私の萩<前編>
生まれて初めて降り立ったこの空港は島根県の萩石見(はぎいわみ)空港。
いいね~、地方の空港って…広々としていてとても静かなんだよね。
昨今のコロナ禍で羽田から日に2回飛んでいたウチのANAの夕方の便は休航だって。
ホントにANAさんにはガンバって耐え抜いて欲しい。
さもないと長年貯め込んできた私の虎の子のマイレージが水の泡になってしまうからね。 これから向かうのは山口県の萩市。
後で地元の方に訊いてみたところ、東京との行き来には普通宇部空港を使うらしい。
飛行機の運航便数が多いのと、空港にアクセスする道路の便が良いとか…。
ナンノ!萩石見空港は「国内最優秀空港」というANA社内のコンペティションで4年ぶり2回目の優勝を果たしたそうだ。
「安全性」、「定時性」、「快適利便性」の3つのポイントにおいて全空港従業員が一丸となって業務を遂行している姿勢と結果が評価されたとのこと。
前年は最下位だったんだって!…しからば1年間は「危険」で「時間にルーズ」に加えて「不便で不快」だったのか?
空港から萩へのルートもスムーズでとても快適だったよ。
新しい発見もあったし…。空港から萩へは海沿いの国道191号線をひたすら西に進む。
するとすぐに目に飛び込んできたのが「田万川(たまがわ)」という「道の駅」。
時間もあったので道の駅が好きな家内のためにチョット寄ってみたのだが、それからさほど走らないウチに、また道の駅が現れた。
それがこの「阿武町(あぶちょう)」の道の駅。ココがステキでしてね~。
海に面していて実に風光明媚な道の駅なのだ。
温水プールもあるよ。
そして萩の町に入る直前には下の「シーマート」という道の駅。
60kmにも満たない距離に3つもの道の駅がある。
地元の方から教わって調べてみるに、この「道の駅」というプロジェクトは、山口2か所、栃木3か所、岐阜7か所から始まったとあった。
しかも、その山口の2つというのは、さっき寄って来た「田万川町」と「阿武町」なのだそうだ。
コレが新しい発見。このシーマートってのがスゴイんだわ。
魚市場といえば大ゲサだけど、新鮮な魚介類が所せましと並んでいる。
コレは観光客目当てとかいうモノではなくて、完全に近所の人たちが晩ご飯のおかずを買いに来てるてぇヤツ。干物がヤケクソにおいしそうな上にアホほど安い!
大分買い込んでクール便で送ってもらった。
そして東京に帰って食べた。
名物のアマダイもアジも破天荒に美味しかったわ。
こっちの人たち、こんな新鮮な魚を食べていたら東京のスーパーのヤツなんてとてもじゃないけどキモチ悪くて食べられないでしょうね~。
イカもバツグン!
ところで、東京にもたったひとつだけ「道の駅」があるの知ってる?
それはどこか…答えは「八王子」。
もちろん新鮮な海の幸は期待できない。そんな楽しい寄り道をしながらだったのでアッという間に萩の市街に着いた。
町の中心のアーケード。
こいのぼりが沢山上がっていてとても賑やかだが人っ子ひとり歩いていない。
「ジョイフル」だった時からそうとう年月を重ねたのだろうナ。
でも、東京だって似たような商店街がゴロゴロしているからね。 でも、地方の商店街を見て歩くのは楽しい。
こういうお店をみかけるから。
古着にタバコ… 薬屋さんだ。
タバコとクスリを売ってるのか…コレが本当の「二足の草鞋」。
「二足の草鞋」の本来の意味は、相反する2つのことを同時に職業にすることを指す表現。
昼間はオマワリさん、夜はドロボー、とかね。
今は何でも2つの仕事をすることを「二足の草鞋」と言っているが、コレは本当は誤用。
掲げられた古い看板に「大阪武田商店發賣」とあるが、コレはお察しの通り「武田薬品工業」の前身。
「ウロコ印」というのは1898年に登録したその「武田商店」の商標。
薬品業界のことは全く知らないが、この業界も古くから特約店制度を採っていたのか。
こんな金看板を掲げている津田さんはきっと地元の名士なんだろう。
昔は公共性の高いモノは地元の名士や豪商が専売的に取り扱っていた。
肥料なんかがそうだった。
それに目を付けたのがセメントで、今でも地方へ行くと肥料とセメントを販売している古い商店をよく見かける。
コレは「二足の草鞋」ではありません。肥料とセメントは相反していないから。
それどころか原料は同じ「石灰」だから。こんな軒下の装飾なんてモノはいいね~。
「洋行」というのは古い言葉だね。
日本から中国へ進出して商売する連中が自分の会社や商店を「洋行」といった。
だから上海の三井物産は「三井洋行上海支店」といったらしい。コレがその元上海の「三井物産」。
とても美しいビルだった。 「太田洋行」にはこんなアイテムが売られていた。
「源義経の兜」だそう。
ホンモノかな?…なんて志ん生の落語みたいじゃん?ま、あれは骸骨だったけど。
ちなみに昔はセメントのことを「洋灰(ようばい)」っていったんだよ。シャッターが下りていてもやっぱりこういう町並みはステキだね。
町を歩く。
こうした建物を見ていると、いくら歩いていても飽きることがない。
「空襲がなかった」ってステキなことよ。こんな近代的なビルも!
「ヤング・プラザ萩」というシネマ・コンプレックス。
何がかかっているのかというと…「ローマの休日」に「ハリー・ポッター」に「七人の侍」!?
マジか!コレはハンドメイドの帽子屋さん。
雰囲気がオモシロかったので撮っておいた。
筆ペン、習いたいな~。人のことを言えた義理ではないが、萩市長…言われるだろうな~。
もうご自分のアタマを市のアイコンにされていらっしゃるのね?
しかも「田中文夫」さんなんていうオッソロしくシンプルなお名前がスゴイ。
読み間違えられることは一切ないだろうし、綴りの説明がとてもラクそうでうらやましい。
お隣さんと違って、どんなことがあっても会議に遅刻することなどないマジメそうな方だ。
夕方のジョイフル……昼間と何ら変わりがない。
ダイジョブ、ダイジョブ、東京にもこういうところはいっくらでもあるから。その入り口にある「高札場(こうさつば)」。
「高札場」というのは、掲示板を掲げた場所のことね。
新聞もインターネットもなかったから、お上の通達をココに掲げて村人に内容を知らせた。
コレはレプリカだけど、当時の基礎が地中に残っていて、1654年に7枚の高札が掛かっていたことがわかっているんだって。
たとえば「忠孝にはげみ、親子兄弟仲良くすること」。
江戸の昔は「親殺し、主人殺し」なんていったら一発で死刑だからね。
それだけ忠を重んじていた。
「キリシタン禁令」とか「異国船の抜荷禁止」なんてのもあったらしい。
「抜荷(ぬけに)」というのは「密輸」のことね。
当時は抜荷で巨万の富を得る藩もあった。薩摩とか。
ココはそうして村人が集まる場所だったため、「晒場(さらしば)」の機能も持っていた。
つまり極悪人をココで磔(はりつけ)にしたり、獄門で首を晒したりしていた。
ヤダよね、こんな町中に生首が並んでいたら!
町を回って感じたんだけど、コンビ二が大変少ない。
イヤ、東京の多さが異常すぎるんだとは思うけど、ホントに少ないの。
スーパーもほとんど見かけなかったナ。
コレは町の既存の商店の保護を目的に市条例でも布いているのかな?
それで、ナゼかセブンイレブンの看板が赤と緑ではなくて白と黒なんだよね。
コレも景観条例かなんかで定めているのだろうか?
何だったかは忘れてしまったが、他にもが通常は色が付いているのに、モノクロの看板を掲げたチェーン店を見かけた。
スターバックスはどうなっていたかな?…あ、なかったわ。荒川区と一緒だ。私がどうして萩まで来ているのかをまだ書いていなかった。
オリンピックの聖火リレーのイベントに田川ヒロアキが出演するので、Marshall Blogがその取材にお呼ばれしたのだ。
イベントの内容はMarshall Blogでレポートしているのでコチラをどうぞ。
↓ ↓ ↓
TOKYO 2020 OLYMPIC TORCH RELAY<前編>
TOKYO 2020 OLYMPIC TORCH RELAY<後編>さて、見どころ満載の萩。
すこし山の方面に入って見て来たのは「東光寺」。
ココには感動しちゃったよ。
コロナで完全に無人。
チャンと拝観料の300円は入れましたよ。1691年、萩藩三代藩主「毛利吉就」が開いた毛利氏の菩提寺のひとつ。
毛利氏はスゴイからね。
最盛期には山陽道・山陰道10か国と九州北部の一部を領国に置いた最大級の戦国大名。
ところが…豊臣政権の五大老だった毛利家十四代目の当主である輝元が1600年、関ヶ原の戦いで西軍の総大将として担ぎ出されて家康に負けちゃったもんだから周防と長門の2か国以外を全部取り上げられちゃった。
そして、江戸時代には新たに萩に城を作って長州藩(萩藩)となったワケだ。
そしてそれが幕末の倒幕運動の礎を作ることとなった。
山門も立派!
これが本堂。
何の着色もしていなくてヴィンテージ感がすさまじい。本堂の裏に回る。
「四大夫十一烈士」の墓が並ぶ。
盛り上がっていた尊王攘夷の急進派だったが、1864年の禁門の変(=蛤御門の変)と下関戦争(=馬関戦争)の敗北により、長州藩は方針を転換して幕府への恭順姿勢を示すようになる。
一方、幕府の方は第一次長州征伐を実行する直前。
そんな中、禁門の変の責任を問われて合計4人の家老が自刃を命ぜられた。
幕府に対するジェスチャーですな。
その切腹した家老の墓が下の5つのウチの4つ。
向かって一番左は同様に責任を感じて後に追い腹を詰めた「周布政正之助(すふまさのすけ)」の墓。 また、同様に「野山獄(<後編>に登場)」に投獄されて処刑された急進派の尊王攘夷派11人の墓が直角にズラリと並んでいる。
だから「四大夫十一烈士」の墓。そして、この十一烈士の反対側が一大スペキュタクラーだ。
夥しい数の石燈籠。
なだらかな勾配が付いているものだから、見上げると一目ですべての燈籠が目に入って来る。
そして、正面にズラリと並んでいるのは萩藩主毛利家代々の墓。
一番真ん中にあるのはこの東光寺の開祖である長州藩三代目当主の吉就とその正室であった「亀姫」の墓石。
殿の戒名が立派!
「壽徳院殿前二州太守四品拾遺補闕大光元榮大居士」…〆て22文字!
ま、こんな立派なのはどんなにお金を出しても付けてもらえないでしょう。
普通はスタンダード・コースで6文字。
チョット踏ん張って9文字だからね。
一方、亀姫の方は…
「長壽院殿慈雲元輝無相老尼公禅師」で15文字。
吉就は27歳の短命だったが、一方の亀姫は83歳の長寿を全うした。
「老尼」なんて言う文字が入っているのはこのせいかも知れない。
それにしても未亡人生活ナント56年!
寂しかったろうにナァ。
他に五代「吉元」、七代「重就」、九代「斉房」、十一代「斉元」といった奇数代の長州藩当主の墓が並んでいる。
4つ以上あるのは、全て正室の墓とペアになっているから。
こういったことに私は全く浅学でははあるが、番(つがい)で埋葬されているなんて珍しいんじゃないの?
有名な毛利家十二代当主、毛利元就については永井路子という女流作家が何冊か著しているので興味のある人はどうぞ。
大の永井ファンであるウチの正室に言わせるとすごくオモシロいらしい。毛利家は「毛利水軍」という海賊を擁して瀬戸内海の覇権を確立していた。
イギリスもそうだけど、海賊ってのは政府のウラ直轄組織の公務員みたいなもので、エリザベス1世女王の頃、有名なスペインの無敵艦隊(Amada)を駆逐したのも海賊で、コレでイギリスは世界の一等国にのし上がったのだから海賊サマサマだ。
毛利家は海に関連が深かったせいかどうかは知らないけど、何でも亀の上に載っけちゃう。
しかも亀がみんな同じ方向を向いてる。
それとも亀姫の関係かしらん?
いずれにせよ長寿でめでたいモノのアイコンのひとつだったのだろう。
…と思っていたらその通り。
この亀の台座は中国から伝わった「亀趺(きふ)」と呼ばれるもので、亀は「亀は万年」と言われるように長寿の象徴であったことより、亀の台座の上に碑を建ててその碑が未来永劫残るよう願いを込めたのだそうだ。この石灯篭は500基以上あるんだって。
昔は何かの行事の時に火を入れていたのかな?
キレイだったろうな~。
その光景たるや幽玄の極みだったに違いない。
ちなみに初代を含む偶数代の藩主の菩提所は「大照院」というところで、そちらには600基以上の灯篭が並んでいるらしい。
負けた…。
しかし、この東光寺は「黄檗宗(おうばくしゅう)」、大照院は「臨済宗」と宗派が違うのが気になったが、黄檗宗は日本の三禅宗のひとつで、教義、修行、儀礼、布教といった点は臨済宗と同じ。しょっちゅう書いているように私は生まれも育ちも東京なもんだから、幕末の志士ファンというワケでは決してない。
でもね、萩はも~見るところ満載でね、勉強してジックリ見たらとても1日や2日では見切れない。
…ということで急いで次のポイントに移動。
ココはね、42年前に来てるんだよ。
そう、実は高校の修学旅行は山陰&山陽をめぐるコースで、広島・岡山から山口を回ってグルリと鳥取まで周遊したのです。
念願の秋芳洞に行けて、とても楽しく思い出深い旅だった。
今、やって来たのは伊藤博文の生家。
ん?違うな…コレは違う。
「伊藤博文の家」という看板は出ているけど絶対に違う!
42年ぶりでも違うということがすぐにわかる。証拠はコレだ!
下は42年前の私。
伊藤博文の生家の前で、当時の千円札を持って仲良しの安藤くんと撮った写真。
私の髪の毛が妙な形をしているのは、この旅行の数週間前、ライブハウス出たさに学校の記念行事をサボった罰で「アタマを丸めて来い!」といわれ、さすがに坊主頭にはできず、スポーツ刈り程度で勘弁してもらったヤツが伸びちゃったところだからだ。
そのライブハウスというのは、吉祥寺にオープンしたばかりの「シルバーエレファント」だった。
すごく茶色っぽいでしょう?
コレは地毛の色なの。
私はものすごい赤毛で、学校で「黒く染めて来い」と言われたこともあった。
今は真ん中がゴッソリ無くなっちゃったもんだからそんなことスッカリ忘れてたわ。
昔の写真ってのはいいもんだ。
さて、安藤は中2の時にクラスが一緒になって、同じ「映画好き」ということですぐに仲がよくなった。
昔、日刊スポーツが「日刊ゴールデン試写会」っていう映画の試写会をやっていてね、家で日刊スポーツをとっていた安藤が抽選に応募してくれるワケ。
ほぼ毎回当たって内幸町にあるイイノホールによく誘ってもらった。
原田美枝子が『錆びた炎(1977年)』という映画に主演して舞台挨拶に登場したことがあった。
すごくステキだったのを覚えている。
安藤はスゴくてね、いつも何がしかの本を読んでいて、我々が「なんだ?『まつしたむらじゅく』ってよ~?ナショナルかぁ?」なんてやっていたこの修学旅行の時にはもう『竜馬がゆく』を読破していた。
元々フォークが好きで、中2の時にボブ・ディランを熱心に聴いていた。
岡林信康を教えてもらったのも安藤からだった。
Shige Blogで紹介した、1977年に晴海で開催された「ローリング・ココナッツ・レビュー・ジャパン」に誘ってくれたのも彼。
千葉の鹿野山の寺に2泊ぐらいで一緒に座禅を組みに行ったこともあった。
その後、ローリングストーンズに夢中になって、パンク・ロックに傾倒して、音楽の趣味がスッカリおかしくなっちゃった。
でもThe Kinksなんかも聴いていたなナァ。私なんかより全然進んでいた。
日本で知らない者はない大調味料会社に勤めているけど…もう何年かしたら定年だネェ。
人生ってのは早いもんだ。
安藤の奥さんはウチの御台所の短大時代の仲良しということもあって、今でもタマ~に連絡を取り合っている。
Marshall GALAは初回も『2』も両方観に来てくれた。
だからヒロアキくんのステージも経験している。とりあえず中に入ってみる……も~、完全に違う。
と、騒いでいたらボランティアでガイドをしているおジイさんが出て来ちゃった。
このおジイさんがまた説明したくてしたくてしょうがない。
ナニか展示品を見てると、遠くの方から「あ、それ?それはですね~…」と頼んでもいないのに近くへ来て説明してくれる。
ほっといて欲しいわけよ、おとなしく見てるんだから。
も~、お客さんが全く来ないのでヒマで仕方ないワケ。
ま、こっちもどちらかと言えばダマって人の話を聞いていられるタイプじゃないでしょ?
こっちも質問攻めにしてみたよ。
数年前に木曽の妻籠へ行った時、ガイドのお姉さんが藤村の「まだあげ初めし前髪の…」と『初恋』を吟ずるもんだからさ、こっちも「小諸なる古城のほとり…」と『千曲川旅情の歌』を諳んじてみせた。
ガイドさんかなりビックリしていた。
もちろん、藤村なんて私は丸っきり門外漢でせいぜい「蓮華寺では下宿を兼ねた」という『破戒』ぐらいしかチャンと呼んでいない。
で、ココのガイドに確認したところ、この屋敷は伊藤博文が住んでいた品川に移築していたモノなのだそうだ。
道理で…。
じゃ、上の写真の正真正銘の生家はどうなったのか?と尋ねると、私の質問攻めに気分を害したのか「ああ?ありますよ。となり…工事中ですよ」と何やら大変そっけない。それは隣りだって。
改築中で一般公開していないっていうのよ。
ナンだよ。
コレが入り口。
この門をくぐったところで安藤とさっきの写真を撮った。
ガイドジイさんは想像を絶する伊藤信奉者で、3回ずつ同じことを言わないと話が前に進まない。
聞いているとヒロアキくんのリハーサルに間に合わなくなりそうだったので、残念だけど途中で切り上げさせてもらった。さて、ようやく<前編>の最後のセクション。
もうチョットお付き合いくだされ。
萩は世界遺産がゴロゴロしているのね。
といっても、イギリスの「ブレナム宮殿」や「カンタベリー大聖堂」のように「コレ!」っと単体で登録されているワケではなく「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業」という括りの合わせ技で登録されている。そのひとつがこの「恵美須ケ鼻(えびすがはな)」という造船所の跡。
コレには結構感動した。1854年、幕末に通商の交渉をしにロシアからやって来たプチャーチンはアーダコーダと粘っているうちに「安政東海地震」に遭ってしまい、乗って来たディアナ号が大破し、ロシアへ帰れなくなり下田に釘付けになってしまう。
色々やってみるが、結局新しい船を作るしかロシアに変える方法がない。
ところが、日本には外洋を航行するに耐える洋船を作る技術がない。
この辺りのプチャーチンとの交渉にあたったのが時の勘定奉行、川路聖謨(かわじとしあきら)。
その2人の交渉の過程や友情を綿密に描いた作品が吉村昭先生の『落日の宴』。
オモシロいよ。結局、下田の近くの「戸田村(へだむら)」というところに日本の船大工が集まり、ロシア人技師の指導を受けながら洋船の建造に着手する。
ロシア人は日本の船大工の手先の器用さにかなり驚いたらしい。
一方、最初は大きな船の建造には消極的だった長州藩は桂小五郎の意見により洋式軍艦の建造に乗り出す。
萩藩は戸田村の洋船建造の話を聞きつけて「尾崎小右衛門」という船大工を派遣するワケ。
尾崎は洋船建造の技術を習得して、戸田村の船大工を連れて萩に戻り造船所の候補地を探す。
そして、白羽の矢が立ったのがこの恵美須ケ鼻。
ココで「丙辰丸」と「庚甲丸」という2隻の洋式軍艦を作ったっていうんですわ。庚申丸は馬関戦争に出陣してアメリカ軍と戦って撃沈されたが復旧して長州征伐に備えた。
ま、何にも残っていないと言ってもいいぐらいナニもないんだけど、関係する本を読んで現地に来れば話は別。
写真の上の方に小屋が見えるでしょ?
ボランティアのガイドさんが常駐してるんだよ。
ヒマだろうな~。
いいな~、私だったら本を山ほど持ち込んで一日中読んでるわ。さて、戸田村で造られた洋船は「ヘダ号」と名付けられ、プチャーチンはそれに乗ってロシアに帰って行った。
下は今も残る当時の堤防。
下は上野の池之端にある大正寺。
ココに川路聖謨の墓がある。
散歩していて偶然見つけて驚いた。吉村昭にはこの時の造船の過程だけを描いた『磔(文春文庫刊)』という短編集に収録された「洋船建造」という短編もある。
吉村先生の作品は圧倒的に長編の方が読み応えがあって、志賀直哉の「城の崎にて」や梶井基次郎の「檸檬」などの影響を受けているとされる創作の短編は私なんかにはツライ。
先生はあんまり好きで、写経みたいに2人の書いた文章を写したっていうんだよね。
そんな先生の短編でも史実に関する短編はすこぶるオモシロイ。
「洋船建造」もそんな一作。
タイトルの「磔」が気になる人もいるかもしれない。
コレは豊臣のキリスト教禁制下、女子供も容赦なく耳を削がれ、磔にされるために裸足で長崎まで歩かされている26人のキリシタンの話。
知ってる?
コレは世界中のクリスチャンが知っている有名な話なんだよ。次の世界遺産は「萩反射炉」。
反射炉は韮山が有名だけど、近世の日本の反射炉はこの萩のモノと2つかしか現存していないそうだ。
残っているのは反射炉の煙突部分の先の方ね。萩藩が「アヘン戦争」のことを知って海防の重要性を感じ、西洋式の鉄製の大砲を鋳造するためにこの設備を建造した。
うまくいかなかったらしい。裏はこんな感じ。
次の世界遺産は「萩城下町」と呼ばれる古い民家が立ち並ぶエリア。
いいよね~、こういうところを見て歩くのはすごく楽しいね。
見ていて全く飽きない。
一般公開している「菊屋家住宅」というところに入ってみる。
毛利家に取り入っていた豪商の家。
立派なもんです。庭もスゴイ!
でも雨の方がスゴくなって来ちゃった!
イベントが昨日で本当にヨカッタよ。それでも見て歩く。
「景観のため道路標識がありません」という徹底ぶり。
何しろ一方通行の「青地に白い矢印」の標識が立ってないんだよ。
さすが世界遺産の一部。
幕末の有名人ゆかりの建物がズラリと並ぶ。コレは木戸孝允の生家。
高杉晋作の銅像が立っている。
これが生家。
表だけね。
田中義一の生家跡。
陸軍大臣から、昭和2年、第26代内閣総理大臣に就任した人ね。萩観光はまだまだ続く。
<後編>でも世界遺産を紹介します。
42年前の修学旅行の時、こんなに色んな所を見なかったけど…一体ナニをやっていたんだろうね?
(一部敬称略 2021年5月14~15日 山口県萩市にて撮影)