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2022年6月25日 (土)

I Remember The Town~私の銀座/日比谷/有楽町<その2>

 
また晴海通りと外堀通りが交わる「数寄屋橋」交差点から。
「ソニービルのアソコ」と言った方が正確にロケーションを言い表すことができるか…?
でも、先日ココを訪れた時、その「ソニービル」はなかった。
もちろん、私が通っていた時代のオリジナル・ソニービルがもう大分前になくなっていることは先刻承知。
その後にできたヤツが「つなぎ」だったとは知らなんだ。
ココに通っていた理由は、とにかく地下にあった中古レコード店の「ハンター」に尽きる。
1階にはプレイガイドがあって、前回紹介した東京交通会館内の店を発見するまで何回かコンサートのチケットを買いに来たことがあった。
そのひとつがカラヤンとベルリン・フィルのチケット。
ある時、前回触れた新聞の三行広告でこのコンサートが開催されることを知った。
値段を見ると、ナント、1回の公演の値段がS席で2,500円!
チャイコフスキーとかブラームスとか、4回の公演すべてが「ベスト・ヒット交響楽」的な内容で矢も楯もたまらず4回の公演全て行くことに決心した。
だって全部行ったとしても10,000円だもん。
「クラシックのコンサートってずいぶん安いんだナァ」と大感激したわ。
しかもカラヤンだし。
それでも「音楽の勉強だから」とかナントカ言ってチョット親に助けてもらったのかな?
そして、チケットの発売日に意気揚々とそのソニービル1階のプレイガイドを訪ねた。
まんまとS席のチケットをゲットして1万円を支払おうとすると、プレイガイドのお姉さんがこう言った。
「どうもありがとうございます!全部で10万円頂きま~す!」
「ハ?1枚2,500円で合計1万円のハズなんだけど」…なんてことはとても恥ずかしくて言えるワケがない。
瞬間的に事情を飲み込むことができた。
例の三行広告の文字があまりにも小さくて「25,000円」を「2,500円」と見間違えたのだ。
赤面!
どうにも恥ずかしくてどうやってその場から逃げたのかは覚えていないのだが、マァ~、おかしいとは思ったんだよね。
一番安い席が5,000円ぐらいだったので、今となってはそれを買ってカラヤンを見ておけばヨカッタかな?とチョット後悔している。
 
とにかく就職して地方に赴任するまでココのハンターでロックとジャズのレコードをたくさん買った。
150同時に13歳の時から頻繁に通ったのが、高速道路の下の数寄屋橋ショッピングセンター(今は「銀座ファイブ」というらしい)の2階にあったハンターの「数寄屋橋」店。
いまだに何人かの店員さんの顔も声も覚えてるな。160インターネットでこんな写真を見つけたので拝借させて頂いた。
なつかしいナァ。
ハンターの数寄屋橋店。
こうしてお店がショッピングセンターの通路に面していて、ロックの中古レコードは写真の真ん中のエサ箱に入っていた。
後にすぐ近くに2号店ができて、そこで長年探していたトニー・ウィリアムスの『Emergency!』を見つけた時はメチャクチャうれしかった。
ココでもたくさん買ったな~。
ずいぶんと無駄な買い物もしたけど、「ああ、あの時買っておいてホントにヨカッタ!」という盤もたくさんウチのレコード棚に収まっている。
5hunこの店で初めて買ったレコードはELPの『Tarkus』だった。
「ミュージックライフ誌の人気投票で最近まで1位だったバンド」ということで聴いてみようと思ったのだ。
確か1,000円だったような気がするんだけど、今から46年前で「1,000円の中古レコード」ってベラボーに高かったような気がするな。
だから繰り返し繰り返し聴いた。Tar銀座ファイブの隣のビル。
コレも建て替わった。
ココには3階ぐらいに「ニュー東宝シネマ1」、地下に「シネマ2」という2つの映画館が入っていた。
170v
「シネマ1」は中型の映画館で比較的話題の作品が上映されていた。
あんまり来なかったけど、『明日に向かって撃て』と『ヤング・フランケンシュタイン』をココで観たのは覚えている。
ジーン・ワイルダーってちょっとニガテだったんだけど、コレはオモシロかったナァ。
監督のメル・ブルックスはコレで名を上げて、矢継ぎ早に『ブレージング・サドル』という作品が公開されたけど、コレはスベったように記憶している。173fそれと、今でも映画の情報を与えてくれる大学時代の友人と『赤ひげ』を観に来たのは1984年のこと。
3時間5分…アッという間だった。
その後、DVDを買って何回観たことか…。
原作より映画の方が出来の良い稀有な作品のひとつ。
杉村春子を大根で殴るシーンの度重なる撮り直しで、東宝の撮影所がある成城地区の八百屋の大根がすべてなくなってしまったのは有名な話。
スーパーの「成城石井」は元精肉店で、黒澤明の成城の自宅で毎夜開かれる宴会に納める肉の売り上げで成長したという記述を最近読んだ。

174f「シネマ2」では『レニーブルース』なんかを観に来たナァ。
印象に残っているのは小林正樹の『怪談』のリバイバル上映。
すでに何回か書いているように私は若い頃は邦画を全く観なかったが、コレを観たのは母のススメだったのかも知れない。
「恵子さんの『雪女』がすごくキレイよ」なんて言っていたような気がする。
岸恵子は、母の父方の従姉なので、映画好きの私にその美しい姿を見せたかったのかもしれない。
確かにとてもキレイだった。

Kd
日比谷エリアから銀座方面を望む。
この景色もずいぶん変わったナァ。

175下は数寄屋橋の交差点で撮られた写真だけど、今となっては古い映画の中ぐらいでしかお目にかかれなくなってしまった。
昔はこの森永キャラメルの地球儀の広告がごく普通に目に入ったものだった。
コレは向こうの方に東劇(松竹の本社ビル)が写っているので1975年以降に撮られた写真。

0hstさて、今度は「日比谷」地区…「東宝村」ね。
もう、このエリアの変わりようたるや悲惨だよ。
180v私が通っていた頃はココから左に「日比谷映画」、右に三井銀行が見えた。
道が曲がっているので奥までは見通せない。
この風景、どこか他でも見たことがあるなと思ったら…190コレだ!
日本堤から吉原大門の方を見る風景。
写真の右側の茶色っぽいマンションにはかつて「松葉屋」という引手茶屋があって、1976年、そこにフランク・ザッパがやって来た。Img_4790帝国ホテルの方に向かって少し入った左側。
ここにはずいぶん立派なビルがあって、1階がゲームセンターになっていた。200_2その向かい…あ~あ~、こんなに変わり果ててしまった。
私はココにあったビルに本社を置く会社に勤めていた。
好きな日比谷に本社があるということで喜んでいたけど、入社してすぐに富山支店勤務を命ぜられ、東京に帰って来たのは11年後。
1年だけココに通勤したが、本社勤めの堅苦しさに耐えられなくて辞めちゃった。220ココには2007年まで「三信ビル」という、1929年(昭和29年)に竣工したこんな立派な建物があった。
せっかく空襲にも耐え、終戦直後にはGHQに接収された。
GHQの本部があった第一生命ビルもすぐ近くなので便がヨカッタのであろう。
でもなくなっちゃった。230そのハス向かい。
今は「日比谷シャンテ」なんてビールの出来損ないみたいな名前のビルがあるところ。
「シャンテ(chanter)」はフランス語で「歌う」という意味ですな。
だからフランス語で「歌」は「シャンソン(chanson)」。
イタリア語なら「カンツォーネ(canzone)」、動詞が「カンタ(canta)」だ。

240昔はこういう景色だった。
「日比谷映画」ね。
日比谷映画は本当によく来たな。
東宝系一番の洋画封切り館だったので話題作ばかりがかかったから。12d初めてココに入ったのは『ボルサリーノ2』だったのかな?
1975年の2月の公開というと…小学校6年生か。
間違いなく1人で観てるんだけど、親が例外的に許してくれたのかな?
しかも、映画の雰囲気を後で味わいたくて、ナショナルの「スタジオ・マック」というラジカセを持ち込んで全編音を録音したことを覚えている。
ん~、アレは小学校年生の時だったのか?
中学2年生ぐらいの時かとばっかり思っていた。
246fh_2コレも私のチラシ・コレクションから。
ね、「日比谷映画」でしょ?
247fh_2ウワ!調べてみるとスゴイわ!
1975年の正月興行だった『007/黄金銃を持つ男』に次いで『ボルサリーノ2』が2月から公開され、3月末には『ジャガーノート(Jagdernaut)』というイギリス映画が日比谷映画で上映された。
この映画はオモシロかったナァ。
リチャード・ハリスっていい役者だよナァ…サウス・ケンジントンのジミー・ペイジの家の前の所有者ね。
「赤の線を切るか、青の線を切るか」ってね。
ハラハラしたわ。
コレ、監督がビートルズ映画を撮ったリチャード・レスターだから映画の作り方が上手だったんだね。

5jn4月末になると、『ヤコペッティの大残酷』という映画になった。
コレは小学校の友達の野村くんと観た。
彼のリクエストだった。
私は自分からはこんなの絶対観ないもん。
「モンド映画」ってヤツ。
「ヤコペッティ」だか「ジャコペッティ」だか知らんけど、この手の映画が一時期ずいぶん出回った。
『グレート・ハンティング』なんてのもずいぶん話題になった。
ものスゴく「時代」を感じるナ。
原題を見ると『Mondo Candido』…「mondo」というのはイタリア語で「世界」という意味で、「Candido」は主人公の名前。
だからコレは「キャンディドの世界」ということになるそうで。
今では問答無用で観ないナ。
5dzk
当然、興行成績が振るわなかったんでしょう、ひと月でヤコペッティが打ち切りになって、鳴り物入りで上映されたのが『オリエント急行殺人事件』だった。
コレも観に行った。
ものスゴイ豪華キャストでずいぶん話題になっていたっけ。
だって、リチャード・ウィドマークにアンソニー・パーキンス、ジョン・ギールグッドにショーン・コネリー、ヴァネッサ・レッドグレーヴにローレン・バコール、イングリッド・バーグマンにジャクリーン・ビセット、マーチン・バルサムにアルバート・フィニーだもん。
「ノーマン・ベイツとアーボガスト」から「ジェイムス・ボンド」に「シェイクスピア俳優」まで出てるんだからスゴイ!
ところが、こうなると決まって映画はツマらなくなる。
名匠、シドニー・ルメットとて同じ。
でも、音楽はヨカッタ。
5oexそれから43年後、また現在の豪華なキャストでリメイクしやがった。
今度はケネス・ブラナー、ウィリアム・デフォー、ペネロペ・クルス、ジュディ・デンチ、ジョニ―・デップ、ミシェル・ファイファー…スケールちっさいナァ~。
コレも飛行機の中で観たのよ。
前にも書いたけど、この作品はプロットが陰惨でニガテなのに加えて、どうにも幼稚な感じがしてツラかった。
飛行機の中でなければ最後までとても観れなかったろうな…。
5oex2『オリエント急行』の次は『アラン・ドロンのゾロ』が来た。
1940年のタイロン・パワーの『快傑ゾロ』の焼き直しで、コレも「昔のゾロの方がヨカッタ…」と父が言っていたような気がする。
要するに今の私と同じよ。
新しいモノには何でも文句をつけちゃう。
でも、能天気でオモシロかったよ。
アラン・ドロンのいい時の終盤だったな。245f『ゾロ』の次には『フレンチ・コネクション2』がかかった。
コレも観に行った。
すごくオモシロくて「ジョン・フランケンハイマー」という監督の名前を一発で覚えた。
ところが…後追いで前作を観たらこの『2』のことはスッカリ忘れてしまったナ。
やっぱり「続編」というモノはムズカシイ。
248fその次もジーン・ハックマンで『弾丸を噛め(Bite the Bullet)』。
コレ、ジェイムズ・コバーンにキャンディス・バーゲンにベン・ジョンソン、ジャン・マイケル・ビンセントといい役者が出ていて、監督もリチャード・ブルックスだったのにちっともオモシロくなかったナァ。
あの薬莢を虫歯に被せるシーンしか印象に残っていない。5btbその次はまたイギリス映画の『怒りの日(The 5th of November)』がかかった。
コレは清々しいぐらい内容を覚えていない。
映画の存在すら忘れていたが、この女王のコインを見て記憶が一気に…蘇らない!
でも日比谷映画で観たことは思い出した。
ナニナニ…ロッド・スタイガーにリー・レミック、エリザベス女王暗殺計画の話?
今観たいじゃないか!
Ih…と、中学1年生のボウズが、1974年12月から1975年10月までの約1年の間に日比谷映画で上映された映画合計8本をすべて観た…というお話でした。

しばらく間を空けて1976年に『ファミリー・プロット』で日比谷映画を訪れた。
初めてロードショウ公開で観たヒッチコック。
まだこの頃はヒッチコックも、ビリー・ワイルダーも黒澤明もまだピンピンしていた。Fp同じ年の暮れ『カサンドラ・クロス(The Cassandra Crossing)』という作品を観た。
ナゼか父と母と3人で観たんだよね。
4歳だった妹はその時一体どうしていたんだろうか?
自由席が混んでいたので、2階の指定席で観たことを覚えている。
幼い頃は父や母が別々に映画によく連れて行ってくれたが、3人一緒に観たのはコレ意外に記憶がない。
そして、どうしてコレを観に行くことになったのかが今でもわからない。
日比谷映画は1984年、数軒先の千代田劇場がその名を継ぐことによって閉館した。
Cc日比谷映画のとなり…あ~あ~、こんなんなっちゃって!250ココには有楽座があった。
有楽座も好きな映画館だったナァ。
写真の左側…地下に映画関連のグッズを売っているお店があって1度だけ入ったけど、ナニも買うモノがなかった。12e有楽座も70mmが上映できる大劇場で、初めてココで観た映画はその70mm作品の『大地震』だった。
1974年の暮れの公開なので、私は小学校6年生だったが、1人で来たのかな?
チョット記憶にない。
下のチラシにあるように「センサラウンド・サウンド・システム」とかいう音響装置が据え付けられていて、地震のシーンでは身体が振動を感じるような仕組みになっていた。
コレも映画自体はあんまりピンと来なかったナァ。
今は大地震がマジでコワくて映画どころじゃないわ。
ホント、地震はイヤだ。255f1974~1975年に大規模な「チャップリン・ブーム」があった。
『モダンタイムス』から、『ライムライト』から、片っ端からリバイバル上映しちゃう。
私はほとんど興味がなかったんだけど、『キッド』だけは有楽座で観た。
ものスゴイ満員だったのを覚えている。

259fそして、1975年の8月、初めて黒澤作品を有楽座で観た。
『デルス・ウザーラ』だった。
今はどうか知らないが、昔は日曜日の一番最初の上映は全席を自由席として開放していたので、遠慮なく2階の一番前の特等席で観せてもらった。
撮影中の逸話が多い黒澤監督。
この作品でも色んな逸話が残っているが、最近知ったのはサーカスのトラでは真実味がないと野生のトラを探して捕獲し、撮影に使ったという。
しかし、そのトラが野生なモノだからゼンゼン言うことを聞かなくて、黒澤さんはトラを相手に怒鳴って真剣に演技指導をしたそうだ。
トラは素直に言うことを聞いたかどうかは知らない。
このチラシもいい加減スゴイ。
役者じゃなくて写真が監督だもんね。
でも、感動したな~。
「カピタ~ン」って言ってね。
それで、家内が「観たことがない」というのでつい最近DVDを借りて来て47年ぶりに観てみた。
家内は涙を流していたが、私は相変わらずオモシロかったものの、感動することはなかった。
コレが歳を取るということなのか…。256f『デルス・ウザーラ』の次にかかった『マンディンゴ』も観に行った。
ジェイムス・メイスン、いいんだよね~。
イヤイヤ、それよりもスーザン・ジョージか!
男子はサム・ペキンパーの『わらの犬』なんて夢中になって観たでしょ?
スーザン・ジョージってイギリスのサーリー(クラプトンやジェフ・ベックの地元)出身だってことをつい最近知って驚いた。
てっきりアメリカ人だと思っていた。
しかも私よりたったひと回り上で思っていたよりずっと若かった。
モハメッド・アリのアゴを砕いてボクシング・ヘヴィ級の世界王者になったケン・ノートンが出演していたことも大きな話題になった。
私はこの映画が結構好きだった。
ところが…これまた最近読んだんだけど、大好きな中村とうよう先生が当時書いたエッセイでこの作品をクッソミソに酷評しているのを知った。
監督は巨匠リチャード・フライシャーなんだけど、劇中の黒人の歴史的な取り扱いがいい加減であるという理由だった。
ま、でも映画としてはオモシロいと思う。

Mdg飛んで1981年。
6月に有楽座に来たのは『エレファント・マン』を観るためだった。
家内との初デートだった…こんなのに連れて来てしまって申し訳ない。
でも、どうしても観たかったのよ。
残念ながらあんまりオモシロくなかったナ。

257f同じ年、もう一度家内とのデートで有楽座へ来た。
『レイダース 失われたアーク』を観た。
コレは文句なしで、家内と夢中になって楽しんだ。
この時が私の最後の有楽座だった。
有楽座がなくなったのは1984年のことだったそうだ。

258f<つづく>