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2022年6月29日 (水)

I Remember The Town~私の銀座/日比谷/有楽町<その3>

 
引き続き日比谷の「東宝村」から。
ココにはかつて有楽座があった…と。

260その向かいに席数1,200の大劇場「日比谷スカラ座」があった。
270このビルの5階ぐらいだったかな?
ココもよく来た。
確か歌手になる前の研ナオコがココで切符のモギリ嬢をやっていたんじゃなかったかしら?261初めてスカラ座に入ったのは小学校6年生の時。
オバさんに連れられて観た『マイ・フェア・レディ』だった。
そのオバさんはとても私のことを可愛がってくれて、『ダーティ・ハリー2』を新宿のミラノ座へ観に連れて行ってくれた際、ロビーでやっていたMGMのモデルガンの即売会で「44マグナム6インチ」を買ってくれた。
想えばずいぶん気前の良いオバさんだった。
そういえば、そのオバさんは一時期、寅さんの「おばちゃん」の三崎千恵子に着ものの着付けを教わりに行っていたっけ。Mflとにかく『マイ・フェア・レディ』は一発で好きになっちゃった。
もちろんサントラ盤も買った。
1984年、大学の4年生の時には、栗原小巻がイライザを演じた舞台を家内と一緒に日生劇場へ観に行った。
ナゼなら家内の親友が「召使いB」ぐらいの役で出演していたのだ。
3人で「Poor Professor Higgins」を歌っていた。
そのヒギンズ教授が神山繁。
ピカリング教授が増田喜頓。
イライザのオヤジさん役が坂上二郎だった。
もうみんな死んじゃった。
さらに、数年前にはロンドンで新しいバージョンの舞台を観た。
何しろ劇場が『マイ・フェア・レディ』の舞台である「コヴェント・ガーデン」の隣の「ロイヤル・ドゥルーリー・レーン劇場」だったので喜びもひとしおだった。0r4a0038ヒギンズ教授の家がある「ウィンポール通り」にも行ってみた。
もちろん実際には家なんかないんだけどね。
アレはジョージ・バーナード・ショウのつくり話だから。Img_0320 あのイライザの衣装をデザインしてアカデミー賞の衣装デザイン賞を獲得した人はセシル・ビートンというフォトグラファーなのね。
ロイヤル・ファミリーの写真を撮っていた人。
ロンドンでこの人の写真展に行った時にもエラく感動したわ。5cb 次…。
中学1年生の時に観た『ウエストサイド物語』…感動したナァ。
当然コレもサントラ盤を買った。
今でも他のバージョンの演奏を聴くことはそう珍しくない。
何しろこのミュージカルに収録されている曲は、ポピュラー音楽において人類が作り得る最高のモノだと私は信じて疑わないからである。
当然、バーンスタイン好きです。でも、自作の交響曲はツライな。
最近スピルバーグがリメイクしたようだけど、全く興味なし。261f『サウンド・オブ・ミュージック』もスカラ座まで観に来たな。
映画自体にはそう感動しなかった。
普通は最後の「Climb Every Mountain」で泣くんでしょ?
一方、音楽にはメロメロになった。

262fそして、『トミー』。
コレも『大地震』同様「クインタフォニック・サウンドシステム」とかいう音響効果を導入して上映された。
劇場内に入るといつものスカラ座とは様子が異なり、四隅に大きなスピーカーが備え付けられていた。
映画が始まって音楽のシーンになると、それらのスピーカーが容赦ない爆音を炸裂させるのだ。
ま~、まだロックに夢中になる前の子供にはうるさいことこの上なかったワ。
オリバー・リードもジャック・ニコルソンも知っていたけど、まだThe Whoも、エリック・クラプトンもよく知らない頃だったからね。
ティナ・ターナーとエルトン・ジョンがカッコいいと思ったのと、今でもよく知らないポール・ニコラスという人が歌う「いとこのケヴィン(Cousin Kevin)」がとても気に入った。
コレもミュージック・テープを買ったナ。
スカラ座も好きな映画館のひとつだった。

263fその隣り。
ココもガラっと変わっちゃったナァ。
中身は同じ「東京宝塚劇場」なんだけど。
終戦後は米軍に接収されて「アーニー・パイル劇場」として営業していたことはつとに有名だ。280ココには残念な思い出がある。
1978年にWeather Reportが来てココで演奏したのだが、それを見逃してしまったのだ。
『Heavy Weather』の頃の一番いい時のメンバーだったからね。
バンドや「ジャコ・パストリアス」の名前は知っていたんだけど、ロックに夢中だった私にはギタリストがいないバンドなどにとても興味を持つことができなかったんですわ。
今でも後悔している。
その「後悔」は絶頂期のWeather Reportを見逃しただけではなくて、宝塚歌劇など見る機会がない私には、その劇場に入る唯一のチャンスだったのだ!
それを逃してしまった。290vその向かいには「千代田劇場」という邦画専門の封切り館があった。
ココだけはキレイさっぱり一度も入ったことがなかった。
邦画専門だったからね。300しかし…ホントに全く変わってしまったナァ。310私の知っている日比谷の映画館街はこうだった。
上の写真と全く同じ場所だとはとても思えない。
そうだよね、突き当りの三信ビルだけでなく、その向こうのツイン・タワービルもなくなっちゃもんね。
5hby反対側は帝国ホテルのウラ。Ih2 帝国ホテルといえばコレだって言うんでしょ?
フランク・ロイド・ライトが設計したことは有名。
関東大震災の時、ライトはホテルが倒壊しなかったことを遠く離れた地で電話で聞いて大層よろこんだとか。
下が犬山の「明治村」に保存されているその旧帝国ホテル。
さすがにコレは日比谷にあった時に見たことがない…と思って調べてみると、1968年に解体しているではないか。
私が6歳の時だもん、見た記憶なんてあるワケがない。315千代田劇場の横の地下には「みゆき座」があった。
「みゆき通り」に面しているから「みゆき座」ね。
330「エマニエル夫人」が公開された時は凄まじい賑わいを見せていた…のを確かテレビで知った。335f多分、初めてみゆき座に入ったのはビリー・ワイルダーの『フロント・ページ』だろう。
武蔵小山の駅前のたい焼き屋のセガレと観に行った。
オモシロかった。Fp2『ピンク・パンサー2』もココで観た。
コレも期待していたよりオモシロくなかったように記憶している。
ピーター・セラーズはスキだけどね。331f『カッコーの巣の上で(One Flew Over the Cuckoo's Nest)』は1934年のキャプラの『或る夜出来事(It Happened One Night)』以来、41年ぶりにアカデミー賞の主要5部門(作品・監督・脚本・主演男優・主演女優)を獲得したことで大きな話題になっていた。
なんでもかんでも文句をつけてナンですけど、コレも特に感動した記憶がないんだよナァ。
『或る夜の出来事』はメチャクチャ良いです。
私、キャプラ好きだから。Ksuみゆき座のすぐ近く、高速道路の下の西銀座デパートの切れ目には昔、「カレーの王様」があった。
ここのカレーがすごく好きで、日比谷でのお昼はいつもココだった。
コレがあったので、日劇の横にあった「東宝カレー」にはあまり行かなかった…というワケ。
「カレーの王様」って昔の方がおいしかったように思うんだけど、今でも好きで見つけると食べたくなる。
でもお店ってまだあるのかな?
外苑前のお店もなくなっちゃったし…。
調べてみると、かつてはカレー粉のS&Bが経営していたけど、2012年に事業譲渡したのだそうな。350さて、日比谷エリアはコレぐらいにして、晴海通りを進み、歌舞伎町の前を通って東銀座方面へ移動しよう。Thumbnail_img_7779歌舞伎座は外国人を連れて一度だけ入ったことがあったな。
「切り売り」みたいなシステムがあって、部分的に一番上の階で見せてくれる…みたいな。
歌舞伎は観たいと思わないんだよナァ。
文化としては大変興味があるんだけど…。
Thumbnail_img_7780こんなのを演っていた。
『ふるあめりかに袖はぬらさじ』という有吉佐和子作の戯曲。
元は有吉自身の「喜遊の死」という、幕末の港崎遊郭(横浜遊郭)でアメリカ人に見初められた喜遊という女郎が、身請けされるよりも死を選んでしまうという悲しいお話。
玉三郎が歌舞伎で演じて人気演目となったようだ。

359v_2 その喜遊がいた「岩亀楼」という遊郭にあった灯篭が現在の横浜公園に残されている。120v 歌舞伎座を過ぎて築地方面へ向かって、中央通りと昭和通りの間にある橋が「三原橋」。
「橋」といっても川はない。
左手にはパチンコ屋があったような気がするな。
向かいには「ビックリ寿司」というのがあって、Marshallの社長他、外国人を何人か連れてきたことがあった。
Thumbnail_img_7835かつてこの橋の下を流れていた川は「三十間堀川」といった。
慶長年間(1612年)に江戸市中に船が入って来れるように作った掘割が三十間堀川で、その川にかかる橋のひとつが三原橋だった。
写真の下が三原橋。Mhb 終戦後三十間堀川は、GHQの指令により戦災の瓦礫の投棄場となり、1952年(昭和27年)に消滅した。
330kb1951年の成瀬己喜男の『銀座化粧』という作品でその当時の三原橋の様子をチラリと見ることができる。Gkココにもかつては「銀座名画座」と「銀座地球座」という映画館があったが私は入ったことはなかった。
この2つは後に「シネパトス」という名称になったらしい。
ココ、ちょっとした名店街みたいになっていたんだよね。
子供の私にはこんなところ用がなかったので1回ここまで降りて来たことがあったかな?…ぐらいの記憶しか残っていない。
そういえば銀座4丁目の裏通りにある「並木座」も入ったことはなかったな。

Mhbc 昭和通りを越えて、首都高を渡ると右手に現れるのが「松竹」の本社ビル。360vこのビルには「東劇」が入っている。
私がちょうど映画を観に銀座へ来るようになった頃にオープンしたんじゃなかったかな?370『新動く標的(The Drowing Pool)』を観に来たのが最初だったかな?365fジョン・シュレシンジャーの『イナゴの日(The Day of the Locust)』もココで観た。
好きな映画だった。
『エアポート'75』の時にカレン・ブラックのことをそう悪く書かなかったのはコレのせい。
ドナルド・サザーランドっていい役者だった。
『針の目』とかいう作品もメチャクチャよかった。
東劇も何回か来たけど他にナニを観たのかサッパリ記憶がない。
366fその向かい。
今はバカでかいオフィス・ビルになっちゃったけど…380ココには「松竹セントラル」という映画館があった。
アレ?ココっていくつか映画館が入っていたのか?
知らなかったのか、忘れていたのか…それさえわからない。
とにかく、入ったことがあったのは一番大きいヤツだけだったな。

382_2『タワーリングインフェルノ』はココで観た。
自由席がギッチギチで無理をして指定席で観たのを覚えている。
中学1年生だったのにネ。ナマイキね。374f何といってもコレか…中学2年生の時だった。
いよいよ「動くツェッペリンを見る」ことができる!と大喜びで観に行ったのはいいけど、ライブ以外の幻想のシーンがあまりにも退屈で呆れてしまった。
そして爆睡した。
すると「Black Dog」が流れて来ていっぺんに目が覚めたような記憶があるな。

375f今度は東銀座方面。
中央通りを神田方面に向かった銀座の一番ハジッコ。
ココには「テアトル東京」と「テアトル銀座」があった。
あ~、ココもこんなんなっちゃって!
悲しいナァ~。390脇の道を少し行ったところの地下にあったのが「テアトル銀座」。
東宝系のどちらかというとB級作品を上映することが多かった中劇場。
何回か入ったけどやっぱりナニを観たのか覚えていないナァ。
400そんな中で忘れられないのが中学校1年生の時に観た『ケープタウン(The Wilby Conspiracy)』というイギリス映画。
「誰が出ているか」以外にナンの予備知識もなく、はたまた観ようと思って行ったワケでもなく、本当にフラっと入って観た1本。
コレがヤケクソにオモシロかった!
まぁ、13歳の子供の感想だから今観たらどうかわからないけど、ひどく得した気分になったことは確か。
シドニー・ポワチエも死んじゃったもんネェ。
405fマイケル・ケインがイギリスでは超大スターだということはイギリスに行くようになってから知った。
「ロンドン博物館」という所に行くとマイケル・ケインの大きなタペストリーが飾ってあって、そこには「地元でエレファント・アンド・キャッスルなんて言うヤツはいない。キャッスルで十分だ」みたいなことが書いてあったのがカッコよくて「さすがスター!」だと思ったよ。
でも、マイケル・ケインの出身はエレファント&キャッスルではなくて、少し離れた「Rotherhithe(ロザーハイズ)」という所であることを知って裏切られた気分になった。Img_8352 一方、表の方。
テアトル東京はこうだった。
1981年10月末の閉館だというから、なくなってもう41年も経つらしい。
もっと大きい感じがしたけど今見るとさほどでもないことに驚く。
でも私の頭の中はいまだにこの景色だよ。
ココはシネラマが上映できる映画館でね、客席と舞台がなだらかなスロープでつながっているのが特徴だった。12j小学校6年生の時に『パピヨン』を観に行ったのが最初。
コレは親戚のオバさんと母と一緒に観たな。
脱獄を諦めて島に残ることを決意した「ドガ」という役を演じたダスティン・ホフマンを指して「ドガがかわいそうだ」と母が何回も言っていたのをよく覚えている。
訊けば多分今でも言うと思う。
私はパピヨンが虫を食べるところがとても印象に残った。
当時、「スティーブ・マックイーンは撮影の時に本当に虫を食べ」た…という話が広まっていたのでとても衝撃を受けた。
それが今では「近い将来、昆虫は貴重なタンパク源」なんてやってるじゃんか?
勘弁してくれよ。
ちなみにアメ横にある「食べる昆虫の缶詰」はタランチュラが最も高価だ。

Pp

ホラ…「ゼブラ・タランチュラ」が2,600円!
サソリもタガメも1,500円!
高いのか安いのかサッパリわからん!
1,100円の「Orthoptera mix」とは「直翅類ミックス」という意味。
豆じゃない!っつーの!
ちなみに「直翅類(ちょくいるい)」というのは、コオロギ、カマドウマ、キリギリス、バッタ…。
コレが日本人の常食になる日が来るかもしれないっていうんだからクワバラ、クワバラ。Tr翌1975年、中学1年生で初めてひとりでテアトル東京に観に行ったのは『ローラーボール』。
なんかボールペンの名前みたいだな。
この前の年ぐらいに「ローラー・ゲーム」というのが世界的に大流行していた。
「東京ボンバーズ」って言ってね、知ってる?
それにヒントを得て作ったのかどうかは知らないが、乱暴ながらとてもオモシロそうな映画だと思ったよ…予告編までは。
殺人OKのローラゲーム。
映画はローラーボールの試合のシーンはかなりの迫力で、鋼鉄の玉がゴールの磁石かなんかに吸い込まれて得点されるところがオモシロかった。
ところが、その試合のシーンのテンションの高さと他のシーンとの落差が大きすぎて映画自体は期待外れだったナ。
コレって確かノーマン・ジュイソンでしょ?失敗したな…。
ウワ!確認してみると、音楽はアンドレ・プレヴィンだわ!
この極悪の殺人スポーツ、舞台は2018年だって…もう過去じゃん!
それを言ったらシルベスター・スタローンの『デスレース2000年』なんかもっと前の設定だもんね。397f1966年公開の『天地創造(Bible)』のリバイバルを観に行ったのは1976年だった。
コレも見掛け倒しの印象だったナ。
ただ大画面を活かした映像はすごい迫力だった。
コレ、音楽が黛敏郎なんだよね。
ナント、この映画の音楽は、当初ストラヴィンスキーに依頼する予定だったらしい。
それがうまくいかず、有名な『涅槃交響曲』を聴いた監督のジョン・ヒューストンの抜擢で黛さんに決まったそうだ。
394f『ディア・ハンター』は1979年か…。
この映画はとても好きだったナァ。
数年前にベトナムへ行った時、猛烈にこの映画のことを思い出したわ。
まこの映画はタイで撮影したんだけどね。395fそして、テアトル東京で観た映画の中で最も思い出深い作品は何と言っても『七人の侍』だ。
1975年9月、豪雨の中父に連れられてテアトル東京へ向かったのだが、どういうワケか父が地下鉄の降車駅を勘違いして、ほんの少し開映に間に合わなかった。
場内に入ると、異常なまでの満員だった。
多分、久しぶりの映画館での上映だったんだと思う。
当時はビデオなんかなかったからね。
上に書いた通り、この劇場は舞台と客席がなだらかなスロープでつながっていたので、私は父が促すまま舞台に上がって、言い換えるるとスクリーンの真下&真横で観るハメになった。
しかし、3時間半、夢中になって観たのを覚えている。
それから一体何回観たかな~。
20回は軽く観ていると思う。
この映画を観ないで死んでいくことほど不幸なことはない…と今でも私は真剣に思っている。
そして、そうして死んでいく可能性が高い今の若い人たちが本当に憐れで仕方がない。
ま、いっくら言っても年寄の言うことなんか聞かないんだけどね。
 
父と2人で観た映画に関しては『七人の侍』が最も思い出深いのだが、他に錦糸町の江東リッツで観た『ポセイドンアドベンチャー』やナゼか新宿まで観に行った『燃えよドラゴン』も印象深い。
両方とも私が小学校4年生の時だった。
『ポセイドン』の時、シェリー・ウィンタースがあの役を得るために故意に太ったという話を父から聞いて驚いたし、映画を観た後、新宿通りを渡る時にブルース・リーのマネをして2人でフザけ合って楽しかった。
私の映画の師匠だった父が死んでから丸7年が経ったが、今でも、あるいは今だからこそ教えてもらいことや聞きたい話が山ほどあるのはナント皮肉なことか…。
396fそのテアトル東京の中央通りを挟んだハス向かい。
ココには「ラ・ボエーム」というチェーン店のレストランがあって、かつてはココでジム・マーシャルを囲んで関係者の夕食会を開いたことがあった。
そのレストランも大分前になくなってしまった。410以上、我が青春の街、有楽町、銀座、日比谷について3回にわたって思い出を綴らせて頂いた。
書いていて実に楽しかった!
 
しかし、残念ながら忘れてしまっていて、どうしても思い出せないことも少なくなかった。
また、書いてはみたものの思い違いをしている個所もたくさんあることだろう。
そうした状態を避けるために、極力インターネットで調べ正確を期したつもり。
何度も書いている通り、私は父の影響で10歳ぐらいの頃から外国の映画に興味を持ち、映画の雑誌を買い求めて夢中になって読み、父が薦めるテレビで放映される映画は間違いなく全部観て、中学に入って、それから映画館に頻繁に足を運ぶようになった。
ところが、今回この記事を書いて我ながらかなり驚いたのは、私が熱心に映画館に通っていた時期は、中学1年生だった「1975年」のほぼ1年限りだったということ。
おっかしいな~、もっと通っていたように思っていたんだけど…。
中学2年生になって、猛烈な速度と情熱でロックに夢中になって行ったんだな~。
そのロックもずいぶんノメリ込んだけど、せいぜい6年ぐらいの間だった。
それだけの期間で蓄えた知識だけで現在も勝負しているんですわ~。
 
とにかく言えることは「仕込みの早さ」ね。
ま、私の場合は全く大したことはないが、「三つ子の魂」で幼い時にいろんな経験をすることが後々どれほど役に立つかということを思い知る。
やっぱり年を取ってからではダメね。
もうひとつ、現在還暦付近の世代までは、映画にしてもロックにしても、TVアニメにしても、昭和までに育まれたエンターテイメントを存分に楽しむことができた最後の人たちだと思う。
「知らぬが仏」ということもあるが、今の若者は本当に気の毒で憐れだよ。
加えて東京生まれで東京育ちというのもかなりラッキーだった。
 
私の「人生交響曲」も「第4楽章」に入ったが、今までのところ後悔することも特にないし、やり直すのも面倒なので「昔に戻りたい」などとはツユほども思わないが、この抗うことのできない「町の変化」というモノに関してだけはどうにも寂しく、昔に戻してもらいたいという願望が募る。
デューク・エリントンに「昔はよかったね」というスタンダード曲があるが、アレの原題を「Things Ain't What They Used to Be」という。
「物事はかつてのモノではない」…「もうあの頃とは違うんだ」ということ。
やはり、歳を取るのは寂しいことなのね?
 
普通の人にとっては退屈極まりない拙文の羅列にすぎなかったと思うが、私個人としてはいつか今回のようなことを書いて、自分の過去を残しておきたいと思っていたのでキッカケを与えてくれたD_DriveのSeijiさんにはこの場をお借りして厚く御礼申し上げます。
 
キッカケとなったそのSeijiさん作のD_Driveの新曲はコチラ⇒I Remember The Town

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