に反抗的な隔離患者が強制的に収容された。
「戒めのための施設」ということになるが、収監者は不幸な病人であり、決して囚人じゃありませんからね。
何しろスキー場があるような自然環境だからして、厳冬期には気温がマイナス15度になるにもかかわらず暖房設備は一切なかった。
部屋には明かりを取るためのごく小さな窓があるだけ。
食事はサツマイモや大根を混ぜて炊いた米に梅干し1ケという粗末なモノで、そのような過酷な待遇が93人の収容者のウチ、22人に衰弱死か凍死をもたらした。
そうした非人道的な待遇からは「特別病室」とは名ばかりの「日本のアウシュビッツ」という異名を取らせているのだそうだ。2_9そこで、実際の「重監房」があった場所を公開しているというので訪ねてみた。
それは現在も稼働している「栗生楽泉園」という「日本ロマンティック街道」に面した施設の入り口からすぐのところにあった。
さっきの「公団住宅のような」と書いた施設はこの療養所の一部だったのだ。
265これがその入り口。280向かって右の門柱には「国立療養所」…300v反対側には「栗生楽泉園」とある。290v_2中に入ってみる。310_2昭和57年(1982年)に取り壊されたかつて門の側にあった門衛所の跡。
320_3そのすぐ近くの石仏。
恐る恐る見て歩いているものだから少々怖い。310v_2案内板に従って門から入ったところをすぐに右に曲がり坂を上って行く。330あたりは熊笹が生い茂っている。
重監房は今入って来た入り口のあたりからは全く見えず、その存在を知らない療養所の職員もいたらしい。335その小道をしばらく行くと「重監房跡」のモニュメントが現れる。340_2施設の見取り図。
「医務室」や「宿直室」の表示が見られるが、使われた形跡はなく、「病棟」を見せかける名前だけのモノだったそうだ。350_2重監房は昭和13年12月の竣工。
ココに8部屋分の施設があった。
「施設」というのは上で説明した監房だ。360_2この設備は厚生大臣の命により昭和22年10月に廃止された。
廃止決定後、証拠隠滅を目的に速やかに設備は取り壊されたのだそうだ。380_2楽泉園のすぐ近くにある「草津カトリック教会」。
映画『ベン・ハー』を思い出す。390現在は40名のハンセン病患者が楽泉園で療養されている。420<最終回>につづく