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2022年6月23日 (木)

I Remember The Town~私の銀座/日比谷/有楽町<その1>

 
タイトルの「I Remember The Town」とはD_Driveの新しい曲のタイトルのこと。
今となってはスッカリ変わってしまった昔慣れ親しんだ町にSeijiさんが郷愁を募らせて作った曲だ。
そこに人が暮らしている以上、「町」は変貌を避けることができない。
その曲を聴いていて、「しからば私が郷愁を寄せる町はどこか…」などと考えてみた。
東京で生まれて東京で育った私が郷愁を寄せる町といえば、必然的に「東京」ということになる。
それも「映画」か「音楽」に因んだ場所になることは必定なのだが、ココは「映画」だろうナァ。
「映画の町」こそが私が郷愁を募らせる場所。
 
私は映画狂の父の影響を受けて10歳になる前から海外の映画に慣れ親しんだ。
と言っても、まだ小学生の時分には1人で自由に映画館へ行くことは許されなかった。
それでも、小学校6年生の時にタマタマ応募した試写会の抽選が当たって、親に許しを乞うて行かせてもらったことがあった。
会場は内幸町の飯野海運ビルの中の「イイノホール」。
昔のイイノホールね。
今にして思うに、後年舞鶴の飯野海運の直系子会社と仕事をしたのはこの時のことが縁だったのか?
ココは当時よく映画の試写会で使われていたホールで、この後何度足を運んだかわからない。
よくトイレで福田一郎さんにお会いした。
とにかく、よくも小学校6年生の子供を夜にひとりで出かけさせてくれたと思うわ。
その試写会の映画とはトニー・カーティス主演の『暗黒街の顔役(Lepke)』だった。
「Lepke(レプケ)」というのは、1930年代、ニューヨークで「Murder Inc(殺人株式会社)」という組織を率いて、アメリカの大物ギャングで最初で最後に死刑になったルイス・バカルターという物騒なヤツのニックネーム。
「試写会」がどういうモノか全く知らなかったのでドキドキしながら観たが、コレのおかげでメナヘム・ゴーランという監督やアンジャネット・カマ―という女優の名前を覚えた。
先日『刑事コロンボ』を観ていたらアンジャネット・カマ―が出て来て、この試写会のことを即座に思い出してしまった。
一方、トニー・カーティスは『お熱いのがお好き』や『グレート・レース』、『空中ぶらんこ』なんかでこの時にはもうすでに知っていた。
だから映画に関しては、仕込みが早かった方だと思う。

Lpk_2 中学生になって電車で通学するようになると、堰を切ったように映画館に足を運ぶようになった。
行き先は有楽町、あるいは日比谷、あるいは銀座。
当時はまだ土曜日に学校があったので、日曜日が来るたびにそれらの町に出かけ、1日に2軒ハシゴをすることも珍しくなかった。
全部ロードショウ。
名画座に行くことはほとんどなかった…おぼっちゃんだったから。
…というのはウソで、お小遣いを全て映画に費やしたのだ。
中学の2年生ともなるとロックに夢中になり、日比谷や銀座へ行く目的が映画から中古レコードに替わって行った。
「ハンター」と「Lo-Dプラザ」である。
だから考えてみると、そう長いこと映画を観るためだけに日比谷や有楽町に通っていたワケではないのだが、何度も入った映画館が片っ端から姿を消すか、移転するかして町の様子がスッカリ変わってしまったことについてはとても寂しい思いがするのだ。
そんな映画と映画館の思い出を綴って私の「I Remember The Town」をいくつか編んでみたいと思う。
何しろもう40年も前のことなので、記憶違いの記述も多くなるかも知れないが、インターネットの協力を得てできるだけ事実に忠実に書いたつもり。
また、どう調べても情報が得られなかったことは極力「当たらずとも遠からず」となるよう努めた。
 
まずはJR有楽町の駅。
私が映画を観に通っていた頃は当然「国鉄」の時代。
写真の左、線路沿いに行くと、そこにはまだ東京都庁舎があって、今のビックカメラはデパートの「そごう」だった。
ところで、有楽町の駅って駅舎がないんだよね。
御徒町や神田なんかもそうだわ…新橋もかな?
ガード下の空間が駅舎を兼ねている。10この出口の向かいビルの2階にあったのが「スバル座」。
このディスプレイ、昔からあって、スバル座で上映している映画のポスターが貼られていた。
15vキャパは150席ぐらいだったろうか?
B級映画の封切り館だった。
12g_21974、75年ごろ、フジテレビ(だったように記憶している)が夜中に『洋画の窓』という5分枠の番組を放映していた。
何のことはない…1分ほどの洋画の予告編を2本流すだけの番組。
ビデオすらない時代だから、動いている映画に接することができる機会はテレビしかなかった。
だからそんな予告編だけでも映画に接することができるのがうれしくて、テレビの前にラジカセを置いて音だけ録って、何度も聴き返してはまだ観ぬ作品に思いを馳せていた頃があった。
そんなある日、『洋画の窓』で紹介されたのがブライアン・デ・パルマの『ファントム・オブ・パラダイス(Phantom of the Paradise)』だった。
デ・パルマはまだ全く無名だったし、『オペラ座の怪人』もポール・ウィリアムスもゼンゼン知らなかったが、主人公が被った不気味な銀色の仮面と電気的な声に大きな魅力を感じ、公開されてすぐ観に行った。
その封切館がスバル座だった。
も~、ものスゴク面白かったね~。
大好きな映画だった。
近田春夫さんの「JUICY FRUITS」や「BEEF」というバンド名がこの映画から引用されていたことに気が付いたのは大分後になってからのことだった。17fB級映画の小さな封切館ということからか、敷居が低くとても入りやすい映画館だったナ。
何度も入ったけど、他に何を観たかはもう思い出すことができない。
 
2020年からよしもと系の劇場になったそうだ。
ということは、かなり最近まで「スバル座」だったのね?
知らなかった。16有楽町駅のガードをくぐる。
目の前に丸井がドーン!
もうこの右側のあたりは私が知っている有楽町の原形を全くとどめていない。
30変わらないのはこの東京交通会館。
今では10年に1回、パスポートを更新する時以外に来ることはないのだが、高校生の頃は頻繁に訪れていた。20それはもちろんパスポートの更新のためではない。
話は飛ぶが、昔は新聞の三面記事の下の方に出ているいわゆる「三行広告」で外タレの来日の情報を得たものだった。
「外タレ」なんて言葉ももう死語だな。
「ひろし もう大丈夫だから帰って来い たかし」とか、「新聞配達員急募!」とか、そういう極めてプライベートな広告の隣に平気で「エアロスミス待望の初来日決定!」とか載っちゃう。
ロックバンドだけじゃない。
カラヤンの来日公演の情報だってそういうところに出ていた。
下みたいなヤツね。
「僧侶(真言宗)」募集ってのもスゴイね…「有資格者に限る」か。
まぁ、そりゃそうだろうナァ。寅さんじゃあるまいし。
毎日必ず朝刊に載るこういう欄をチェックして「お!リック・ダンコが来るゾ!」とか言って、チケットの発売日の朝にプレイガイドに並ぶワケ。
ああいうのひとつぐらいスクラップしておけばヨカッタな~。
3cad_3
高校の頃、東京交通会館に頻繁に来ていた理由は下の写真。
今はジュース屋になっているが、1階の入り口のすぐ横のこの場所に小さなプレイガイドがあった。
上の三行広告で情報を仕入れては、よく南青山のウドー音楽事務所の前にできる列に並んでいたんだけど、何かの拍子にココのプレイガイドを見つけて、ある時試しにチケット発売日の朝に来てみた。
場所は有楽町の駅前の好立地だからね、ウドーさんの事務所の時みたいにかなりの行列を覚悟したんだけど、誰ひとり並んでいなかった。、
何のコンサートだったかは忘れたけど、前から数列目の良い席を取ることができた。
もうそれからは必ずココ。
この店には興行主から割り当てられることがないのか、真ん中の最前列とか2列目なんて席を取ることはできなかったが、少しハジであれば2列目ぐらいの席を簡単に取ることができた。
サンプラザのUFOとか渋谷公会堂のNazareth、後楽園ホールのロイ・ブキャナンとかフランク・マリノなんてのは本当に前から2列目だった。
Wishbone Ashの時は友達と5、6人で行くことになっていたので、まとまった席が必要だった。
それでも全く並ぶことなく前から7列目の真ん中の席を取ることができた。
とにかく肉眼でステージの上の外タレの顔をハッキリ見れることが滅法うれしかったワケ。
Aerosmithが初めて日本に来た時に武道館の2階席から見たスティーブン・タイラーなんてスイカの種より小さかったからね。25東京交通会館の向かいにあった老舗喫茶店「レバンテ」。
ココに入り浸っていた…とかいうのではなく、この喫茶店は松本清張の『点と線』に出て来ることで知られていた。
もう写真の場所には存在しないけれど、どこかへ移転して同じ名前で営業しているんじゃなかったかな?35駅前の通り。
ココもゼンゼン変わってしまった。
今のマツキヨがある場所には「ジャーマン・ベーカリー」という洋菓子屋兼喫茶店があった。
自分ひとりで入ったことは一度もなくて、中学生ぐらいの頃、彼女が出来たら「ジャーマン・ベーカリーでお茶をする」のが夢だった。
結局今の家内と1回だけ入ったきりだったナ。
もう40年以上前の話よ。40その向かい…キノコの人形が置いてあるチョット先に「有楽シネマ」という小さな映画館があった。
2本立て専門のいわゆる「二番館」。
45『ミッドナイト・エクスプレス』をココで観た。
併映はナンだったか全く覚えていない。
それ以外にもホンの数回利用したんだけど何を観たのかは、やっぱり覚えていない。
後年…といっても大分前のことだが、海外のマネをして、参加型の『ロッキー・ホラー・ショウ』をココで上映していた。
スクリーンに向かって米とかを投げたりするヤツね。
私は興味なかったナ。55fその駅前の通りをマリオンの方に進んで左に曲がる。60ココもマツキヨか…。
昔は小さな木造(だったと思う)の店舗が並んでいて、角から3軒目ぐらいのところに山田うどんが経営する「カントリー・ラーメン」という立ち食いラーメン屋があった。
1975年の頃で140円ぐらいだったかナァ。もっと安かったかも知れない。
映画にお小遣いを使い果たしてしまうモノだから、何かを食べるとなると大抵ココだった。
ラーメンか…。
私が小学校低学年の頃はまだラーメンが100円以下だったのを覚えている。
立ち食いそばは50円だった。
かつてラーメンといえば、「給料日前だからラーメンしか食べるものがない」という類の食べ物だった。
父が職人だったので、私は家庭内におけるこの「給料日前」という意味や感覚がわからなかった。
同時にラーメンというのはそんなに位の低い食べ物なのか…という印象を持った。
それが今ではミシュランだからネェ。
私にはそんな刷り込みがあるモノだから、今でもチョット値段が張るラーメンを食べることに大きな抵抗感があるし、実際に食べることもない。
だいたい最近はスープがドロドロしているラーメンが多すぎるんじゃ!
なつかしいな、カントリー・ラーメン。70_2この通りの突き当り。
80外堀通りを渡ったところに東映系の封切り館があった…というか、ココが東映の本社。
映画館の名前は「丸の内東映」だったかな?
地下は「丸の内東映パラス」といった。
ちなみに今の東映の社長って「手塚治」さんとおっしゃるそうだ。
106v路面館である丸の内東映は邦画の封切り館だったので、子供の頃に入ったことは一度もなかったが、大学生の時に家内のリクエストで吉永小百合の『天国の駅』というのを観に入った。
後にも先にもコレ1回っきり。
え?コレは「日本で戦後初めて死刑を執行された女囚の物語」だって?
調べてみるに「ホテル日本閣殺人事件の『林葉かよ』」…ウーム、コリャなかなかスゴイ話だな。
ナニも覚えてないわ。
家内はよほど感動したらしく、ずいぶん涙を流していたナァ。
今回、この映画のモチーフがその殺人事件だったらしい、ということを説明するとかなり驚いてこう言った…「ナニも覚えてないワ」
ま、そんなもんです。
107f私の古いチラシのコレクションから。
『第2回 日本映画名作祭』…丸の内東映ではかつてこんなイベントをやっていた。
私は98%ぐらいの洋画派で、若い頃は黒澤明の作品以外の邦画を観ることはほとんどなかった。
ところが、洋画もハリウッド映画が凋落の一途をたどって久しく、幼稚なヒーローものやディズニーのお子様向けアニメのようなモノばっかりになってしまった昨今、日本映画に活路を見出している。
といっても、たとえ「ナントカ賞」を獲得した作品にしても最近のモノは絶対に観ませんよ。
1950~60年代初期の古い日本映画が破天荒にオモシロいのだ。
このイベントが開催されたのは1976年の2月だというから私は中学1年生。
当然、当時はこんな渋い邦画を観るワケなどなくて、何でもいいからとにかく映画のチラシを集めていた。
今なら全部観てもいいわ。

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一方、その地下の丸の内東映パラス。
ココは一度も入ったことがなかったナァ。
東映が配給するBC級洋画の封切り館という感じだった。
何しろこんなばっかだもん。
コレも私のチラシ・コレクションから。
B級といっても『悪魔のはらわた(Flesh for Frankenstin)』なんかは制作がカルロ・ポンティで、美術がアンディ・ウォーホルということで公開時には話題になっていたな。
0r4a0056コレは上のチラシの裏面。
ね、「丸の内東映パラス」でしょ?
この3つのウチだと『悪魔のいけにえ』だけテレビで観たな。
結構オモシロかった。
この『悪魔のいけにえ』の原題は『The Texas Chainsaw Massacre』という。
0r4a0058_2そう、コレは後年、オリジナルと同じタイトルでリメイクされた。
このリメイク版はヨカッタね。
脚本がシッカリしていて、カメラもウマかった。
と、思ったらこの映画、批評家の間ではクソミソだったとか…ほっとけ!
悲惨な目に遭う若者たちって、レーナ―ド・スキナードのコンサートに行く途中という設定になっているんだよね。Tcsmさっきのマツキヨの前まで戻って来る。
右手には有楽町マリオン。
向こう側のハジッコに「丸の内ピカデリー」があって、その地下には「丸の内松竹」があった。
最初、「ピカデリー」ってナンダ?と思ったな。
85コレがホンモノのロンドンの「ピカデリー(Piccadilly)」。
発音は「キャ⤵ディリ⤵」。
最初コレを耳にした時あまりにも変な発音で思わず笑ってしまった。
ロンドン最大の繁華街、ウエスト・エンドの中心地。81上の写真の向かいがこのロンドンのシンボル的光景。
私が初めてココへ来た時はこの電飾の広告がSANYOやTDKだったんだけどね…。0r4a0698 ココには「シャフツベリー通り(Shuftesbury Avenue)」という劇場街がある。
昔の「浅草六区」みたいなもんですな。
きっと世界のショウビジネスの中心であるこのエリアにあやかって「丸の内ピカデリー」なんて名前にしたのだろう…と今になって思っている。
ところで、ロンドンで道路の名前に「アベニュー」が用いられているのは珍しい。
たいていは「Street」か「Road」だから。
Img_0045コレが在りし日の「丸の内ピカデリー」と「丸の内松竹」。
「ピカデリー」の方は天下の松竹の洋画封切り館の代表とだけあって、 いつも大作がかかっていた。
何回入ったことか…。

88また私のチラシ・コレクションから…『エクソシスト(The Exorcist)』。
スゴいデザインだと思わない?
作品のタイトルよりも封切り日の情報の方が大きい。
日本での公開は1974年の7月13日だった。
残念ながらこの日は土曜日で、金曜日ではなかったんだね~。
ロードショウ映画の公開は土曜日にスタートするのが普通だったから。
松竹の宣伝部の人たちも悔しかったことだろう。
それともうひとつスゴいのは、建物内の2つの映画館で同じ作品を上映したんですわ。
それだけの動員を見込むことができたワケ。
1974年というと昭和49年…ビデオが普及するのはまだ4~5年先のことで、まだまだみんな映画館へ足を運んでいた時代。
この時、私はまだ小学校6年生だったのでココに観に来ることはなかったが、スポーツ新聞に「失神者続出!」なんて記事が載っているのを見て「そんなにコエェ映画なのか!」とビビったのを覚えている。
イヤ、その頃は「ビビる」なんて言葉はまだなかったかも知れない。0r4a0062結局、中学に入ってから後追いで観た。
悪魔が憑りついてリーガンがおかしくなっちゃうシーンは迫力があって圧倒されたけど、映画としてはそれほどオモシロいとは思わなかったナァ。
失神するどころか、よくわからなかった。
すごく印象的だったのはリーガンが「コックリさん」をやるシーン。
『エクソシスト』より先に『うしろの百太郎』で「コックリさん」が取り上げられて学校で流行ったからあのシーンにはゾクっと来たね。
海外ではアレを「ウイジャ・ボード(Ouija board)」というらしい。
「ouija」とはフランス語とドイツ語で「はい」を意味する「oui(ウイ)」と「ja(ヤー)」をくっつけた造語だそうだ。
ちなみにこの映画で一気に有名になった「exorcist(エクソシスト)」という単語の動詞は「exorcise(エクソサイズ)」で、「悪魔祓い」という意味だけではなくて一般的に「お祓いをする」という意味合いでも使うことができるようなので今度何かの折に使ってみよう。
しかし、「exorcise」と「exercise」…ひと文字でエライ違いだな。Ob_3 

『ジョーズ』を丸の内ピカデリーで観たのは中学1年生の時だった。
その時、私はもうリチャード・ドレイファスは『アメリカン・グラフィティ』で、ロバート・ショウは『ロシアより愛をこめて』で、ロイ・シャイダーは『フレンチ・コネクション』でそれらの名前を知っていた。
こんなヤツ、間違いなくクラスで私だけだった。
とにかくオモシロかったよネェ。
はじめ「ジョーズ」って「サメ」の一種かと思っていた。
後にそれが「アゴ」を意味すると知って結構驚いた。

83f_3 私は子供の頃からミュージカルがとてもスキだったので『ザッツエンタテインメント』には興味津々だった。
古今のミュージカル映画の名シーンをダイジェストにしたこの作品を指して、映画の師匠であった父は「あんな宣伝みたいな映画は観る必要がない」と言っていたのを思い出す。
そりゃ、自分は全部丸々観てるんだからいいよ。
ビデオがない時代、こちとら『雨に唄えば』すら自由に観ることができなかったんだから!
ということで、やはり丸の内ピカデリーに観に来た。
今では「エンタメ」なんて平気で言っているけど、この頃は日本ではまだ「エンタテインメント」なんて単語は未知のモノだった。
「70mm」か…そうだね、丸の内ピカデリーは70mmをかけることができる映画館だった。
もう「70mm」だとか「シネラマ」なんて言葉も死んだね。84f中学2年の時にキューブリックの『バリー・リンドン』を観たのも丸の内ピカデリーだった。
生まれてはじめてのキューブリックだった。
私は映画はたいていひとりで観に行っていたが、コレは仲良しの安藤くんと行ったように記憶している。
まぁ「キューブリック」ったって子供にはわかりにくいわねェ。
『2001年』なんかいまだにチンプンカンプンだもん。
それでも見せちゃうのがキューブリックのスゴイところ。
長いでしょ、『バリー・リンドン』…3時間5分だもん。
それでも比較的退屈しないで観ることができたナ。
今ではキューブリックの作品中、1、2を争うお気に入りの作品。
争っている相手は『博士の異常な愛情』かな?86f音楽もすごく印象に残ったんだよね。
とりわけシューベルトの「ドイツ舞曲第1番」という曲が気に入って、お茶の水の駅の横にあった小さなレコード店へミュージック・テープを買いに行った。
レコード・プレイヤーを持っていなかったのでカセット・テープよ。
「こんなのキミが聴くの?」と店のオジさんが驚いていた。
中身はバロックだからね。
 
この時から43年。
ロンドンで観た『スタンリー・キューブリック展』は本当にオモシロかった!
『バリー・リンドン』について書いた記事はコチラ
    ↓     ↓     ↓
イギリス紀行2019 その20 ~ スタンリー・キューブリック展 <vol.9>
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1975年当時は「パニック映画」ブームだった。
と、簡単に言うけど、当時「パニック」という言葉も一般的には知られていなかった。
この「panic」という単語はそのブームのおかげで「事故」とか「惨事」みたいな意味だと思われているようなフシが今でもなきにしもあらずだけど、本来は名詞なら「恐慌」とか「大慌て」という意味だし、動詞なら「うろらえる」とか「あわてふためく」とかいう意味。
何やら失敗をしてしまって「さぁ、どうしよう!」と慌てていると「Don't panic!」と言われる。
 
とにかく「パニック映画」はキャストが豪華な大作が多かった。
今にして思うとハリウッド映画の最後の悪あがきだったのかも知れない。
丸の内ピカデリーで観たこの『エアポート'75』もしかり。
チャールトン・ヘストンにジョージ・ケネディ、ナゼかグロリア・スワンソンも出ていて、『エクソシスト』で大スターになったリンダ・ブレアも出演していた。
ともすれば個性が強すぎるルックスのカレン・ブラックが主役のスチュワーデスを演じていたのはどういうワケだったのか?
後でまたカレン・ブラックは出て来るけど、私はキライではないのだが、もう少し見目麗しき方に主演をお願するべきではなかったか?
結果…コレはオモシロくなかったナァ。
そのことだけ覚えている。87fh_4こんなのも丸の内ピカデリーで観たわ。
イヤ、正確に言うと「観ていない」。
子供にはサッパリわからなくて、映画館の中に入ったものの比較的すぐに出て来ちゃった。
チラシをタンマリもらったので後悔はしなかったような気がする。5reni最後に丸の内ピカデリーに入ったのは家内とのデートで観た『E.T.』だった。
1982年か…我々が大学2年生の時だわ。
丸の内ピカデリーは1984年にマリオン内の本館内に移り、我が青春の「丸の内ピカデリー」は消滅した。
ちなみに『E.T.』は旧丸の内ピカデリーでの動員数トップを記録したそうだ。
そのウチの2人が私と家内というワケ。Et さて、丸の内ピカデリーの地下にあったのが丸の内松竹。
ココは何度かB級作品を観に行ったことがあったが、それらがナンだったのかはどうしても思い出せない。
ひとつだけ覚えているのが下のダブル・フィーチュア(2本立て)。
ナゼか組み合わせが『ロッキー』と『幸福の黄色いハンカチ』だったんだよね。
コレはロードショー公開ではなくて、大ヒット作のリバイバル上映。
松竹が「ヒット作自慢」でもしたかったのであろうか?
人気作の組み合わせだけに場内は超満員で立錐の余地が全くなかった。
『ロッキー』はナンの仕掛けもなくて飽きたナァ。
2本観てひとつ覚えて帰ったのは『ハンカチ』で健さんが武田鉄矢に向かって言うセリフ…
「オマエみたいのをナァ…『草野球のキャッチャー』いうんじゃ…………ミットもない」
健さん、精一杯のギャグ…お上手!

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ではそのマリオン…と行きたいところだけど、できたばかりぐらいの時に『ゴーストバスターズ』かなんかを1回観に行っただけなのでナンの思いもありません。
でも、ココが日劇だった時代の思い出はたくさんある。

120 日劇の前、晴海通りと外堀通りの交差点にある宝くじ売り場は、「よく当たる」ということで今でも年末にもなると、はかない夢を見る一般大衆で長蛇の列ができる。
昔はその横に停めた街宣車の上で白髪のコワい顔をした老人がツバを飛ばしていつもガナっていたものだった。
赤尾敏である。
私はまだ子供だったので、その熱弁に耳を傾けたことが一度もなかったが、今でもこの景色はあの演説と「組み」になっているような感じがする。100そういえばこの角の不二家って昔はこんなだった。
懐かしいな~。Fjy 在りし日の日本劇場。
コレもヤケクソに懐かしい!
写真の向かって右に写っているのは朝日新聞の本社。
ココには印刷所があって、いつもインクのニオイがプンプンしていた。
向かって左はさっき出て来た「そごう」。110 このマリオンの建物の分かれ目の辺りだったかナァ?
日劇と朝日新聞の間に道路が走っていた。
日劇の横には「東宝カレー」という東宝が経営するカレーショップがあって、タマ~に食べることがあった。
ナゼ「タマ~に」だったかの理由はまた後ほど。
で、その隣に同じく東宝映画の小さい小さいグッズ・ショップがあった。1301970年の『どですかでん』以来、ソ連で5年ぶりに作った『デルス・ウザーラ』の公開を記念したのか、黒澤明が『天使のように大胆に!悪魔のように細心に!』という本を上梓した。
1975年のことね。
その東宝のグッズ・ショップがこの本を徹底的に宣伝していたのを覚えている。
というのは、この本のタイトルがとても印象的だったから。
「天使のように大胆に!」ってナンでだ?
「悪魔のように細心に!」ってどういう意味だ?…ってな具合。
この本はいつか読みたいと思っている。
でもアマゾンで高いのよ。ブックオフでひたすら待つ!(←今ココ)Akb日劇に入った記憶は残念ながらないんだけど、その地下にあった「丸の内東宝」にはよく行った。
東宝系のB級洋画を上映する映画館でね。
『デアボリカ』とか『ストリート・ファイター』とかブルース・リーの『グリーン・ホーネット』とか…。137その中でひと際印象に残っているのがチャールズ・ブロンソンの『ブレイクアウト』という作品。
「脱獄」の「Breakout」ね。
D_Driveが7弦ギターを使って演奏するのも「Breakout」。
当時、ブロンソンってものスゴイ人気だった。
また、奥さんのジル・アイアランドを出演させては脱がす。
どうしてそんなことをするのか父に尋ねたことがあった。
「キレイなカミさんだから自慢してぇんだろ」だって。136f_2『サブウェイパニック(The Takingf of Pelham One Two Three)』もココで観たな。
ウォルター・マッソーにロバート・ショウにマーチン・バルサムだぜ!
アメリカ映画もいい脚本を書けるヤツがいなくなり、また、こういういい俳優がいなくなってしまって丸っきりダメになってしまった。
原題にある「Pelham One Two Three」というのはニューヨークのレキシントン・アヴェニューの地下を走る「Subway 6」の車輛の名前。
原題は「ペルハム123の分け前」という「地下鉄ジャック」の話。
地下鉄なんて乗っ取ったところで、いつかは地上に上がらなければならないんだから絶対に捕まっちゃうワケじゃない?
ソコがこの話のオモシロいところ。
ところがニューヨークの地下鉄は模倣犯が現れることを恐れて撮影を許可しなかったんだって。
代わりにカナダのトロントの地下鉄でロケをしたそうだ。
ロバート・ショウの最後のシーンね、アレ本当にああなっちゃうのかしらん?
 
コレに関して覚えていることがあって、この映画が封切られる前の1974年か75年の話。
「アナタは眠らないでぶっ続けで24時間映画を観ることができますか?」みたいな映画会社の企画があった。
私は当時まだ子供だったので参加することはできなかったし、そもそも夜に弱いから。
24時間の間に上映される作品は新しいモノではなくて、確か映画ファンなら絶対に観ているような名作ばっかりだったハズ。
そんなだから映画通の参加者たちはどうしたって眠くなる。
その代わり最後まで起きていた人は、ご褒美としてその時はまだ未公開だった『サブウェイパニック』を観ることができる…というさほどありがたくない企画だった。
そういう話題の作品が『サブウェイパニック』だったというワケ。
廃れたとはいえ、まだまだ「映画館で映画を観る」という文化が残っていた時代の話よ。
ちなみに『サブウェイパニック』の音楽を担当したのはデヴィッド・シャイア。

5sp_2コッポラに『ゴッドファーザー』の前年に撮った『カンバセーション…盗聴…(The COncersation)』という作品がある。
この音楽もデヴィッド・シャイアだった。
私は有楽町ではないどこかの名画座で観たんだけど、キッカケはデヴィッド・シャイアがその映画のために作曲したテーマソングだった。
ジーン・ハックマン扮するプロの盗聴屋が、殺人事件に巻き込まれてしまう。
その秘密を知ってしまった盗聴屋は気が付かないウチに今度は自分の素行が盗聴されていることに気づく…この後、何が起こるかは観てのお楽しみ。
コッポラは実にていねいにこの盗聴屋の精神状態を描いていくんだな~。
バツグンにオモシロイよ。
無名時代のハリソン・フォードが悪役でチラリと出て来る。

Cv 
そのプロの盗聴屋が仕事で使うテープレコーダーのリールがユックリ回るようすをデヴィッド・シャイアは変形マイナー・ブルース形式と不気味なピアノのメロディを用いて仕上げてみせた。
この曲をラジオで聴いて大きな衝撃を受け、映画がどうしても観たくなったのだ。
その曲というのがコレ。

日劇の地下には丸の内東宝の他に「日劇文化劇場」という映画館があった。
ココは当時ATG作品を専門にかけていたので、邦画に興味がなかった私には無縁の映画館だった。
ところが中学1年の時にたった1度だけ入ったことがあった。
何を観に行ったのか…?112cそれはザ・ビートルズ。
『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』と『ヘルプ!』と『レット・イット・ビー』の3本立て。
最後に上映した『レット・イット・ビー』の頃には尻の激痛でおおよそ映画どころじゃなかったナ。
ビートルズの映画とは関係なしに、時期的に私はこの頃からロックにノメリ込んで行った。
135f_2<つづく>