エイドリアン・ブリューを撮ったよ
2013年3月22日 初出
某誌からお仕事を頂戴し、エイドリアン・ブリュー率いるクリムゾン・プロジェクトを撮影してきた。
プログレッシブ・ロック大好き。中学の時からずっと聴いてきた。カンタベリーも行った。
ところが、私がロックに夢中になっていた頃はプログレもすっかり下火だった。中学3年の時、『And Then There Were Three(そして三人が残った)』をリリースしたジェネシスを新宿厚生年金会館へ観に行ったが、他に活動しているバンドはピンク・フロイドぐらいで、高校の時に『Animals』がリリースされてあのヒプノシスのジャケットに感動した。もちろん、あのバタシー発電所も訪れた。
他に活発に活動をしていたのはカンサスぐらいだったかな?でも、アメリカのプログレはどーもねぇ…。
そんな中、キング・クリムゾンが装いも新たに活動を再開し、『Discipline』を発表した。『Red』や『USA』とは趣を異にしたアルバムはポップには聴こえたが、「Elephant Talk」「Thela Hun Ginjeet」に興奮した。
そして、1981年、ついにクリムゾンが日本にやってきた。しかも東京公演の会場は浅草国際劇場。フランク・ザッパも立ったステージだ(前座のひとりは四人囃子ね)。
当時、国際劇場のすぐそばに住んでいたものの、万年金欠病の大学生には大好きなキング・クリムゾンのコンサートに行くお金もなく、憐れにも「少なくともそばへ行けば音ぐらいは漏れ聴こえてくるだろう…」と自転車に乗って国際劇場まで行ってみた。
会場の周囲は待ちに待ったキング・クリムゾンの姿をとうとう目の当たりにしようと興奮している人たちばかりでにぎわっていた。
しばしその場にたたずんでいると、見知らぬ若い男性が近寄ってきて物欲しそうにしていた私に声をかけてきた。
「あの、キング・クリムゾンお好きなんですか?」
「え、まぁ」
「チケットはお持ちなんですか?」
「イヤ、その…お金がないもんですから外で立ち聞きしようかと思って…ハハハ!」
「それでは、このチケット差し上げますよ」
「差し上げますって…そんな、アータ!」
「イエ、構わないんです。(コンサート会場の入口付近で来るお客さんに声をかけている人たちを指さしながら)あの人たちに売るぐらいなら好きな人に聴いていただいた方が私も気が済みますから…」
「エ~、それじゃ申し訳ありませんよ!」と言いつつ、ポケットの中にあった有り金すべて…2,000円をお渡ししてお言葉に甘えてチケットを譲っていただいた。席は2階の一番前だった。
そんなことがあったので、とても印象に残るコンサートのひとつになった。
その時の音源がブートレッグになっている。
「Red」でエイドリアン・ブリューが「アカ」と曲紹介したり、歓声に応えてなかなかステージを降りないブリューをロバート・フリップが半ば強引にそでに連れて行ったり、はじめて見るキング・クリムゾンのコンサートは思ったより柔らかく親しみやすいものだった。
とにかく、演奏がもの凄くウマイのには圧倒されっぱなしだった。
あれから何と32年も経っている!そりゃあ頭もうすくなりゃ、ハラもでるわ…あ、自分のことね。
32年ぶりに見たブリューはとても若々しく、エネルギッシュにクリムゾン・ナンバーをプレイしていた。
もう熱心にクリムゾンをフォローをしていないのでブリュー、トニー・レヴィン、パット・マステロット以外のメンバーのことはまったく知らない。でもみんなアメリカ人でしょ?
ナンカ、違うんだよな~。やっぱりこうした音楽はイギリス人が発明したイギリス人の音楽だと思うのですよ。つまり、キング・クリムゾンの曲はイギリス人に演奏してもらいたいのだ。
またしてもブリティッシュ・ロックの凋落ぶりを眼前で見てしまったような気がした。
今回、クリムゾンのエイドリアン・ブリューというよりも、目の前の人が人類の奇跡、『Sheik Yerbouti』に参加して、「Jones Crusher」や「City of Tiny Lites」を歌っている…ということの方が感慨深かった。
もうひとつ思ったのは、やっぱり音楽って最終的には曲の良し悪しにつきるということだ…当たり前だけど。ロバート・フリップの遺産はとてつもなく偉大だ。